さすらい人
北の夏は短い。秋の気配が漂ってくると、急速に昼の長さが短くなっていく。影が長く伸び始めた頃、巡回を終えたアンヌミナスの警備兵が数人、詰め所に戻ってきた。
「ランディリオン」
詰め所の横、隊長室から出てきた分隊長が兵の一人を呼び止めた。
「お前に客だ」
ランディリオンと呼ばれた兵士はひっそりとため息を吐いた。
「わたしは席を外す」
気を利かせたのか、そういう申し出だったのか、分隊長はそのまま詰め所へ入っていった。残された兵士は気の進まぬ足取りで隊長室の前に立った。戸口の脇に立ってそっと覗くと、黒いマントを羽織った男が座っていた。
——思ったとおりだ……。
また、野伏の誰かが説得に来たのだ。何度来ても同じだ。自分は帰るつもりはない。その意思を固めて部屋へ入り、後ろ手に扉を閉めた。それを合図にしたかのように、黒衣の男が立ち上がった。
「久しぶりだな」
フードの下から現れた顔に声を失った。
「……父上」
そこにいたのは現国王エレスサール。エルダリオン——ここでの通り名はランディリオン——の父親だった。
「背が伸びたな。そのうち追い越されそうだ」
彼は絶句して立ち尽くす息子を眺め、面白そうに笑った。
「どうして、ここに……」
「話は後だ。とりあえず、ここを出よう」
フードを被って戸口へ歩き出す。
「悪いけど、まだ仕事がある」
エルダリオンは断った。仕事があるのは本当だ。分隊長への報告をしなければならないし、後番への申し送りもある。
「それなら心配するな。隊長へ話は通してある」
言われて、思わず舌打ちしそうになった。
——勝手なことを。
「勝手をして悪いと思ったが、こっちにも都合があって、あまりゆっくりしていられないんだ。悪いが付き合ってくれ」
申し訳なさそうな口調ではあったが、エレスサールは確信しているのだ。エルダリオンが断るはずがないと——。
「……だめだ」
エルダリオンは流されまいと拳を握った。ひとつ流されたら、その後のことはすべて流されてしまうに違いない。そういうことが上手いのだ。策を弄さずして難物を篭絡すると、策士に評されるくらいである。今の自分にとっては危険人物だ。
「同僚と手合わせの約束をしてる」
これも本当のことだった。嘘ではない。ただし、断ることも出来る程度の約束だが……。しかし、エレスサールは気を悪くした様子もなく、軽く首を傾げて訊いた。
「では、見物させてもらおう。いいか?」
なんとか離れたい一心で言ったのに、それをあっさり越えてくる。迷惑だ——とでも言えば或いは……。だが、いくらなんでも、そんな言葉を投げつけたくはなかった。父のことが嫌いなわけでも、ましてや傷つけたいわけでもないのだから。ただ——、
もう少しこの地に留まりたいだけだ。
「——いいよ」
それだけ言って、エルダリオンは踵を返した。
◆◇◆◇◆◇◆
夕陽が景色を赤く染め上げる中、町外れの草地でエルダリオンは剣を構え、同僚のカレンディルと向き合った。じりじりと間合いを詰める中、先にカレンディルが動いた。
カン、キン、キィン……。
カレンディルが続けざまに打ち込んでくるのを、退きながら剣で受け流す。
「おりゃあ!」
一際強い打ち込みが来た。まともに受けたのでは剣を叩き落とされてしまう。エルダリオンは身を翻して躱した。が——、
ガキン。
動きを読んでいたかのように、横薙ぎに剣が入ってきた。身を沈めて受け止め、弾くように飛び退いた。
「やああ!」
体勢を整え切っていないところへ、カレンディルが猛然と突っ込んでくる。
キィン!
