中天を通る金の実の位置が高くなり、夜の時間が短くなる季節、ゴンドールの王都ミナス・ティリスは、どことなく浮ついた空気に包まれる。国王エレスサールの戴冠と成婚を記念する式典が、合わせて執り行われる季節だからだ。救国の英雄と美しいエルダールの妃を祝うのだから、人々の心が浮つくのも無理はない。
しかし、浮き立った空気が城内を漂う中、ため息を吐く人物がいた。それはなんと、式典の主役であるエレスサール王、その人だった。
エレスサールは戴冠するまで野伏の長であり、山野を駆ける身だった。そのせいか、華やかなことを苦手としている。王位に即いて五年目になるが、いまだに慣れないでいるらしい。
「——ファラミア」
「はい、陛下」
「重い」
仕立て上がった衣装に袖を通したエレスサールがぼそりと言った。式典用の衣装はどれも布がたっぷり使われている。それが二枚三枚と重ねられれば、確かに重いだろう。衣装によっては貴石や玉が縫い付けられているから、重さはいや増す。エレスサールの普段着が王らしからぬ軽装のせいもあって、余計に重みを感じるのかもしれない。
だが、同情していては式典の準備が滞ってしまう。だいたい、いくら前身が野伏だったからといって、いつまでも堅苦しい衣装を敬遠されてはこの先困る。少しは慣れてもらわねばと、ファラミアはわざと素っ気ない言葉を口にした。
「鎧よりは軽いとお見受けしますが」
「当たり前だ」
エレスサールはおもしろくなさそうにファラミアを見た。
「だいたい鎧より軽かろうと、そんなことは関係ない。野伏だったとき、わたしは鎧なぞ着ていなかったんだから。鎧を身につけていたのは、あなたがた南の野伏だろう」
「そういえばそうですね」
「だから——」
エレスサールが続きを口にするより早く、ファラミアはこの五年、繰り返してきた台詞を唱えた。
「ですが、あなたは既に野伏ではなく、王であらせられるのですから、相応しい格好をなさってください」
ムッと唇を引き結んだエレスサールだったが、すぐに口許を緩めた。
「まったく……執政殿には敵わないな」
軽く肩を竦め、小さく息を吐く。どうやら抵抗するのを諦めたようだ。
「では、帯を締めさせていただいてよろしいでしょうか」
ファラミアは衣装掛けにかかっていた幅広の長い帯を手に取った。
「ああ」
エレスサールは仕方なさそうに頷くと、長い袖の端を持って両腕を上げた。積極的ではないが、協力的ではある。こうして折れるのなら、はじめから試着に協力しておけば良いのにと、いつも思うファラミアだった。
「それにしても、こんな帯の結び方まで知っているとは……。執政殿はなんでも器用にこなすな」
エレスサールが感心したように言った。彼が“こんな帯”と言ったように、手にしている帯は少々変わっていた。ベルトよりずっと幅広で、布なのに芯が入っているように硬い。臙脂の上衣を引き立てるように黒地の帯には銀の刺繍が刺してある。その図柄を見せるように結ぶのだが、コツをつかまないとなかなか難しい。
執政職にあるファラミアが自分の衣装でもないのに、なぜ風変わりな帯を結べるようになったかと言えば——、
「陛下が仕立て屋や着付け係に駄々をこねてくださったおかげです」
エレスサールが一旦気に入らないと決めた場合、説得するのに時間がかかる。仕立て屋や着付け係が何を言おうと、絶対にその身に触れさせなくなる。エレスサールが逃げまわるまでもなく、王が拒否すれば近づけなくなるのが民というものだ。
そういう事態に呼ばれるのは執政職を務めるファラミアだった。主君を説得し終わるまでの時間——というか、エレスサールに抵抗を諦めてもらうまでの時間と言ったほうが正しいか——、仕立て屋や着付け係をその場で待たせておくわけにもいかず、退出させていた。主君が衣装替えを嫌がって駄々をこねる姿を見せたい臣下はいない。
