歓び
国境をめぐる小競り合いから端を発したハラドとの戦いは、エレスサール王自らが軍を率いて敵を退却させ、ゴンドールに有利な和睦を結んで終わった。ミナス・ティリスの民は事実上の勝利を喜び、王が凱旋すると城で祝勝会が開かれた。


広間の天井から吊り下がったシャンデリアで無数の灯火が揺れている。輝く灯の下、着飾った客たちは、奏でられる楽の音を聞き、城の厨房が腕を振るった料理をつまみながら、めいめい会話を楽しんでいるようだった。
——なかなかのものだな。
ゴンドールの執政ファラミアは吹き抜けの通路から広間を見下ろし、宴の采配に及第点を付けた。この祝勝会を取り仕切ったのは内務の若い官吏だった。以前より宴の手配を強く要望していた男で、今回若年ながらも任されたのは、担当者が急病で倒れたからだと聞いた。
国賓を迎えたり各地の領主が顔を揃えたりするような大規模な宴は、ファラミアが直々に采配を振るうことが多い。内務が取り仕切るとしても、若い官吏に任せることはない。しかし、今回は祝勝会といっても比較的規模が小さいため、任せてみる気になったのだろう。ファラミアも了承した。もちろん、粗相がないよう他の官吏たちが目を配ってはいたが。
若い官吏が仕切ると聞いて、当初思いのほか喜んだのはエレスサールだった。彼は戴冠直前まで野伏の長だった。そのせいか、国を統べる身となった今でも式典や宴席の類を苦手とし、常々簡素化を訴えている。物事を柔軟に捉える若者ならば、エレスサールの意見を考慮してくれるものと勝手に期待していたらしい。
もっとも、その若者と直接話してみたところ、「その辺の年寄りより頭が固かった」らしく、親愛なる主の期待は儚く消え去ったようだ。「わたしが王なのに、わたしの意見はまったく取り上げられない」と不満げだった。
——あの後、ご機嫌を直していただくのに少々手がかかったな。
拗ねた表情を思い出し、眼下の広間にいるエレスサールを見て、ファラミアは目を細めた。今宵の主の装いは、光沢のある黒いマントに、銀糸を刺した暗赤色のコートだ。コートの袖には深いスリットが入り、そこから淡い薔薇色のシャツが覗き、暗い色彩に明るさを添えている。
結われた髪を留めている銀の髪飾りとマントの襟にある銀のブローチが、コートに刺された銀糸とともに主の姿を引き立てていた。見事な調和は衣装係の手腕によるものだが、着付け中のエレスサールときたら大層不満げだった——動きにくいと。
もっとも不満があろうと拗ねようと、王の役目はきちんと果たすのがエレスサールだ。控えの間で「苦手だ」「慣れない」とこぼしていたことなど感じさせぬ笑みを浮かべ、人に囲まれていた。周囲の者はみな、彼の笑顔に見惚れているようだ。
——きちんとおできになるのに……。
エレスサールは前身が野伏だったことを強調し、堅苦しいのは苦手だと言う。だが、彼は二十歳までエルフの智恵者の保護下で育った。礼儀作法はしっかりしており、優雅な立ち居振る舞いもできる。本人は会話が苦手だと言うが、豊富な知識を持っており、大抵の話題に合わせられる臨機応変さも備えている。場を白けさせる心配はまずない。
それだけのことができるのに「苦手だ」と言って避けようとするのは、ファラミアにしてみれば怠慢に見えてしまう。とはいえ、エレスサールが「苦手だ」と言うのを嘘だとは思っていない。こうした宴の後の彼は疲れた顔をしている。苦手意識が消えず、いつまで経っても慣れないのは本当なのだろう。