エルダリオンは一撃を弾いて躱した後、わざと身体を開くように退いた。
「ウオォ!」
思ったとおり、激しい突きが入ってきた。タイミングを逃さないよう、カレンディルの剣の動きに注意を払う。
ガッ……キィン……。
鈍い音と硬質な金属音が鳴り、カレンディルの剣は空を飛んで草地に落ちた。
「大丈夫か?」
エルダリオンはカレンディルに駆け寄った。彼の腕は相当の衝撃を受けているはずだ。だが、彼は「平気だ」と右手を振った。
「情けないが、剣を巻き上げられた瞬間、手を放しちまったからな。おかげで痺れずに済んだが……」
エルダリオンはほっと息を吐いた。
「ところで、あれは誰だ?」
カレンディルが目で指した先に、草地に落ちた剣を拾い上げているエレスサールがいた。
「ああ、知り合い」
エルダリオンは短く答えた。ここでは“身寄りがない”で通しているのだ。父親だとは絶対に言えない。
「ふーん、けっこうな剣を差してるな」
エレスサールの剣と言えばアンドゥリルだが、微行にあんな代物は差せない。彼が微行に提げる剣は質素なつくりで、銘もわざと入れていない。だが、緑葉のエルフを通し、エルフの鍛冶に拵えてもらったという一品で、銘剣と言えた。つくり手がエルフなのは、執政の目が光っていて、城に出入りする職人には微行用の剣を頼めなかったからだそうだ。
昔は野伏時代に使っていた剣を携えていたらしいが、エルボロンがイシリアンの野伏になった際、所望されて譲ったと聞いた。平たく言えば、執政が主君の微行を阻止するため、息子の就任祝いにかこつけて剣を取り上げたのだ。もっとも、それでエレスサールの微行が収まったか、なんてことは訊くまでもない。眼前のとおりである。
「ちょうどいい。あちらにも手合わせしてもらおう」
カレンディルが浮き立つような足取りで歩き出した。
「おい!」
エルダリオンは慌てて呼び止めた。
「やめろよ。俺より強いんだ」
「へぇ。そりゃ楽しみだ」
カレンディルは構わず、エレスサールに駆け寄った。剣を受け取りながら、交渉している。
——断ってくれればいい。
祈るような気持ちで見ていたが、やがて二人は草地の真ん中に移動してきた。
「ちょっと……」
エルダリオンは慌てて父親に駆け寄った。エレスサールは動きが変則的で、手加減が不得手なのだ。カレンディルくらいの力量になると、下手な手加減ではそれが命取りになる。かといって、エレスサールが手加減しなければ、カレンディルが怪我をする。
「なんで断らないんだ」
「悪い。どうしてもと言われて、つい……。心配するな。すぐに終わらせる」
大言壮語ではない。エレスサールの技量なら、簡単に決着をつけられるだろう。だが、問題はそこではない。エルダリオンはため息を吐いた。
「怪我させないでくれよ」
「危ないと思ったら止めてくれ」
息子の心配をよそに、父親は無責任なことを言って剣を抜いた。エルフの名匠の手になる剣が残照の光を弾いて煌めき、父の纏っていた穏やかな気配が一変する。対峙したカレンディルが息を呑むのがわかった。
——だからやめろと言ったのに……。
ただの剣士ではないのだ。現在のゴンドール軍で最強と謳われる白の塔の大将、エルボロンでさえ、三回打ち合ってようやく一回勝てる相手だ。それも訓練で稽古という制約があってのことだ。
——戦闘だったら、わたしはとっくに斬られていますよ。
明るい金の髪の大将は清々しい顔で笑っていた。それが白の都で、父の強さを実感した最初だった。だが、自分はまだ知らなかったのだ、彼の実像を。
この北の地で耳にした彼の評判は、既に伝説だった。
ドゥネダインは比較的長命なため、父がまだ野伏だった頃、共に行動した者の何人かは今も生きている。彼らにとって、自分は息子や孫のような存在らしく、エルダリオンが尋ねる前から、「族長の武勇伝」を繰り返したっぷりと聞かせてくれた。それはもう暗記してしまえるくらいに……。
父は自身の英雄的行為を語る人柄ではないから、それらを知ることが出来たのは、悪くはなかった。が、愕然としたのも事実だった。
——自分との差に。
語り手の記憶違いや誇張を割り引いて考えても、自分だったら軽く死んでいそうな話ばかりだった。少なくとも、今の自分と同じ年齢のとき、既に並ぶ者がないほどの遣い手だったというのは事実だろう。
そんな相手だということを、カレンディルは知らない。陽が落ちていく草地で、両者は剣を構え、向かい合ったきり動いていない。エレスサールは自身の意思で動いていないが、カレンディルのほうは気圧されて動けなくなっているのだ。
——止めるよう、声をかけようか。
エルダリオンがそう思ったとき、エレスサールがさっと動いた。
——速い。
カレンディルが慌てたように、剣で受け流しながら後退っていく。なんとか踏み止まろうとしているが、相手が悪過ぎる。よろめかないようにするのが精一杯だろう。だが、彼が体勢を立て直そうとするタイミングを見計らったかのように、エレスサールがすっと退がった。
——だめだ!
