Pillow
夕食後、ボロミアは一通の稟議書に目を通し、ペンを走らせた。
——ご一考願うとするか。
灯りを吹き消すと、署名したばかりの書類を箱におさめて部屋を出た。既に日は暮れている。主君を訪ねるには相応しくない時刻だ。携えた書類も明日で構わないものである。
——顔を見たい。
公私混同はなるべく避けているが、ここ最近はかの人も自分も多忙で、姿を見るのは朝議の場くらい、ゆっくり顔を合わせる時間が取れなかった。
国王として相応しくない所業の数々——城内とはいえ気軽に単独で出歩いたり、ボロミアの私室に露台からひょっこり顔を出したり——に、いつも目くじらを立てているが、会えない日が続くと堪えるのは、実のところ彼よりも自分のほうだった。
顔を見たいがために、こうしてこじつけに等しい口実をつくってしまうのだから。なりふり構っていられなくなる我が身に苦笑が漏れる。それでも、
——会いたい。
ゆっくり顔を見たい。声を聞きたい。溢れてくる気持ちは抑えられない。ボロミアは気を取り直し、国王の執務室へ向かった。
◆◇◆◇◆◇◆
王の執務室の手前、立哨の近衛を労いの声をかけ扉を開けると、珍しく控えの間に侍従の姿があった。何やら書き物をしていた彼は、ボロミアを見て立ち上がった。
「これは、ボロミア様。お約束でございますか」
「いや、約束はしていないが、お会いできるか」
長く続いたモルドールとの戦いにより、国政を担う人材も不足している。そのため、現王の側仕えは最少限の人員だ。「世話をしてもらわなくても、身の回りのことくらいできる」という王の言葉が元である。実際、彼はほとんど他人の助けを必要としない。戴冠直前まで野に身を置いていたため、何でも自身でこなしてしまう。
しかし、仕える側としては、執務室に人員を置いてほしいと切実に思う。身分や立場という『形』だけの話ではない。かの人が資料が要る、官に用があると頻繁に執務室を空けるからだ。驚異的な集中力で一日中机に向かっていることもあるが、基本的に一室に籠りきりというのが性に合わないらしい。側仕えの数を限ったのも、自身が出歩きたいがためではないかと勘ぐってしまう。
せめて取り次ぎの者くらい置くようにと、ボロミアだけでなく執政を務めるファラミア、侍従長や近衛隊長も進言してきた。が、寛容ではあるものの頑固な面も持ち合わせている王は、絶対に首を縦に振らなかった。それが、とうとう折れたのだろうか。
——良い傾向だ。
ボロミアは自然と顔が綻んだ。気のせいか、侍従もにこやかだ。
「ただいま、お取り次ぎいたします。少々お待ちください」
「控えに人を置くことを同意なさったのか」
ボロミアが笑って尋ねると、侍従は笑みを浮かべながらも首を振った。
「いえ、残念ながら、そうではございません。半刻ほど前、少しお休みになりたいとおっしゃって、訪ねてくる方があれば先に声をかけるようにと仰せつかいました」
「お加減が悪いのか?」
ボロミアはわずかに眉を顰めた。単独行動の多い野伏だった王は人の気配に聡い。休んでいても扉を叩く音で目を覚ます——普通ならば。わざわざ声をかけるよう言い付けたとなると、普通に起きられない状態——すなわち、体調不良が考えられる。
「少し疲れたとおっしゃっていましたが、特に変わったご様子はございませんでした」
侍従はそう言ったが、かの人が疲れたからと断って休むことが既に普通ではない。頑健な野伏も、このところの激務はさすがに堪えたのか……。ぐっすりと眠っているのなら妨げたくはない。いや、起こしてしまうかもしれないが、今日はゆっくり休んでもらいたい。ボロミアは侍従を遮り、自分で把手を握った。
「それなら、直々に声をおかけしよう」
◆◇◆◇◆◇◆
執務室はひっそりとしていた。燭台に火は灯っているが、机に主の姿はなかった。
——隣の部屋でお休みだろうか。
と思ったとき、衝立ての陰から唸るような声が聞こえてきた。向こう側には寝椅子がある。
「陛下?」
衝立てを回り込むと、不明瞭な叫び声が上がった。
「陛下! アラゴルン!」
ボロミアは衝立てどころか、脇に置かれたテーブルも蹴飛ばす勢いで、アラゴルンの傍に駆け寄った。彼は眠ったまま苦しげに眉を寄せ、寝椅子の上で身を捩るように寝返りを打った。その口から呻くような声が漏れる。
「アラゴルン! おい! しっかりしろ」
大声で呼びかけ、肩を抱え起こす。青灰色の瞳がうっすらと開いた。
「……ボロミア?」
「ああ、わたしだ。わかるか?」
「……ああ、うん……」
アラゴルンは生返事で小さく頷いた。ぼうっとボロミアを見上げている。
「大丈夫か? 酷くうなされていたぞ。何やら叫んでいたし……」
「叫んで……? 何を言ってた?」
訊かれて、ボロミアは考え込んだ。自分には明確に聞き取れなかった。だが——
「さあ、何と言っていたのか、わたしにはわからない……」
単なる叫び声ではなかった。ある言語が持つ響きがあった。