——もう少し慣れてくださればいいが……。
そんなことを思いながら、手にしていた杯に口を付けていると、通路をこちらにやってくる足音が聞こえた。振り返ると、軍務の高官が歩いてくるのが見えた。
「こちらにおいででしたか、ファラミア様」
「ええ、広間が見渡せますので」
全体を見渡せば人の動きがわかり、トラブルの有無もわかりやすい。こうして目を配るのも役目だと思っている。だが、この男はそんなことを聞くためにやって来たのではないだろう。
「わたしにご用でしたか?」
「はい。折り入ってお話ししたいことがありまして」
用向きを尋ねると、高官はうれしそうに答えた。
「さようですか」
折り入ってと言うからには耳目をはばかる話ということになる。しかし、今この場にいるのは自分と彼の二人だけである。宴の広間の真上とはいえ、通路に他の人の気配はない。小声ならば下の広間に聞こえることはなく、盗み聞きの心配はない。話しても差し支えないはず——だが、男はここで喋る気はないらしかった。ファラミアは仕方なく言った。
「では、どこか空いた部屋で伺いましょう」
杯の中身を飲み干し、通路を突っ切って階段を下りる。後ろから付いてくる高官のいそいそした気配が伝わってきて、ため息を吐きたくなった。きっとろくでもない話だろう。
階段を下りると、ファラミアはわざと広間の入り口の前を通った。高官は人目に付きたくないだろうが、こちらが彼の思惑に付き合ってやる必要はない。ファラミアは控えていた侍従の一人に空いた杯を渡し、中座するというエレスサールへの伝言を頼んだ。別の侍従に空いている部屋への案内を頼む。
「参りましょうか」
「そうですな」
高官の笑顔は通路で見たときに比べ、少し引き攣っていた。
◆◇◆◇◆◇◆
ファラミアが軍務の高官との話——予想どおり大した話ではなかった——を終えて戻ると、エレスサールの姿は広間から消えていた。心から尊敬する主君であるが、執務室や城から抜け出すことしばしば、ときには宴からも姿をくらますことがある。だから宴では目を離さぬようにしていたのだが……、少し離れるとこれである。ファラミアはひっそりとため息を吐いた。
もっとも、最近では宴の間から抜け出す先の見当が付くようになったから、さして慌てることもない。迎えに行けばいいだけだ。宴の雰囲気もだれてきており、お開きの頃合いだろう。閉会の指示をしようかと目で担当官を探していると、侍従が足早に近づいてきた。
——閣下、申し訳ありません。陛下のお姿を見失いました。
——確かに広間にはいらっしゃらないようだな。お姿が見えなくなったのはいつだ?
——はい。閣下からの伝言を陛下にお伝えしたところ、「急用ができた」と仰せになりまして……。
——広間を出ていかれたか。
——おそらく……。申し訳ありません。
侍従が頭を下げた。「おそらく」という言葉どおり、彼はエレスサールがいつ広間を出ていったのか、はっきりとはわかっていないのだろう。
——仕方がない。あの方は人目を忍ぶ術に長けてらっしゃる。それより……、
と、ファラミアは侍従に問いかけた。
——お前が伝言を伝えたとき、陛下は何をなさっていた?