エルダリオンは声を上げそうになった。あれは誘いなのだ。退いたと思って突っ込むと——
「うっ……」
カレンディルが呻いた。攻撃を躱したエレスサールの肘が彼の脇腹に入っていた。よろめいたカレンディルの剣に向かって、エレスサールの剣が振り下ろされる。
ガキィン……。
カレンディルの手から剣が落ちた。
◆◇◆◇◆◇◆
カレンディルに別れを告げ、町の宿屋の一階で父子は向かい合った。旅人の利用が多いらしい宿屋は、町の者の姿が見えなかった。兵士らしい姿もない。エルダリオンも見回りで立ち寄ったことはあるが、客として入ったのは初めてだった。
「ランディリオン——さすらい人の息子か、自分で付けたのか?」
「エルダールの息子のままじゃ、具合が悪いだろ」
「まあ、そうだが……」
エレスサールは苦笑してエールを口にした。
「最初は別の名前があったけど、さすらい人に育てられたってつくり話をしていたせいで、いつの間にか付いたんだ」
「そうか」
最初は野伏の一人が適当な名を考えてくれた。だが、幼い頃に親を亡くし、その後さすらい人に拾われて……と、つくった身の上話を繰り返していたら、いつしかランディリオンという呼称が定着していたのだ。
「それにしても、機嫌が悪そうだな。わたしに会うのがそんなに厭だったか」
「別に……。カレンディルのこと、怪我をさせるなと言っただろ」
「あれなら訓練の範疇だろう。あれ以上、手を抜いたら、こっちが危ない」
エレスサールは肩を竦めた。
「まあ、そうだけど……」
カレンディル自身は脇腹に一撃食らったことなど気にしていなかった。強い相手と手合わせ出来たことを喜び、よかったら明日も相手をしてくれと無茶を言い出したくらいだ。エレスサールに丁重に断られ、がっかりしていたが、別れ際、エルダリオンにこっそりと訊いてきた。
——お前の師匠?
稽古の相手をしてもらったことがあると答えたら、彼は邪気のない顔で言った。
——やっぱりな。剣さばきが似てるぜ。
似てないだろう!——思わず叫びそうになった。
似ているわけがない。本当に似ていたら、少しは追いつけると思えたかもしれない。だが、それだって慰め程度のことだ。
傍に居たときは、追いつけると思っていた。今の彼にすぐ追いつけるわけもないが、同じ歳月を経れば、必ず追いつける——そう思っていた。それがとんでもない間違いだと気づくのに、大した月日は要らなかった。
——甘かった。
この地に来て、それを実感した後、しばらく父から離れてみようと思った。距離を置いて考えたかったのだ。自分の進む先を。ただそれだけだったのだが——
周囲の者が慌て出した。こちらに来てから、一度もミナス・ティリスに帰らなかったのだから、当たり前と言えば当たり前ではあった。年が経つにつれ、野伏たちから一度帰るよう勧められるようになった。白の都からも帰るようにという手紙が舞い込んだ。ファラミアやエルボロン、さらには妹たちからも——。
それらをすべて黙殺していたら、野伏からアンヌミナスの警備に配属を変更されてしまった。その夏、数年ぶりに国王の御幸が行われたことで、配属の理由がわかった。王とその家族は、白の都で亡くなった古い友人たちの家族に会い、イヴンディム湖のほとりで夏を過ごした。けれど、エルダリオンは会いに行かなかった。
「どうした? 黙り込んで。うまくやっていると聞いたんだが、悩みでもあるのか?」
エールのジョッキを持ったまま、黙り込んでしまったエルダリオンに、悩みの元から声がかかった。とはいえ、父に文句を言えるものではない。これはエルダリオンが勝手に悩んでいるのであって、父に罪はないのだ。
——あなたが偉大過ぎるので、重荷になっているんです。
なんて、愚痴より情けないことは、口が裂けても言えない。これは自分で決着をつけなければならないことだ。そんなことより、今、問題なのは——
