Prairie wind
淡い藍色をした空と地の境界に眩い光が現れ、次第に増していく輝きが青く茂った草原を照らし出した。その上を風が吹き渡っていく。暁光と風の揺らぎは草原の表情に不思議な彩りを添えていた。
「美しいな」
エオメルの隣で馬を進める貴人がうっすらと微笑み、風の流れを楽しむかのように目を細めた。数日前よりローハンに滞在している隣国の王エレスサール、アラゴルンだ。公的な諸事がほぼ片付いた昨夜、酒を酌み交わした折りに遠駆けの約束を取り付けた。
——護衛をなんとかしたいのだが。
こちらを窺うような上目遣いとひそめた声で呟かれたのは、ゴンドール王の供回りが聞いたら眉を吊り上げること間違いなしの言葉だった。だが、エオメルは請け負った。
——では、馬を門の外に出しておきます。夜明け前なら目立ちません。あなたらなら簡単に出られるでしょう。
——では、夜明け前に。
——門の外で。
二人は共犯者の笑みを浮かべ、杯を合わせた。
打ち合わせどおり、夜が明ける直前に二騎でエドラスを抜け出した。夜が明けて王が二人消えていた——では黄金館がひっくり返る騒ぎになると、さすがに書き置きは残してきた。それでも帰ったら、ギャムリングたち近習の者の説教が待っているだろう。しかし——
エオメルはちらりと隣の騎馬に目を遣った。
——彼のほうがもっと大変だろう。
ローハンへ同行してきた供回りはともかく、ミナス・ティリスに帰ったとき、あの執政にどう対処するのか……。
隣の彼はそんな心配はどこ吹く風というように、ゆったりと馬を進めている。ひさしぶりに身軽な乗馬を楽しんでいる、といった風情だ。
元々そのつもりがあったのか、身に付けているのは簡素な衣服に使い古したマントだ。用意がいいものだと密かに感心し、なるほど、かの執政も手を焼くはずだと、年上の義弟に少しばかり同情した。もっとも、あの義弟君は手を焼きつつ楽しんでもいるようだが。
エドラスから充分に離れるまで、二人はひたすら馬を駆けさせた。持ち出した昨夜の酒肴の残りで簡単に朝食を済ませ、一息ついて再び馬にまたがったところで陽が昇った。
清々しい朝の光に照らされる草原は、アラゴルンの言うとおり美しかった。だが、それ以上に——
すらりとした痩身を朝日に照らし、風を受けて草原をゆく隣国の王の姿。それこそが、
——美しい。
率直な感想だった。緩やかに波打つ黒髪が風になびき、昇る陽の光に透けて彼を縁取っている。画家ならば絵筆を取るだろう光景に、エオメルはただ見惚れた。
けれど、彼は見目がいいだけの優男ではない。戦いともなれば苛烈な空気を身に纏い、誰をもしのぐ激しさで剣を振るう。
——不思議な人だ。
今、馬上にある姿は静謐そのもので、戦場での姿は微塵も感じない。また、王としての気配も陰を潜めている。何も知らぬ者が見たら、彼のことは旅の下級騎士か傭兵くらいに思うだろう。
彼はどのような場所でも、己の気配を見事なまでに馴染ませてしまう。そこが酒場であれ、草原であれ、そして——玉座であれ。
——これほどまでになるには、やはり相応の歳月が要るということか。
彼は六十年以上、各地を渡り歩いたという。だとしたら、自分が追いつくには少なくとも六十年は必要なわけ……では、自分が生きていられるか心許ない。エオメルはらしくもなく、ため息を吐いた。
「いかがされた。エオメル殿」
すぐ横からやわらかな声がかかった。
「遠駆けの伴がわたしではご不満かな」
「いえ、そんなことは。ただ——」
「ただ?」
彼は首を傾げ、先を促すように訊いた。
「わたしは、あなたようにはなれぬだろうと……」
口にした途端、エオメルは後悔した。自分のような若造が、伯父の歳すらはるかに超える歳月を生きた人に、なんてことを言うのか。
何より、彼はこの中つ国において最も高貴な血を引く人間だ。寿命も自分たちの二、三倍を有する。癒し手の持ち主であり、黒い息に侵された者をも救う。比べるのもおこがましいというものだ。
アラゴルンはまじまじとエオメルを見つめ、一瞬ののち、破顔した。
「アラゴルン殿……」
笑われただけマシかもしれないが、完全に子供扱いされているようでもあり、もの悲しい気分になった。
「ああ、すまない」
彼は手の甲で涙を拭って(そこまで笑うことはないではないか)、やわらかに微笑んだ。
「あなたはそのままがいい。わたしのような、ねじ曲がった者になることはないよ」
意外な言葉だった。
「そのようなことは……! あなたのお心はまっすぐで、美しいではないか」
「エオメル」
彼はエオメルを宥めるように微笑んだ。
「美しいのは、ほら、この国のほうだ。遠くまで広がる空と、のびやかで活き活きとした草原の地。この健やかな美しさは、活気に溢れた誇り高いマークの騎士のようだと、わたしは思うよ。あなたのように」
「……アラゴルン殿」
「わたしは好きだよ。この国も、あなたも。白き都と比べようもないほどに」
青灰色の目が細められ、慈しむかのような笑みが浮かんだ。エオメルは言葉に詰まった。つと、彼の脇へ馬を寄せ、その手綱を引き寄せる。
「エオメル殿?」
怪訝な表情で首を傾げるアラゴルンを、エオメルは言葉もなく抱き締めた。自分の背に、宥めるような所作でまわされた腕に気づくこともなく——。
寄り添う騎馬を包むように、草原を渡る風が吹き抜けていった。
END