年のはじめの……
一年が終わろうとしていた。新しい年を祝おうと準備する姿が、白の都のあちらこちらで見られる。モルドールの脅威がなくなった今、それら人々の笑顔は明るい。
その賑わいを邪魔しないよう、執政を兼ねるイシリアン公はゆっくりと馬を歩かせた。街に暮らす人々の楽しげな様子は、見ているこちらの心も和ませてくれる。ファラミアの口許は自然と綻んだ。
——陛下のご機嫌はいかがなものか。
城でも新年を祝う式典の準備が始まっているだろう。式典の類を苦手とする主の顔を思い浮かべながら、ファラミアは第六環状区の門をくぐった。
◆◇◆◇◆◇◆
登城の挨拶に国王の執務室を訪れると、立哨の近衛兵から来客があると知らされた。では、控えの間で待っていようと部屋へ入ったところ、扉の向こうから聞こえてきた声にファラミアは眉を顰めた。
「それでですね。やはり、工事を行うには相応の予算が必要かと……」
新年の祝いにかこつけて、陳情や無心目的の招かざる客が訪れるのは毎年のことではあるが、王の執務室まで押しかける無礼者は珍しかった。
——この声は確か……ピンナス・ゲリンのはずれの領主。
声の主を思い出していると、エレスサールの声が聞こえてきた。
「そう言われても困ったな。財務の官吏から話を聞いたのなら、貴殿も知っているだろう。国庫は見事に空だ。逆さに振っても何も出ない」
エレスサールらしいあけすけな物言いに、ファラミアはひっそりと笑みをこぼした。これでは相手の領主も調子が狂うだろう。しかし、国王へ直々に金の無心をする太い神経の持ち主は、王の物言いに引く気配はなかった。
「そこを陛下のお言葉添えでなんとか……」
しつこく食い下がる言葉が聞こえてくる。出ていって追い払おうかと把手に手をかけたところ、それを遮るようなタイミングでエレスサールの声が聞こえてきた。
「なんとかできるものならしてやりたいが、あいにくわたしがしゃべったところで銅貨一枚湧きはしない。アンドゥリルやバラヒアの指輪を担保にしても、予算を賄えるほどの金は借り受けられぬだろう」
先程よりも更に国王らしからぬ発言に、ファラミアは苦笑を漏らした
「そんなアンドゥリルを担保になど……滅相もない。そういうことではなくてですな、その……予算を、どこかからを少し都合していただけないかと——」
神経の太い男も少々動揺したのか、ところどころ言葉が途切れた。それでも要点だけは押さえているのだから、さすがである。
「おお、そうか。それは良い手だな」
わざとらしい程、朗々としたエレスサールの声が響いた。
「さようでございましょう」
我が意を得たりとばかりの男の声が答える。だが、それに続く王の言葉は予想出来なかっただろう。
「確かに、わたしの分の予算をまわせば、工事一件分くらいは工面できる」
執務室に沈黙が下りた。ファラミアは扉のこちら側で額を押さえる。
「……陛下の……分?」
恐る恐る尋ねる男の声に、答えるエレスサールの声は明るい。
「ああ。そうだ。式典の衣装だの装身具だの……、けっこうな予算が組まれている。あんなに必要ないと思っていたから、ちょうどいい使ってやってくれ」
と言われて、はい、ありがたく——などと答えられるものではない。国王の持ち物に手を付ければ、それだけで叛意ありと見なされる恐れがある。予算も同じだ。ある意味、臣下を試す言葉である。少なくとも、扉の向こうにいる男はそう受け取っただろう。
ただし、エレスサールに限って、そんな心配はするだけ無駄だ。本心からの言葉に相違なく、だからこそタチが悪いとも言える。ファラミアは扉を開けた。
「それはなりません。陛下」
低いテーブルを挟んだ長椅子に、部屋の主と客は腰を下ろしていた。
「ファラミア」
控えの間の気配は察していただろうに、エレスサールは僅かに驚いた表情を浮かべ、こちらを向いた。それ以上の驚きで振り返ったのは、無心していた男だった。思ったとおり、ピンナス・ゲリンのはずれの領主だった。ぎょっとした表情を隠しもせず、ファラミアを凝視している。
「失礼。話が聞こえましたので」
無礼をにこやかに詫び、ファラミアは長椅子へ歩み寄った。慌てたように男が立ち上がる。
「主君の予算を割いて事を為すなどという臣下にあるまじき考え、貴殿は持っていないでしょう」
穏やかに尋ねると、男は上擦った声を出しながら頷いた。
「そ、そのとおりで……」
「何やら要り用のようだが、今は国庫も苦しいとき。必要ならば財務の官吏もぞんざいな扱いはしないでしょう。話はそちらを通すように」
話はこれで終わりだと告げ、扉を目で指す。男はおずおずと部屋を出て行った。
「——助かったよ」
長い腕をぐっと伸ばしながら、エレスサールが言った。
「もっとはっきりとお断りになったらいかがですか」
ファラミアの言葉に、エレスサールはちらりと目だけを動かしてこちらを見た。
「アンドゥリルで脅してもいいなら……」
そんなことをされたら困るだろう、というわけだ。実際に剣を振り回されては、いくら王でも問題になる。また、実行しかねない——というか、過去に一度実行している——あたり油断ならないが、そんな手段を取らなくても対処出来るはずだ。ファラミアはにっこり笑った。
「そのようなことをなさらずとも、お断りになれるでしょう」
「苦手なんだ」
子供のような口を利いて、王は肩をすぼめた。
「執政殿のように器用でないから」