「エルフ語のようだったから……」
「……そうか」
アラゴルンはどことなく安堵したように息を吐いた。
「寝言はエルフ語なんだな……」
ぽつりと言葉が漏れた。悪気はなかった。出会ったばかりの頃と違い、今はアラゴルンの生い立ちを知っている。二歳で裂け谷に引き取られたのなら、エルフ語は母語同然だろう。寝言に出るのも当然だ。それくらい、頭ではわかっている。しかし——、
「夢もエルフ語か」
彼に身についた異種族の習いを垣間見る度、どうしようもない距離を感じてしまう。エルフという種族に対して、以前のような不信感はない。共に旅をした緑葉のエルフや、夕星の王妃には親近感もある。けれど、かの種族を近しい存在だとは思えない。
「ボロミア……」
腕の中で青い瞳が困惑したように揺れていた。彼はボロミアのエルフに対する複雑な感情を知っている。
「……すまない。責めてるわけじゃない」
「謝ることはない」
アラゴルンは小さく笑った。指先でボロミアの頬をそっと触れるように撫でる。
「夢で聞く言葉は、内容によって違う」
「……そうか。——今のはエルフ語の夢だったのか?」
尋ねると、何事かを思い出すかのように黙った彼の表情が、次第に強張った。
「すまない。悪いことを訊いた。余程……厭な夢だったんだな」
「だと思うが……」
意外にも、アラゴルンは軽く首を振った。
「どんなだったか思い出せないな。酷く厭な感じだけ残ってる」
目を伏せた彼の口許に、自嘲めいた笑みが浮かんだ。
「本当か? あなたやファラミアの夢は、“ただの夢”と笑って済ませられない場合がある。よく考えてくれ」
重ねて尋ねたが、アラゴルンはその心配はないと、ボロミアを安心させるように微笑んだ。ごく自然な笑みだ。どうやら、思い出せないのは本当らしい。
「その手の夢はけっこう鮮明で、厭でも憶えているんだ。今のはなんというか、妙な息苦しさだけがあって……」
なんなんだろうな、と力なく笑う。彼にしては珍しく疲労の滲んだ顔だった。
「疲れてるんだ」
「ボロミア?」
自覚がないのか、彼は訝しげに首を傾げた。
「このところ忙しかっただろう」
「それは……、だけど、あんたも同じだろう? そういえば、何か用があったんじゃないのか?」
「話を逸らすな。用は……明日でいい」
「明日でいいって……、ずいぶん乱暴だな」
アラゴルンが呆れた顔をしたが、ボロミアは構わなかった。
「いいんだ。そんなことより、あなたはちゃんと休んでいるのか? 執務を終えても、書物を引っ張り出して読んでいると聞いたぞ」
「よく知ってるな」
感心したように言われて、ボロミアはため息を吐いた。
「よく知っているな、ではない」
「怒るな」
首を竦めて身を引こうとする主君の肩を、ボロミアはがっしりとつかんだ。
「アラゴルン。あなたがわずかな睡眠でも、休息を取れることは知っている」
共に旅をした際、彼はよく不寝番をしていた。当時、彼に少なからぬ反発心を抱いていた自分ですら、眠っていないのではないかと気がかりになったものだ。事実、彼はわずかな時間しか眠っていなかった。それで充分に睡眠は取れると言われたときは、驚くよりも呆れたものだ。
「しかしだ、限度というものがあるだろう。無理を重ねて身体を壊しでもしたらどうする。あなたの代わりはいないんだぞ。休養すべきときはきちんと休め。忙しいときこそ睡眠を疎かにするな」
厳しい声で告げると、青灰色の瞳が泳ぐように逸らされた。
「まあ、正論はそうだが……」
「何か文句がおありかな」
じろりと睨むと、アラゴルンは諦めたように頷いた。
「……いや、ない」
「よろしい」
満足げに頷くボロミアとは対照的に、腕の中の人は項垂れている。叱られた子供のようだ。百官の前で堂々振舞う姿からはとても想像できない。ボロミアはそっとため息を吐いた。
——まったく……困った人だ。
こういう姿には、つい甘くなってしまう。
「仕事は終わったのか?」
「急ぎの分は片づけた」
「なら、今日はもう休め」
出来るだけぶっきらぼうに言って立ち上がろうとすると、くいと腕を引かれた。
「アラゴルン?」
「少しだけ貸してくれ」
何を? と問い返す間もなかった。アラゴルンの上体が倒れ込むように、ボロミアに寄りかかった。受け止めようとする前に、膝の上に国王陛下の頭が乗った。
「ちょうどいい」
アラゴルンがくすりと笑って目を閉じる。
「わたしは枕か……」
ため息を吐き、膝の上に散った黒髪に指を通す。
「気に入らないか?」
「そんなことはないが……」
「少しだけ我慢してくれ……もう少しだけ……」
呟く声は消え入るように聞こえなくなり、やがて、膝の上から安らかな寝息が聞こえてきた。
——もう少しだけ……か。
元々、ゆっくり顔を見たくて出向いてきたのだ。それには申し分ない状況である。黒髪を梳きながら、ボロミアはもう少しだけこうしていようと微笑んだ。
END