「何しに来たんだ?」
「出て行ったきり、一度も戻ってこない息子の顔を見に来て悪いか?」
鴨肉の団子と茸の煮込みを口にしていたエレスサールが言った。何の含みもない口調だった。けれど、額面どおりに信じていいのか。謀計を好む人ではないが、いつの間にか相手を従わせてしまうと、ファラミアが言うくらいだ。油断ならない。
「ミナス・ティリスへ帰れってこと?」
若鶏のローストの骨をパキリと折りながら、エルダリオンはずばりと訊いた。
「そうじゃない。会いたくなったから来た。それだけだ」
それだけだ——と言われても、大国の王は「それだけ」の理由で玉座を留守にはしない。常識で考えれば信じられる話ではない。が、それはアルノールとゴンドールを統べる王がエレスサール以外だったら——の話である。
——この父親ならあり得る。
エルダリオンは別の意味で眩暈がしそうになった。
「一人で来たわけ?」
「ああ」
エレスサールは当然という顔で頷く。思わずため息が漏れた。
「どうやって?」
「大西街道からエドラス経由でアイゼン谷を抜けて、霧ふり山脈の西を北上し——」
「誰がそんなことを聞いてるんだよ……」
エルダリオンはテーブルに突っ伏しそうになった。
「一人でふらふらと……、こんなところへ来られる立場じゃないだろう!」
つい、声が高くなったが、何事も人並み以上な父親はまったく気にしたふうもなく、いたって普通に答えてくれた。
「エドラスまでは公務だったんだ。エルフヴィネ殿の見舞いだ」
「見舞いって……」
隣国の王の異変にエルダリオンは緊張した。自分がこの地に来てから、先のローハン王は永の眠りについた。その折、ホビット庄を旅立った小さき騎士たちは今、白の都で眠っている。その二年前に、長く庄長を務めたホビットが海を渡っていった。子供の頃から親しくしていた彼らが次々と去った。出会ったとき、既に老年の気配を漂わせていたとはいえ、あまりにも早い別れだと思った。
「風邪をこじらせたそうだ」
風邪と言っても、父が見舞いに行く病状となれば、良い状態ではない証拠だ。かの王はエルボロンと同じ年頃で、老いるにはまだ早いが、病となれば油断できない。エルダリオンの顔色が変わったためか、父は「大丈夫だ」と笑った。
「わたしが訪ねたときはすっかり快復なさっていてね、遠乗りもご一緒したくらいだ」
ほっと安堵の息を吐きつつ、エルダリオンは改めて父親を睨んだ。
「で、そこまでは公務だった……ってことは、見舞いに行った黄金館から脱走したってこと?」
他国の王宮に公務で訪問しておきながら、何をやっているのだと、息子ながら呆れてしまう。それも見舞い伺いだ。治っていたからいいようなものの、それで病状が悪化したら目も当てられないではないか。
「帰路に抜け出した。最近おとなしくしていたから、随伴の者も油断していたんだろう。やりやすかったよ」
息子の心配など素知らぬ顔で、エレスサールはあっけらかんと言った。エドラスを辞した後に決行したのは、父なりに気を遣った結果かもしれないが、ローハン国内で姿を消したなら、少なからず迷惑はかかっているはずだ。ローハン王が気の毒になった。そして一番気になるのは——
「ファラミアは知ってるわけ?」
あの執政がこんなことを許すはずもないが、念のために訊いてみる。
「彼が知っていたら、今ここに居るわけがない」
しれっとエレスサールが答えた。
「だから、ゆっくりしていられないんだ。近い内に追っ手が来る。早ければ明日にも、こちらに連絡が入るかもしれない。こうしていられるのは今夜までだ」
父は鴨の団子の煮込みを平らげ、にこりと笑った。どうやら、今夜のうちにこの地を発つつもりらしい。それにしても、国王が自国の兵士を“追っ手”呼ばわりするとは……。
