観艦式
ペラルギア港内に整然と並び停泊している艦艇の横を、三隻の艦が進んでいく。二隻目の艦上に立つゴンドールの執政ファラミアの目に、一隻目の艦尾ではためくカントンに白の木をしるした旗が誇らしく映った。ゴンドール王配下の艦艇だと示す旗である。そのゴンドール王エレスサールは今、ファラミアの右隣に立ち、艦列に視線を注いでいる。
「あれが今年就役した艦か?」
間近に迫った艦を見て、エレスサールが言った。「はい」と、エレスサールの右に立つ将官が、張りのある声で答えた。
「ファラストゥアです」
沿岸の支配者——最初の船艦王と呼ばれるゴンドール十二代目の王タランノンが即位後、そう名乗った。名前のとおり、ベルファラス湾の西岸と南岸に勢力を伸ばした王だった。
偉大な王の名を付与された艦は他よりも一回り大きく、威風堂々とした姿を水面に浮かべていた。舷側には水兵が並び、こちらを向いて敬礼している。
「喫水が深そうだが、エシア・アンドゥインは抜けられるのか?」
ファラストゥアを見ながら、エレスサールが訊いた。エシア・アンドゥイン——アンドゥインの河口は川の流れによって運ばれた土砂が堆積し、三角州になっていて水深が浅い。喫水の深い船では座礁の恐れがある。
「はい、大丈夫です」
将官の答えにエレスサールは「そうか」と頷き、舷側の水兵たちに答礼した。その瞬間、水兵たちの間に静かなざわめきが起こった。いや——
ファラミアがそう感じただけだったのかもしれない。けれど、水兵たちの瞳に感激の色が浮かんだのは錯覚ではなかったろう。
兵士の士気を高める観閲の目的はしっかり果たせたようだ。ファラミアは満足した気分で、隣に立つ主の横顔をそっと窺った。舷側の水兵たちを見遣る主の瞳は水面が映り込んだように青く、どこまでも澄んでいた。
◆◇◆◇◆◇◆
観閲を終えたその夜、ペラルギアの街を一望する高台に建つ館で晩餐会が開かれた。エレスサールもファラミアも、軍務の長官や参事官といった事務方とはよく話をするが、同じ軍関係者でも現場の司令役と口を利く機会は少ない。それだけに、彼らと直に接することができた晩餐は有意義な時間だった。格式張った席は苦手と口にするエレスサールも、今夜は将官たちに質問するなど積極的に話を聞いていた。
晩餐の後、一旦部屋へ引き取ったファラミアだったが、翌日の予定の確認にエレスサールの部屋を訪ねた。実のところ、予定の確認を執政のファラミアがする必要もないのだが、主君のそばに長くいたい心が部下に任せる効率の良さより、己に足を運ばせることを選んでいた。
王を迎えるために用意された部屋に入って、最初に感じたのは冷たい風だった。煖炉には火が入っているのにどうしたことかと部屋を見回せば、露台に通じる窓が開いていた。床まである両開きの窓の片側が開け放たれ、その向こう、暗い露台に主の背中が見えた。冷えた風からパイプの香りが漂ってくる。
露台の手すりに寄りかかっているエレスサールはマントを羽織っていなかった。緩くうねった黒髪が風になびいている。彼は北方の生まれで寒さには強いそうだが、見ているとどうにも寒々しくていけない。
「陛下、中へお入りください。風邪を召します」
声をかけたが、「ああ……」と生返事があっただけで、彼が動く様子はなかった。
ファラミアは長椅子の背にかかっていたエレスサールのマントを手に取り、露台へ出た。「失礼します」と主の肩にマントを着せかけながら、暗い街並みを眺めている横顔に問いかけた。
「何をご覧になってらっしゃるのです?」
「いや、何というわけでも……」
青灰色の目をまたたかせながら、物思いから我に返ったような顔でエレスサールは振り返った。
「では何を考えてらっしゃったのですか?」
質問を変えると、エレスサールはちらりと港の方を見遣ってから、ぽつりと言った。
「ああ、船が大型化してきたなと思ってな……」
「そうですね」
ファラミアは頷いた。観艦式で見た新造の軍艦だけでなく、商船も大型化してきている。
