あるじなしとて
冬の寒さは未だ緩まないが、日毎に陽光の輝きは増している。そんな春の気配が感じられるようになった昼下がり、白の都の執政ファラミアは書類を携えて国王エレスサールの執務室を訪ねた。
扉を開けると甘く、けれど清々しい香りが漂ってきた。ファラミアは室内を見回し、生けられた白い花に目を留めた。ごつごつと節のある黒い枝に、小さな白い花が咲いている。
「珍しい花ですね」
ゴンドール——少なくともミナス・ティリスやイシリアン付近——では見たことがない。
「今朝、レゴラスが持ってきた。東から渡ってきた花だそうだ」
今はイシリアンの森に居を構えるエルフの名が出て、ファラミアはなるほどと頷いた。ファラミアは執政として、国王の予定は面会する者も把握している。だが、指輪棄却の旅の仲間であったエルフは例外だ。彼はいつも気まぐれに訪ねてくる。
「レゴラス殿は東にも旅を?」
かのエルフは、同じく指輪の旅の仲間だったドワーフのギムリと親しくなり、彼とともに中つ国中をめぐる約束をしたとかで、ときどき長期の旅に出る。
「いや、昨年ドル・アムロスに来ていた商人から、株ごと譲り受けたと言っていた。花が終わったところで植え替えたのが、今年見事に咲いたから『おすそわけ』だそうだ」
エレスサールはくすりと笑うと、ペンを置いて立ち上がった。
「その花のおもしろい言い伝えを聞いた」
話しながら王は茶器を用意し、暖炉に吊された鉄瓶を取った。“休憩にしよう”という合図だ。ファラミアは何も言わず、執務机に書類を置いた。これが“緊急の書類はなく休憩しても構わない”という意味になる。
どこの国でも、王ともなれば自分の手で茶を淹れはしないだろう。だが、エレスサールは半生を野伏として過ごしたせいか、身の回りのことはすべて自分でこなしてしまう。はじめは慌てて侍従を呼んでいたファラミアだったが、最近は渋々ながら黙認している。
何度言っても一向に効果がなく、そのうえ、青灰色の瞳に哀しげな色を浮かべて「わたしが淹れたお茶では気に入らないか」と、言われてしまっては降参するしかなかった。
ただし、来客時は侍従に茶を運ばせるという条件付きだ。これにはエレスサールも素直に頷いた。曰く「わたしとて、親しくありたい相手以外にお茶を淹れようとは思わないよ」と、寛容だと評される人柄にしては、珍しく贔屓めいた言葉が聞かれた。
「主の移り住んだ所へ追いかけていく、と言うんだ」
「花が……ですか?」
そう、と茶器に湯を注いでいた王が頷いた。茶葉の香りが部屋に広がる。その香りに誘われるように、ファラミアは王の側へ歩み寄り、茶器の載ったトレイを持ち上げた。
「東の果ての国の話だ」
「ハラドの東ですか」
茶器を窓際に置かれたテーブルに運び、二人は腰を下ろした。
「さあ……。もっと東かもしれないな」
エレスサールは懐からパイプを取り出した。彼によると、一服が茶葉を蒸らすのにちょうどいい時間なのだそうだ。
「昔、東の……どこかの国で、政争に敗れた男が左遷されることになった。彼は庭に植えてあった、あの白い花——」
王は生けられた花を振り返った。
「あの花をことさら愛でていた。別れを惜しんで歌にしたくらいだという。——主なくとも花を咲かせよ、とね」
「それは……」
白い花を咲かせる木は、この王宮の庭にもある。ゴンドール王家の象徴とも言える白の木、ニムロスだ。
花器に生けられた香り立つ白い花は黒々とした枝だが、ニムロスは枝も幹も白い。ヌメノールの運命と結びついていると予言され、枯れる度に新しい若木が見出され受け継がれてきた。しかし……
——主なくとも花を咲かせよ。
執政の統治時代、白の木は王の帰還を待たずして枯れ、空位の千年、再び花をつけることはなかった。
「ところが、花のほうは主のない場所で咲く気はなかったらしい。主人が左遷された土地へ飛んで追いかけたそうだ」
「木が飛んで……ですか」
あまりにも突飛だ。ファンゴルンの森には、しゃべって歩く“木の髭”が存在するらしいが、それだって空を飛びはしないだろう。