しかし、ここで呆れてばかりいては、この父親の息子はやっていられない。エルダリオンは気持ちを切り換えることにした。若鶏のローストの最後の一切れを飲み込み、にっこり笑った。
「ふーん。じゃあ、捕まえておけば大手柄になるわけだ」
父は一瞬ぽかんとしたが、すぐに面白そうな表情になり、にやりと笑った。
「親を売る気か」
「今はここの兵士だからね」
不審者は捕らえないと、とエールを飲む。
「捕まえられると思うか?」
父の口許に不敵な笑みが浮かんだ。青灰色の瞳がぎらりと光る。背筋にぞくりとしたものが走った。無理だとわかっているが、試してみたくなる。エルダリオンは強気の笑みをつくった。
「やってみないとわからないだろ」
二人はほぼ同時に席を立った。勘定を済ませ、店を出る。向かう先は口にしなくてもわかっていた。
——町外れの草地だ。
◆◇◆◇◆◇◆
既にとっぷりと日は暮れ、草地を照らす光は月と星の輝きだけになっている。町の灯りは目に映っても、足下を照らすほどではない。
だが、父は野伏の経験から夜目が利くらしい。そして自分は、エルフの血の影響か、暗闇でもはっきりとものが見える。野伏として過ごしたときも、兵士を務める今も、この目が助けになったことは大きい。ただし、これも受け継いだ能力であって培った力ではないのだ。
剣の腕が立つのもエレスサールの息子なら当たり前、目や耳の能力が高いのも母がエルフなら当たり前——どれもこれも自身の力ではない……。追いつけないと思うどころか、最近では足下が崩れそうな気分にすらなる。不安を拭うには自分自身を磨くしかないが、そんなに簡単に拭えるものではなさそうだ。
クィン……。
鞘走りの音とともに、エレスサールが剣をゆったりと構えた。こうして向かい合っただけでも力量の違いがわかる。これが敵なら足が竦んだだろう。けれど、今は怯えより喜びのほうが大きかった。この人と剣を合わせられることがうれしい。エルダリオンは剣を構え、地を蹴った。
カィン……。
剣を合わせ、すぐに離れる。
——速いな。
父の動きはカレンディルと打ち合っているときより速かった。
野伏の剣は確実に敵の攻撃力を削ぎ、屠るためのものだ。一人で多くの敵を倒すには、そうでなければならない。そのため、稽古や訓練には向いていなかった。下手をすれば相手を傷つけてしまう。けれど、それを恐れていては剣が鈍る。野伏なりの手加減の術はあるが、それも仲間内で通用する程度のもの。受け止めるだけの技量がなければ、相手にならないものだった。
単独行が多かったというエレスサールの剣は、野伏の剣そのものだ。ただし、彼なりに訓練や稽古の場で対処する術は身に付けている。エルダリオンがカレンディルの剣を、巻き上げるように弾き飛ばしたのも、元はといえばエレスサールの技を真似たものだ。また、エレスサール自身がカレンディルを相手にしたとき、脇腹に肘を突き入れたのも、怪我を最小限に抑えるための術だった。
キン、キン、キィン……。
打ち合いが続く中、エレスサールがすっと退いた。
——誘いの退き。
これに乗って懐に飛び込めば、待っているのは剣を叩き落とす一撃か、鳩尾への一打か……。だが、エルダリオンは敢えて前に出た。懐へ突っ込むと見せかけ、跳躍する。
「ウオォォ!」
身軽な自分は人より高く跳べる。これもエルフの血のおかげであって、自身の実力とは言い難い能力だが、この際、こだわってはいられない。
——勝ちたい。
せめて一本なりとも。
エレスサールは頭上から迫る相手に動きを止めた、が、それも束の間だった。青灰色の瞳が闇の中でぎらりと光り、殺気が迸った。エレスサールの剣がゆったりと振られる。
——斬られる!
躱しきれない。エルダリオンが思わず目を瞑ろうとした瞬間——、
エレスサールが剣を放り出した。
——え?