「今日見た新造艦——ファラストゥアはエシア・アンドゥインを抜けられると言っていたが、あれより大きくなったら難しくなるだろう。現に、水量の少ないときはエシア・アンドゥインでの座礁を恐れ、遡上を避ける商船もあると、将官たちも話していた」
晩餐の席で聞いた話——しかも初耳——だった。渇水で一時的に水量が減った昨年の夏、大型船はアンドゥインの遡上を避けたという。ファラミアたち国政の中枢にその件が伝わっていなかったのは、まだ大型船の数が少なく、物資の輸送にさほど大きな影響がなかったからだろう。だが、今後はどうか。
指輪戦争の終結から歳月が流れ、人々の生活が安定するとともに、物資の輸送量は増えてきた。荷物が増えれば、必然的に一度に運べる量を増やそうとする。この先、大型船は増えていくだろう。
「エシア・アンドゥインを浚渫するか、ベルファラスかハロンドールに新たな港を設けるか……」
手すりにもたれ、頬杖を突いたエレスサールが考え深げに呟いた。
「同じことを叔父が申しておりました」
ファラミアが応じると、エレスサールは顔を上げた。
「イムラヒルが?」
「はい。ゆくゆくは陛下に進言したいと申しておりました」
具体的に言えば「わしの話が通りやすくなるよう、お前が根回しをしておけ」という要請だったが、詳細を莫迦正直に話すこともない。
「そうか。さすがだな。わたしより物事が見えているようだ」
「叔父は現地の人間ですから、情報が入ってくるのでしょう」
アンドゥインが流れ込むベルファラス湾は、ドル・アムロス大公家の庭も同然だ。
「では、近々イムラヒルも交えて協議を行おう」
火の消えたパイプをくるりと回して、エレスサールが言った。
「叔父も喜ぶでしょう」
所領が海に面しているドル・アムロス大公家は海上輸送を重要視している。
「関連部署との調整も要るな」
「はい。ミナス・ティリスに戻り次第、長官たちに話を通しましょう。ペラルギアのほうへは、こちらにいる間に話をしておきましょう」
「また執政殿の仕事が増えるな」
構いませんよ——そう言おうとしたとき、一際強い風が露台を吹き抜け、ファラミアは思わず身を震わせた。
「大丈夫か?」
気遣わしげな表情を浮かべ、エレスサールがファラミアの顔を覗き込んだ。
「ええ、冷えて参りましたね」
主君の前で寒さに震えるとは失態——とまでは言わないが、望ましい姿ではない。ファラミアは自嘲の笑みを浮かべながら、袖の上から腕をさすった。そんなファラミアの頬にエレスサールの指が伸びてきた。ずっと冷えた露台にいたはずなのに、触れた主の指先には温もりがあった。
「本当に、すっかり冷えさせてしまったな。中に入ろう。執政殿に風邪を引かせては大変だ。わたしが困る」
ファラミアを押しやるように室内に入れると、エレスサールはぴたりと窓を閉めた。先程までファラミアがエレスサールの身が冷えないかと案じていたのに、今やすっかり逆になっている。
野伏として過ごした年月が長い王は、執政家の次男を箱入りだと思い込んでいる節がある。ファラミアとてエレスサールには到底及ばないながらも、野伏として山野を駆けていた経歴があり、少々のことで風邪を引くほど軟弱にはできてないのだが……。
——しかし、これは好機到来かもしれない。
「では——」
無心を装って、ファラミアは主君に問いかけた。
「暖めていただけますか?」
「ああ」
なんの疑いもなく、エレスサールは頷いた。
「煖炉にあたるといい。火酒もある……あっ、温めた葡萄酒のほうがいいな。果実と香辛料を入れて……あれは風邪にも効く。つくってもらおう」
人を呼ぼうとエレスサールが扉に向かって歩き出す。その腕をそっとつかみ、ファラミアは彼を引き止めた。
「どうした?」
怪訝な顔でエレスサールが振り返る。首を傾げた主君に、ファラミアはにっこりと微笑んだ。
「温めた葡萄酒も悪くありませんが、わたしはこちらのほうが……」
痩身を腕の中におさめながら、ファラミアは彼の耳許に囁いた。
「葡萄酒よりもいいですね」
腕におさまった温もりから呆れ声の非難はあったものの、ファラミアの腕が振りほどかれることはなかった。
END