Promise
雨上がり、夕闇に覆われていく森を、ハルバラドは用心深く歩いていた。足下のあらゆるものが濡れ、滑りやすくなっている。暗くなった森の中を歩くのはただでさえ神経を使うが、より危険な状態だ。だが、ハルバラドに引き返す気はなかった。
森の入り口にある遺跡で目印を見つけた。野伏が使うそれは、彼が近くに居ることを示していた。
キィン……。
木立の中から硬い金属音が聞こえてきた。
カィン、カン……。
剣を抜いて音の方向へと走る。
——無事でいてくれ。
木々の途切れた場所へ出ると、無数のオークが倒れていた。その先で黒衣の男がオークと刃を交えている。男は細身ながら、苛烈なほどの剣さばきで長剣を操っていた。だが、長時間に渡る戦闘はどうしても肉体を消耗させる。わずかに彼の足下がふらついた。瞬間——
オークの盾が薙ぎ払うように、痩躯を跳ね飛ばした。長剣が男の手から飛び、地面に落ちる。よろめきながら立ち上がる黒衣の男に、オークの剣が打ち込まれようとしたとき、ハルバラドの手から剣が飛んだ。
「族長!」
オークが地に倒れると同時に、黒衣の男——アラゴルンも崩れるように膝をついた。
「大丈夫ですか」
駆け寄って手を差し伸べると、彼はゆっくりと顔を上げた。
「ああ、ありがとう。助かった……」
ハルバラドを見てわずかに微笑んだが、ぺたりと地面に座り込んだ姿は疲労困憊の態だった。自分が駆け付けるのが少しでも遅れていたら、どうなっていたか……。そう思うとぞっとする。
「立てますか?」
「……ああ」
アラゴルンはよろよろと立ち上がった。膝に力が入っていないようだ。怪我でもしているのだろうか。見たところ、目立った外傷はないが——。
「肩を貸しましょうか」
「いや、大丈夫だ」
彼は剣を拾って鞘に収めると、ハルバラドを安心させるように笑った。
「急ごう。逃げたのが仲間を連れて戻ってくるかもしれない」
◆◇◆◇◆◇◆
焙った兎肉と茸に香草を煮込んだだけのシチューを、がっつくような勢いでたいらげる長を、ハルバラドは半ば呆れて眺めていた。日暮れに森を出た二人は遺跡からも離れ、高台にある岩場に落ち着いた。兎も茸も香草も、道すがら手に入れたものだった。
「そんなに腹が空いてたんですか?」
「四日、まともに食ってない」
どうやら、彼がよろめいたのは、長時間の戦闘によるものだけではないらしい。
「いきなり食うと体に触りますよ」
「大丈夫だ。細々と携帯食は食ってたから、いきなりじゃない」
「携帯食って、レンバスですか?」
「いいや、ただの干し肉だ。一日ひと口で持たせてたんだが、それも今日で尽きるとこだった」
あっさり言われて、ハルバラドは天を仰いだ。自分が行き会わなかったら、本当に北のドゥネダインの命運は尽きていたかもしれない。
「……族長。気をつけてくださいよ。嫌ですよ。長が行き倒れて飢え死になんて」
「仕方ないだろ」
アラゴルンは憮然としたが、ハルバラドも引き下がらない。
「仕方ないじゃ済みませんよ」
「だから言っただろ。ワーグの群れに出くわして、振り切るのに川に飛び込んだんだ」
「ええ、聞きましたよ。それで食糧が流されたんでしたっけ」
「ああ、そうだ」
わかってるじゃないかと頷くのは、図太いからか鈍いだけなのか……。
「残ったのが干し肉ひと切れだった。早めに何か調達しようと思ったが、ずっと雨だったろ? だから獲物も見つからなかった。今日の夕方になってようやく晴れた。それで森に入ったら——」
「オークの群れに囲まれた、というわけですか」
「そうだ」
堂々と頷く。少しも悪びれない態度に苛立ちを覚える。
「威張らないでください」
「威張ってない」
「あのですね、族長——」
ハルバラドはひたと青灰色の瞳を睨みつけた。単独行の多い長の身の上を、自分たちがどれほど心配しているのか、知らないわけではないだろう。それなのに……。