顎を引いた俯き加減の上目遣い、拗ねと甘えがない交ぜになった青灰色の眼差しがファラミアを捕らえる。これを無意識でやるのだからタチが悪い。ファラミアは皮肉げに目を眇めた。
「そのような偽りをおっしゃっても騙されませんよ。陛下が器用なことは存じております」
長年、単身で旅をしてきた影響からか、エレスサールは多弁ではない。しかし、二十歳まではエルフの智恵者の下で暮らした。そのため、礼儀作法はもちろん、社交術は身に付いている。婉曲な物言いも、やろうと思えば出来るのだ。先程のような手合いを、それとなく追い払う術も知っている。それを滅多に使わないのは——、
「偽りとは酷いな。確かにやってやれないことはないが……、疲れるんだ」
これが理由らしい。エレスサールは曖昧に笑った。この笑顔が曲者なのだ。
「今の時期はさっきみたいな客が増えるから、気が滅入るよ。だから——」
そう言って首を傾げ、窺うような視線を投げかけた王に、ファラミアは満面の笑みを返した。
「では、沈んだお気持ちが晴れやかになるよう、式典は華やかに執り行いましょう」
「ファラミア……」
がっくりとエレスサールは項垂れた。
「わたしは式典も気が重いんだが……」
わかっているだろう、と恨みがましい視線が向けられる。ファラミアはそれを見ないように注意して、ぴしゃりと言った。
「気が重くてもご公務です」
「それはわかっているが……」
「おわかりいただいているなら、宴を途中で抜け出したり、一般解放した城塞から民に紛れて城下へ出たりなさいませんよう」
過去にあった事例を挙げて釘を刺すと、エレスサールは長椅子の上でしおれてしまった。
「ただし——」
ファラミアは一旦言葉を切って表情を緩めた。
「陛下が滞りなく一連の行事をこなしてくださいましたら、二、三日のお休みを予定しております。寒い季節ですが、お望みでしたら遠乗りにお出かけになってもよろしいですよ」
ぱっとエレスサールの顔が上がった。
「本当か……?」
掠れた声が尋ねる。
「わたしが嘘を申したことがございましたか?」
「いや……」
青灰色の瞳に浮かぶ光が、驚愕から喜びに変わっていく。
「ありがとう。ファラミア」
そのうれしそうな顔といったら、日常的に彼と接している己でさえ眩しいほどだった。提案して良かったと心底思う、と同時に改めて、彼が真に望むものを思い知らされた。
それは奢侈な暮らしでも華美な衣装でも、ましてや人を跪かせる位でもない。行動の自由だ。己の意思でどこへでも、どこまでも駆けていく——ただそれだけ。それを阻み、奪っているのはゴンドールの国民であり、その最たる者はファラミアだ。
エレスサールは自分で望んだ地位だと言うが、果たして本当にそうだろうか。求める人々の声がなければ、留まらなかったのではないか。彼の控えめな人柄は、接する時が経つほどに、その疑念を濃くしていく。
もっとも、ファラミアには彼を手放す気は微塵もない。たとえ、エレスサールが野に戻ることを望もうとも——。この身が枷ならば、枷で良いとさえ思う。王という名の虜囚をつなぐ枷ならば上等だと……。
「——ファラミア」
暗い淵に落ち込む思考を、主君の声が遮った。
「一連の行事が終わった頃となると、ちょうどイシリアン公が領地へ戻る頃だな」
「ええ、そうですが。陛下がお出かけになるなら、わたしはこちらに居ますよ」
「そうなのか」
エレスサールは残念そうな顔になった。
「あなたがエミン・アルネンへ戻るとき、同行しようと思ったのだが……」
「それはどういう……」
「遠乗りにちょうど良い距離だろう。二、三日なら、都を空けても大丈夫だろうし、一緒にどうかと思ったんだが」
確かに距離はちょどいい。二、三日なら王と執政が揃って留守にしても問題はないが……。
「しかし、口うるさい執政の顔を眺めていては休暇にならないでしょう」
ファラミアが自嘲気味に笑うと、エレスサールは意外そうに首を傾げた。
「あなたを口うるさいと思ったことはないが……。それを言うなら、さっきの男のほうが余程うるさかったぞ」
その言葉にファラミアは小さく吹き出した。
「あのような者を引き合いに出されても、素直に喜べませんが。陛下が構わないとおっしゃるなら、喜んでご一緒させていただきます」
「ありがとう。ついでにイシリアン公の館に泊めてくれ」
「それはもちろん。ですが、本当によろしいので?」
ファラミアは念押した。目の届くところに居て安心させよう——、そう気を遣っているのではないかと思うのだ。しかし、そんな愚かな疑いを払拭するように、エレスサールは笑った。
「ああ。新年の休暇をアンドゥインの東で過ごす——、国の復興を象徴するようでいいと思わないか?」
片目を瞑った主のいたずらっぽい表情に、ファラミアは微笑んで頷いた。
「では、そのように手配させていただきます」
「楽しみにしているよ」
王のにこやかな笑みを好ましく眺めながら、ファラミアは言質を取ることを忘れなかった。
「その楽しみのためにも、一連の行事に関してはくれぐれも……」
「わかった。おとなしくしているよ」
エレスサールは諦めたように笑った。その笑顔に一礼し、ファラミアは退室した。
廊下を歩きながら、彼の休暇までに、こちらも出来るだけ仕事を片づけておこう——式典より先の予定に頭を巡らす。王の休暇を楽しみにしているのは、エレスサール本人より自分かもしれない。少々、皮肉な視点で自身の裡を眺めながら、普段より軽い足取りでファラミアは歩いていった。
END