とまり木
「失礼。お出かけでございますか」
ソロンギルが執政エクセリオン二世の執務室を訪ねたところ、部屋の主は出かける支度をしていた。
「なに、孫の顔を見に行くだけだ。急用か?」
「いえ。南イシリアン調査の報告でございます」
今や闇の勢力の手に堕ちたアンドゥインの東岸。それをイシリアンの野伏たちが懸命に探った。戦いに情報は不可欠だ。
「そうか。ならば、ちょうど良い。一緒に来い」
報告書を受け取ったエクセリオンが、その手でソロンギルを促した。
「しかし、お邪魔ではありませんか?」
エクセリオンの孫と言えばボロミアだ。それはエクセリオンの子息であるデネソールと、その奥方のフィンドゥイラスを訪ねることを意味する。“家族の場”に顔を出すのは憚られる。だが、エクセリオンは何を今更という顔で笑った。
「邪魔ではないから『来い』と言うておる」
「ですが……」
「ドル・アムロスの大公も逗留中だ。アンドゥインの東と西、両方の状況が一度にわかって好都合であろう」
渋るソロンギルに構わず、エクセリオンは歩き出した。
◆◇◆◇◆◇◆
白の塔の大将、デネソールの館で二人を出迎えたのは侍女だった。フィンドゥイラスは体調が優れず休んでいるという。見舞いの言葉を述べていると、足下から舌足らずな声が聞こえた。
「そよんぎゅ」
金の髪に緑の目をした子供、ボロミアだ。未来の白の塔の大将であり、ゆくゆくは彼が執政位を継ぐことになる。ソロンギルは侍女の脇から顔をのぞかせている幼子の前に跪いた。
「ごきげんよう」
手を差し伸べると、ボロミアの小さな指がつかんだ。うれしそうなはしゃぎ声が上がる。
「ボロミアはソロンギルが贔屓か。不敗の将軍を贔屓にするとは目が高いな」
エクセリオンが笑いながら、幼子を抱き上げた。しかし、ソロンギルに手を伸ばしていたボロミアは不機嫌な声を上げた。
「やぁー、そよんぎゆ!」
「なんじゃ。つれないのう。じじよりも星の鷲か」
エクセリオンはそう言いながらも頬を緩め、ソロンギルの腕にボロミアを抱かせた。
「そよんぎゆ」
ボロミアがソロンギルの服をきゅっと握り締める。
「すっかりご執心だな」
剛胆で磊落な上、冷徹さも合わせ持つ執政も、孫の前ではすっかり好々爺だ。そこへ、もう一人のボロミアの祖父から声がかかった。
「これはこれは、執政閣下を誰が引き留めているかと思ったら、ボロミアだったか」
ドル・アムロスの大公アドラヒル、フィンドゥイラスの父親だ。
「おお、アドラヒル殿。待たせてすまぬ」
「なに、構いませぬよ。孫のかわいさには勝てませぬからな」
「いや、まったく」
国政の大物二人が孫一人に相好を崩し、顔を蕩けさせる。一兵卒には想像できない光景だろう。
「では、名残惜しいが参るか」
「はい」
ソロンギルは抱いていたボロミアを侍女に渡そうとした。だが、ボロミアはソロンギルにしがみついて離れようとしない。
「いけません、ボロミア様」
慌てた侍女が懸命に離そうとしたが、それが失敗だった。ボロミアの喉が「うっ」と詰まった音を立て——
次の瞬間、建物中に幼子の泣き声が響き渡った。
◆◇◆◇◆◇◆
開け放した窓から入る心地よい風が頬を撫でた。
「気持ちの良い風でしょう」
ソロンギルは膝の幼子の髪をそっと撫でた。泣き止んではくれたが、緑の双眸はまだ潤んでいる。
「わたしはボロミア様の相手をしております。しばらくすれば落ち着いてくださいますよ」
一旦勢いよく泣き出した幼子は、若い侍女が宥めて止むものではなかった。泣く子には勝てない。結局、ソロンギルがしばらく子守りをすることで、あの場が収まった。調査報告については、エクセリオンに報告書を渡した。口頭の説明はなくても把握は可能だ。
侍女は中庭に面した部屋へ案内しながら、しきりに恐縮していたが、ソロンギルは実のところほっとしていた。執政と大公と、執政の子息でありこの館の主デネソール——の三人に囲まれて小難しい話をするのはぞっとしない。特に、ボロミアの父親であるデネソールとは何から何まで合わなかった。
「子供を手懐けるのもお手のものか」
けたたましい泣き声を聞いて階段を降りて来た子供の父親は、通りすがりに棘のある言葉を囁いていった。
「そよんぎゆ?」
もの思いに捕われていると、膝の上から訝しむ幼子の声が上がった。
「ああ、すみません。退屈させてしまいましたね。散歩にでも参りましょうか」
「……さんぽ、さっきした」
まだ機嫌が直ってないのか、子供は素っ気ない返事をした。
「そうですか……」
散歩は既に済んでいるとわかって、ソロンギルは困った。
——さて、どうするか……。
なぜか、ボロミアに懐かれているが、実のところ子供の扱いに長けているわけではない。どうやってあやせばいいのかなど、見当もつかない。裂け谷で過ごした幼少期の記憶と、野伏の村で目にした子育ての様子を必死で思い出す。
「ええっと……では、歌はお好きですか?」
窺うように尋ねると、幼子はぱっと顔を上げた。
「うた、しゅき。ははうえのうた」
とりあえず、興味は持ってもらえたらしい。成功するか否かはわからないが……、
——やるだけやってみるか。
「では、お聞かせしましょう。フィンドゥイラス様ほど上手ではありませんが」
ソロンギルは幼子に微笑みかけ、昔、己が膝の上で聞いた旋律を口ずさみ始めた。
◆◇◆◇◆◇◆
「不敗の将は泣く子にも負けぬか。そのほうに歌の才があったとは知らなんだ」