——はい、お話をなさっていました。お相手は確か……シリス川沿いの領主の方だったかと……。
——そうか。
エレスサールが抜け出した理由がわかった。シリス川沿いに領を持つ人物は複数いるが、今宵この場に来ているのはただ一人、隠居が近いと囁かれている人物だ。子息が三人いる。
近々、家を継がせる長男には既に伴侶もおり、親としてまずは安心だろう。次男は名家への婿入り話が決まったと聞いた。残るは三男の身の振り方だが、国政の場に送り出すつもりなのか、猟官運動に力を入れはじめたそうだ。王に話しかけていたのも、そのための布石だろう。
ただし、エレスサールはその手の話に乗らない。彼は自身の身のまわりに置く侍従でさえ、侍従長に一任している節がある。エレスサールに言わせると、働き方を見て適性を判断しているらしいが、これまで彼から苦情や要望が一切出ていない事実を考えれば、仕事が一定の基準に達していれさえすれば構わないと思っているのは間違いなかった。
近侍の職ですら、その程度にしか考えていないのだから、直接係わることのない役職の人事など、「普通に仕事をしてくれればいい」程度に思っているに違いない。そういう人柄だから猟官運動に熱心な人間の思考が理解できないようで、相手をするのが苦手らしい。
——わたしに言われてもどうにもならない、正規のルートを通してくれと断るんだが……。
それで引き下がる人間なら、そもそも猟官運動などしないだろう。あれこれ理由を付けてしつこく食い下がるのが常だ。そうなると辟易した主は決まってファラミアを呼ぶのだが、あいにく居合わせなかった。それで、侍従が耳打ちしに来たのをこれ幸いと、急用ができた振りをして逃げ出したのだろう。
宴に嫌気がさしたわけではなく、しつこい者を振り切るために出ていったのだから、そのうち戻ってくるだろうが……、
——お迎えにあがるか。
宴もそろそろお開きの頃合いだ。ファラミアは担当官に適当なところで閉めるように言い、残っていた将軍に閉会の協力を頼むと広間を後にした。
◆◇◆◇◆◇◆
エレスサールはファラミアが予想した部屋にいた。パイプを懐へしまおうとしていたのを見て「一服なさっておいででしたか」と訊けば、彼は「あ、ああ……」とうろたえたような声を出した。
ファラミアに見つかった——というより、露台から姿を現したことに驚いているようだった。いつも露台や窓から現れて、人を驚かせているのはエレスサールのほうだと思うと、彼の狼狽ぶりはおかしかった。いつも驚かされてばかりいる意趣返しができたようで、少々愉快な気分にもなった。
ファラミアに見つかった——というより、露台から姿を現したことに驚いているようだった。いつも露台や窓から現れて、人を驚かせているのはエレスサールのほうだと思うと、彼の狼狽ぶりはおかしかった。いつも驚かされてばかりいる意趣返しができたようで、少々愉快な気分にもなった。
そんな主の動揺に付け込んで、その場で意のままに事を運ぼうとしたが、さすがにそう上手くはいかなかった。年の功と言うべきか、九十年近い歳月を生きる主は、少しばかり動じたからといって他者の思いのままに動かせられはしない。結局、王の私室に戻ることで合意を得た。
◆◇◆◇◆◇◆
国王の執務室の続き部屋へ寝台が運び込まれたのは、エレスサールが即位して間もない頃だった。多忙な王が執務室に泊まり込み、長椅子や、ときには床で眠ってしまうため、「主君を床で眠らせるとは臣下の名折れ」とばかりに運び込んだのだが、それが良かったのか悪かったのか、今では王の寝室同然となってしまった。
おかげで国王夫妻本来の寝台は王后陛下の独り寝が常態となり、女官たちを嘆かせている。もっとも、王妃本人は特に気にしていないようだ。エルダールの感覚は人の子とはずいぶん異なるものらしい。
そんなエルダールの智恵者の下で育った主が、部屋の戸棚から「とっておきだ」と言って取り出したのは、火酒の瓶だった。エレスサールの顔には、まるで隠し持っていた宝物を自慢する子供のような笑みが浮かんでいた。こういう顔を見ると可愛らしいと思ってしまう。己の倍以上生きている人物——しかも主君である——を評するのに「可愛らしい」は不適切だと思うが、他に言葉が思い浮かばない。
「うまいぞ」