「そう。おもしろいだろう」
「確かに、話としてはおもしろいですが……」
「ファラミア。真面目に考えるな。商人が語った伝承なんだ。ひょっとしたら商売の口上かもしれない」
くすりと笑ってエレスサールはパイプをしまった。それを見て、ファラミアは茶を注ぐ。かぐわしい香りが立ちのぼった。
「だが、本当だったら、その男は嬉しかったろうな。涙が出るほどに……」
茶の香りを楽しむように目を閉じた王が静かに呟いた。その言葉にファラミアは、はっとする。何気ない呟きだった。けれど——
「陛下も……追いかけてきてほしいですか。白い花を咲かせる木に」
エレスサールは目を見開き、ファラミアをしげしげと見つめ、少しばかり首を傾げると大真面目な声で訊いた。
「わたしは左遷されるのか?」
——王の場合、『左遷』ではなく『追放』でしょう、ではなくて……。
こんなことでいちいち脱力していては、この王の執政官は務まらない。ファラミアは気を取り直してにこりと笑った。途端、エレスサールがわずかに身を引いたようにも見えたが、そのあたりのことは気にしないでおく。
「陛下に左遷などあり得ませんが、あなたの場合、自ら積極的に王宮を出ようとなさいますから」
「さ、最近はそんなに出歩いてないぞ」
「おや。では先週、わたしがイシリアンにいたとき、近衛兵を撒いて、ペレンノール野でブレゴを駆けさせたのは別人なのですね」
「……わたしだ」
王はがくりと肩を落とした。ファラミアは満足げに微笑み、甘く涼やかな芳香を漂わせている、小さな白い花を振り返った。主を飛んで追いかけた話はにわかに信じ難いが、飛んで追いかけたくなる気持ならばわかる。
かつて、兄を見送るときに味わった。兄の死を悟ったとき、激しい後悔が襲った。なぜ止めなかったのか、父の反対を押し切ってでも自分が行くべきだったと……。しばらくの間、見送った兄の背中ばかりが瞼に浮かんだ。
ファラミアは再び主君に視線を戻す。今、この人が目の前から掻き消えたら……。
「確かに、待っているより追いかけたほうがいいですね」
「ファラミア?」
「陛下がどこへ行方を眩まされても、空を飛んで追いかければ見つけやすいでしょうから。あの花にあやかりたいですね。——とりあえず、近衛兵たちに、次回よりあの花の心意気で捜すよう申しつけておきます」
にこやかに告げると、エレスサールは無言のまま茶を啜った。
「陛下は、なぜ、あの花が主を追いかけたと思います?」
「慕っていたからだろう?」
「そうには違いありませんが、わたしはこう思うのですよ。愛でてくれる主なしでは花も咲きがいがない。主が在ってこそ、花も美しく咲こうというものではないかと」
「一理あるな」
「我が国も同じですよ」
「白の木のことか」
「白の木もそうですが、集う民もです。民にとって王は心の拠りどころです。白き塔のもとに陛下がお住まいだからこそ、街の民の活力になります。ですから、あまりお出歩きになりませんよう」
「……そういう理屈か」
エレスサールが釈然としない様子で呟いた。
「なんだか、都合よく言いくるめられたような気がする」
「人聞きの悪いことをおっしゃいますね。事実を申したまでですよ。手が空いたと言っては出歩いて、昼間から酒場で杯を空けていたり、——ああ、先日は博打もなさってましたね——そんなのが王だと知ったら、街の者は呆れるでしょうね」
ファラミアがきっぱり言い切ると、エレスサールは視線を逸らして茶を啜り、おもむろに呟いた。
「……そろそろ、仕事に戻ろうか」
矛先を躱すためとはいえ、王が仕事を理由に持ち出したのだから、今回はファラミアの勝利と言えるだろう。
「そうですね。楽しいお茶にお誘いいただいたこと、御礼申し上げます」
至極満足な笑顔で礼を述べ、ファラミアは立ち上がって王に手を差し伸べた。
END


東風吹かば匂ひおこせよ梅の花  あるじなしとて春な忘れそ(菅原道真)