「食糧確保は最低限のことでしょう」
「そうだな」
「それを疎かにした」
「疎かにしたわけじゃない。たまたま……」
「たまたまでも何でも、もっと気をつけてください。でないと、とても単独で旅に出せませんね。帰ったら、人を付けるよう長老たちと相談しますよ」
「ハルバラド……」
青灰色の瞳に縋るような色が浮かんだ。上目遣いにこちらを窺う。
「そんな顔をしても無駄です。ご自分の不用意な行動を恨むんですな」
「……わかったよ」
アラゴルンは肩を落とし、諦めたように息を吐いた。
「そんなに伴が付くのは嫌ですか」
「効率が悪いと思うだけだ。ただでさえ手が足りない。わたしにくっついているより、他にまわしたほうがいいだろう」
「あなたがもう少し慎重に行動してくれるなら、それでも構いませんがね」
「してるさ」
「族長——」
「ああっと、怒るな。今回のことはわたしの手落ちだ。悪かった。来てくれて助かった。感謝している」
アラゴルンが殊勝に頭を下げた。ハルバラドは静かに息を吐く。正直、ずるいと思う。こう下手に出られては、何も言えなくなる。
「これで、二度目……いや、三度目か」
苦笑いを浮かべたアラゴルンが呟いた。
「何がです?」
「お前に助けられた回数」
「三度もありましたっけ」
ハルバラドは首を捻った。三度目なら、過去に二度あったということになるが……。
——思い出せない。
一度は憶えている。だが、あの件はそもそもハルバラドのミスが原因だった。それが長の危機を招くことになったのだから、自分は助けなければならなかった。助けられなかったら、自分を赦すことができなかっただろう。
「お互い様でしょう」
「だったとしても、助けられたのは事実だ。ありがとう。感謝している」
焚き火の炎に照らされ、不思議な色を纏った青い瞳が、まっすぐにハルバラドを見つめる。
「心配をかけているのはわかっている。けれど、信じてくれ。わたしは必ず生きて戻る。約束する。お前に何度も救われた命だ。無駄にはしないよ」
——なんだって、この人はこう……。
頑固かと思えば、妙に素直になるところがあって、なんというか……対処に困る。
「ハルバラド?」
凝視したままの自分を訝しげに覗く、潤んだ青い瞳——。
とくん……。
身体の熱が疼き出す。考えてみれば数か月ぶりなのだ。顔を合わせるのも言葉を交わすのも、そして——。
「見回ってきます」
鼻先が触れるほどに近づいた彼から、逃げるようにハルバラドは立ち上がった。
◆◇◆◇◆◇◆
見回りから戻ると、アラゴルンは岩に背を預けて眠っていた。
「族長」
呼びかけても目を覚まさない。
——何が「必ず生きて戻る」だ、まったく……。
周囲に“敵”の気配がないとはいえ、この不用心さでは心許ない。しかし、やつれて頬に影の差した顔を見ると、起こす気になれなかった。今日、自分と行き会うまで、どんな無茶をしてきたのやら。思わず、ため息がこぼれた。
夜番は自分が起きていればいい。ゆっくり眠ってもらおう。ハルバラドはアラゴルンのマントの乱れを直すべく、そっと手を伸ばした、途端、彼の頭ががくりと揺れた。とっさに腕で受け止め、背を岩にもたせかける。しかし、手を放した途端、今度はぐらりと身体ごと傾いた。慌てて自分の身体で支える。
「族長……」
今や、ハルバラドの肩は長の枕だった。この状態で一晩過ごすのか?
——勘弁してくれ……。
そっと手を動かし、波打った黒髪に軽く触れる。ずいぶん痛んでいるようだ。肩は以前より薄くなったような気がする。会えば会ったで、あれこれ気になってしまう。離れていれば別のことで気を揉む。きりがない。だが——、
必ず生きて戻ると言った。信じてくれと——。
ちらりと肩で眠る人に目を遣る。一時しのぎのことは言わない人だ。
——信じておくか。
無数の星が輝く空の下、ハルバラドは穏やかに微笑んだ。
END