そんなことを繰り返すうちに、自分が着付けを覚えてしまえば、仕立て屋や着付け係に二度手間を踏ませずに済むという結論にたどり着いた。おかげで新しい衣装の着付けは、エレスサール本人より早く覚えてしまうことになった。
「……どういう意味だ」
エレスサールが低い声で唸った。
「おや、お心当たりはございませんか」
エレスサールは忌々しげに息を吐いたが何も言わなかった。ファラミアはくすりと笑い、シュッと帯を滑らせながら、結びの仕上げに入った。
「——ふむ、いいですね」
帯を結び終わって形を整え、エレスサールの正面に立った。臙脂色の衣装に銀糸で文様を刺された黒襟、そこに同じく銀糸で図案が刺された黒帯——纏っているのがエレスサールとくれば、見映えの良くないわけがない。満足げに頷くファラミアに向かって、主君が言った。
「……ファラミア、苦しい」
「では、解きましょうか」
もう少し眺めていたいが、苦しいと言われてしまっては仕方がない。ファラミアの申し出にエレスサールはこくりと頷いた。
「失礼します」
シュルリと結び目を解く。はらりと帯の黒い布地が垂れ下がり、補助に使ってあった紐が床に落ちた。
「そういえば、陛下」
落ちた紐を拾って、ファラミアは言った。
「なんだ」
「この帯、結ぶときは手間ですけど——」
言いながら、ファラミアは帯のある箇所をしっかりつかんだ。
「解くときは一息にほどけるんです」
そう言って、つかんでいた部分をさっと引く。身の危険を感じたのか、エレスサールはそそっと後退さった。けれど、それが彼の状況を悪くさせた。エレスサールがファラミアから遠ざかろうとするだけ、帯はしゅるしゅると解け、ついには彼の身をくるくると回転させた。
「……ファラミア」
二回りほどしたおかげでよろめいたエレスサールは、バランスを取るように柱に手を付き、ぎろりとファラミアを睨んだ。
「なんでしょう」
「楽しんでいるだろう?」
いつもは涼しげな青灰色の目が、じっとりとファラミアを睨みつけている。
「いいえ」
今勢いがついたのは偶然ですよと、ファラミアはにっこり笑って否定した。もっとも、ファラミア自身が白々しいと思う言葉をエレスサールが信じるわけがない。眉を僅かに上げた主は、青い瞳に強い意志を込めて言った。
「この服は絶対に着ない!」
子供染みた宣言がおかしく、ファラミアは吹き出しそうになるのを必死に堪えた。
「さようでございますか」
帯を衣装掛けに戻し、笑いの発作がおさまったところで、エレスサールを振り返った。
「今後お召しにならないのでしたら、少々汚れても構いませんね」
上衣を脱ごうとしていたエレスサールが怪訝な顔で首を傾げる。ファラミアの言葉の意味を計りかねているようだ。こういう部分の鈍さは相変わらずだと思いながら、ファラミアは彼にもわかる言葉を紡いだ。
「人払いはしてありますし、楽しませていただきましょう」
途端、愛しい主君は重い上衣を脱ぎ捨て、さっと露台へ駆け出した。けれど、上衣を脱いだところで、式典用の衣装には違いない。裾の長い衣装は彼の動きを妨げ、ファラミアがその袖を捕らえる助けをした。袖を引かれて転びそうになる痩身を抱えながら、そのまま床へ引き倒す。
「ファ、ファラミア」
「はい」
「いくらなんでも、試着で汚すのはまずいと思うのだが」
エレスサールは引き攣った顔で肘を突っ張らせ、必死にファラミアの胸元を押し返している。
「ですが、もうお召しにならないのでしょう?」
「いや、着る。さっきのは取り消す。せっかく仕立ててもらったのだから、やはり着なければ」
必死に言いつのる姿がおかしく、ファラミアは笑みを深くした。
「さようでございますか」
それだけ言って立ち上がり、エレスサールの手を取ってその身を引き起こす。
「では、この続きは暗くなってからさせていただきます」
エレスサールはため息を吐き、理解不能といった態で首を振った。
「あなたのそういう面での趣味の悪さだけは理解できないよ」
呆れた調子でこぼされたが、それが了承の言葉だとファラミアは知っていた。
END