白の塔の大将の館を辞去し、エクセリオンの伴をして城に戻る道すがらだった。
「お耳汚しでございました」
聞こえていたのかと思いながら、ソロンギルは軽く頭を下げた。
「なんの——」
エクセリオンが愉快な声を上げた。
「アドラヒルなぞ、心地良げに舟を漕いでおった。おかげで話にならなんだが」
「それは……失礼つかまつりました」
執政と大将と大公という、そうそうたる顔触れが揃った会談の意外な内幕を明かされ、ソロンギルは言葉に窮し、結局無難に頭を下げるに留めた。
「デネソールが欠伸を噛み殺すさまも傑作だった。あんな姿は子供の頃以来だ」
エクセリオンは磊落に笑った。
「どこぞの海に、歌で船乗りを惑わすあやかしがおると聞いたことがあるが、それに匹敵するな。海賊討伐には軍を動かすより、そのほうを舳先で歌わせたほうが良いかもしれん」
「……お戯れを」
「いやいや、戯れではないぞ」
執政の顔に含みのある笑みが浮かぶ。
「寝付けぬときは寝所に呼びたいくらいだ。その辺の女の歌声より余程いい」
「閣下、冗談が過ぎます」
ソロンギルの口から思わずため息が漏れる。エクセリオンはおかしそうに肩を震わせたが、不意に表情を引き締めて城塞に歩み寄った。
「ソロンギル」
声の調子も先程とは違い、厳しい響きになっている。
「王宮に心安らぐ場所はなく、流浪の身には栄華も空しい——か?」
いきなり言われて、ぎくりと身体が震えた。
「……ただの歌でございます」
エクセリオンの指摘は、ボロミアに聞かせた歌の内容だった。
「何も含みはございません。お気に障りましたこと、お許しください」
ソロンギルが跪くと、エクセリオンは「構わぬ」と言い、立つように促した。
「事実、この城では心の底から安らぐことは難しい」
「何を仰せになられます」
「わしがそうだからだ」
エクセリオンはわずかにソロンギルを振り返り、すぐに城塞の外へ顔を向けた。その目は影の山脈を見ている。
「あの影が日に日に伸びる一方では、心が休まることもない」
「閣下……」
「政を執っているとな、おのずと限界を感じるのだ。わしでは民の心に安らぎは与えてやれぬと」
「何をおっしゃいます。閣下がいらっしゃるからこそ、闇の勢力から、この都もゴンドールも、守られているのではありませんか」
「慰めは要らぬ」
「慰めなど申しません」
語気を強めると、エクセリオンは「ムキになるな」と笑った。
「わしに何も出来ぬと言っているわけではない。出来ることもある。——“鷲”に翼を休める場所を与えてやれるのは、そのひとつだな」
「……閣下」
言葉を失ったソロンギルの前を、城壁を吹き上がってきた強い風が吹き抜けた。
「好きなだけ休んでいくが良い」
エクセリオンが身を翻し、ソロンギルの脇を通り抜ける。
「伴は要らぬぞ」
ソロンギルは何も言えず、その場に立ち尽くした。執政が単身で歩いていくのに気づいた衛兵が、慌てて付いていく。その姿が建物に入るのを見届け、ソロンギルは背後を振り返った。
——モルドール。
その空を覆う黒い影は、エクセリオンの言葉どおり日増しに伸びている。それは同時に冥王の力が増していることを意味する。
——あの影こそ、翼だな。
巨大な化鳥の黒い翼。消える日など来ないかのような存在感だ。力あるものですら見極められぬ未来に、ソロンギルは深いため息を落とすのみだった。
END
「王宮に心安らぐ場所はなく、流浪の身には栄華も空しい」という歌の内容は「HOME SWEET HOME(邦題:埴生の宿)」を参考にしました。
手許の訳詞は下記のとおり。
'Mid pleasures and palaces tho' we may roam,
Be it ever so humble, there's no place like home.
(中略)
An exile from home splendour dazzles in vain.
Oh, give me my lowly thatch'd cottage again!
The birds singing gaily, that came at my call
Give me them with the peace of mind dearer than all.
Be it ever so humble, there's no place like home.
(中略)
An exile from home splendour dazzles in vain.
Oh, give me my lowly thatch'd cottage again!
The birds singing gaily, that came at my call
Give me them with the peace of mind dearer than all.
手許の訳詞は下記のとおり。
歓楽の巷や宮殿に遊ぼうとも
たとえどんなあばら屋でも、我が家にまさるところはない。
(中略)
家を離れた流浪の身にはこの世の栄華も空しいもの。
あの粗末な草葺きの家をもう一度与えておくれ。
訪ねるたびに陽気に歌う小鳥たちを、
何にもまさる心の平安と共に私に与えておくれ。
たとえどんなあばら屋でも、我が家にまさるところはない。
(中略)
家を離れた流浪の身にはこの世の栄華も空しいもの。
あの粗末な草葺きの家をもう一度与えておくれ。
訪ねるたびに陽気に歌う小鳥たちを、
何にもまさる心の平安と共に私に与えておくれ。