エレスサールが瓶を傾けた。トクトクトクと心地良い音を立てて、琥珀色の液体が杯を満たしていく。主君に酌をさせるのは気が引けるが、こういうとき「わたしがやります」とこちらが手を伸ばしても、彼が瓶を手放さないのだ。
当初はエレスサールの気やすさゆえの行いだと思っていたが、最近、彼がファラミアに酌をしたがるのはそれだけの理由ではないようだと気づいた。どうやら、王の酌に戸惑う臣下を見て、楽しんでいるらしい。寛容な人柄だが、実年齢はファラミアの倍以上である。重ねた年輪に見合った人の悪さも持ち合わせているらしい。
畏れおおくも主君手ずから注がれた杯を取れば、琥珀色の液体から芳香が立ち上った。主の評価どおり、うまそうである。口に含めば、ほのかな甘さと熟成されたまろやかな味が舌の上に広がった。喉を通せば、じんわりとした熱が胃の腑へ下りていく。
「良い酒ですね。どちらの酒ですか?」
「北の酒だ。この前来た野伏からもらった。十八年物だそうだ」
エレスサールは穏やかに微笑んで答えた。すっかりくつろいでいるが、衣装は宴のときのままだ。ただし、コートの前を開き、シャツの襟も緩めている。他の者がしていればだらしがないと思うが、この人の場合、きちんと着込んだときにはない色気を醸し出している気がする。そう思うのは、惚れた欲目だろうか。
「これが仕込まれたとき、わたしはまだ野伏だったことになる。そう思うと感慨深いよ」
まぶたを伏せた主の顔に言葉どおりの表情が浮かんだ。懐旧と郷愁の念が表れた顔。それを見て取り、ファラミアの胸に鈍い痛みが走った。
北方出身の主君がその地のことに触れて懐かしく思うのは当たり前である。そこには何の含みもない。わかっている。それでも、慕う主君が遠くを見ているのかと思うと、心が軋む。
——そちらではなく、今あなたの目の前にいるわたしを見てください。
普段は抑え込んでいる欲が湧き上がってくる。
——わたしを……わたしだけを見てください。
それは決して叶わない望みだ。
彼は王である。北の地を思わなくとも、ファラミアのことだけを見るなんてことは起こり得ない。彼の心を占めるのは国であり、そこで暮らす民だ。誰か一人のものになる存在ではない。執政職にある自分は誰よりも承知している事実だ。
けれど、叶わないと知っているからこそ、想いは強くなる。浅ましい欲だとわかっていても、止められない。抑え込むだけで精一杯だ。それがときどき溢れそうになる、こうして……。
「——陛下」
湧き上がった劣情のまま、ファラミアがエレスサールの腕をつかもうとしたそのとき、彼がこちらを向いた。
「この酒をこうしてあなたと飲めるんだからうれしいよ」
——え?
思いがけない言葉を聞いて動きを止めたファラミアに、エレスサールはにこりとその美しい青灰色の目を細めた。
「わたしがあなたと会ったのは、ペレンノールからモルドール軍を追い払った後だった。だからなのか、あなたが隣にいることがモルドールの崩壊——この世界から闇が払われ明るい時代が訪れた、その象徴のように思うんだ。冥王が滅ばなければ、わたしは戴冠することなく、あなたが執政として隣にいてくれることもなかっただろうから、余計にそう思うね」
「陛下……」
「この酒が仕込まれた十八年前はモルドールの影が伸びるばかりで、先のことなどわからない時代だった。それを今こうして、明るい時代の象徴のような執政殿と飲めるのがうれしいのさ」
そう微笑むと、エレスサールは杯に口を付けた。
「わたしには……いえ……」
ファラミアは言葉を詰まらせた。主がそんなふうに考えていてくれたとは知らなかった。熱いものが込み上げ、涙がこぼれそうになった。
「……ゴンドールの民にとっては、あなたこそが明るい時代が訪れた象徴です、陛下」
「ありがとう」
静かに目を伏せ、エレスサールが言った。
「こうしてうまい酒が飲める今に感謝しなくてはな」
「はい」
応じながら、ファラミアはこの人を王に迎えられた幸せを改めて感じていた。尊敬の念とともに、愛おしさが募る。歓びのままファラミアは敬愛する主へと手を伸ばした。
重なった手は振り払われることなく受け止められ、引き寄せるべく力を入れれば、温もりが腕の中におさまった。
「陛下……」
囁きながらこめこみに唇を落とす。応えるように、エレスサールの腕がファラミアの背にまわった。期待した以上の甘い夜になりそうだった。
END