予想外のことに気が散じ、着地の体勢を整え切れず、エルダリオンはそのまま落ちた。
「うわっ!」
しかし、衝撃はほとんどなかった。それもそのはず——、
「大丈夫か?」
身体の下から気遣う声がかかった。父が受け止めてくれたのだ。そのまま倒れ込んだのは、仕方のないことだろう。
「怪我はないか?」
「だいじょう……」
ぶ、と答えようとして、エルダリオンは蒼白になった。父の顔の傍らに自分の剣が突き立っていた。しかも、刃が頬に食い込んで流血しているではないか。
「父上、顔……。あ、動かないで」
エルダリオンは立ち上がり、慎重に剣を抜いた。
「大丈夫? ……げっ、髪が切れてる」
上体を起こしたエレスサールから、はらはらと黒髪がこぼれ落ちた。
「気にするな。ミナス・ティリスに戻るまでに治るさ」
父は笑ったが、エルダリオンはその顔を見て改めて青くなった。少しズレていたら耳が落ちている位置だ。
——もしそうなっていたら……。
膝から力が抜け、エルダリオンはその場に座り込んだ。手が震える。
「ほら、なんて顔してる。こんな傷、大したことじゃないだろう」
父親の手がぐしゃぐしゃと頭を掻き混ぜる。
「——だけど」
確かに頬の傷は浅く、ミナス・ティリスに戻るまで治るかもしれないが——
「髪は伸びないよ……」
国外で行方をくらまし、ようやく白の都に戻ったエレスサール王の、お髪がひと房切れていました——なんて、あの執政がなんと言うか。
「なんとか誤魔化すさ」
エレスサールは笑って剣を拾い、鞘に収めるとエルダリオンの横に腰を下ろした。
「お前、身が軽いな」
「母上の血のせいだろ。エルフの」
身が軽いのも、目や耳や鼻が利くのも、疲れにくいのも……、すべてそうだ。特に目や耳の機能は、明らかに周囲の人間と異なっている。それを実感してからは、努力の結果だと思っていたことも、血の効力だと考えるようになってしまった。だが、父は首を傾げ、静かに言った。
「確かにお前はアルウェンの血を引いているが、それだって鍛えなければ動けるようにはならんぞ」
「……そうかな」
エルダリオンが半信半疑で呟くと、父はにやりと笑った。
「試しに怠けてみろ。さっきのようには跳べなくなる」
「……試すのは、止めとくよ」
さすがに試す気にはならなかった。もし本当に跳躍力が落ちてしまったら堪らない。父は声を立てて笑った。
「何もせずに働く血の効力など、寿命ぐらいだ。それも病や怪我で死ななければの話だ。お前はわたしより寿命が長そうだが、不老不死ではない」
そう言うと、傍らの荷物から革袋に入った瓶を取り出し、口を付けた。
「飲むか?」
エルダリオンは差し出された瓶を受け取った。微かに蜂蜜の香りがする。蜂蜜を溶かし込んだ火酒かと思って瓶を傾けた。舌触りのまろやかな液体が喉を通り過ぎたが——
「ゲェッ……」
二口目を飲み込むことなく、吐き出した。口中がひりひりする。火を噴きそうだ。
「なんだよ、これ。蜂蜜酒じゃないのか」
「蜂蜜も入っているが、レッド・チリを漬け込んでいる。チリの匂いはわからなかっただろう。鼻が利くといってもそんなものだ」
父親は人の悪い笑みを浮かべて、息子の慌てぶりを眺めていた。
「もうちょっと試し方を選べよ、まったく……」
悪態をつくエルダリオンから瓶を取り上げ、父は目を細めた。
「お前は人間だ。エルフの血が入っているといっても、受け継いだ能力は知れている。磨かなければすぐに錆びつく。その程度のものだ」
そう言いながら、父は水筒を渡してくれた。ひりひりした口を冷まし、エルダリオンは呟く。
「その程度のもの……か」
「ただし、磨けば受け継いだ力以上に光るかもな」
片目を瞑った父は、うまそうに火酒の瓶を傾けた。その頬についた傷を眺め、さっき目にした“予想外”の行動を訊く。
「——そういえば、なんで、剣を放り出したわけ?」
「あのまま剣を振っていたら、お前を斬っていた」
あっけらかんと恐ろしいことを言う。
「わたしは後世、“王太子を斬った王”なんて呼ばれたくない」
しかめつらしい顔で冗談めいたことを言って頷く姿は、どこまでが本気なのか。けれど、父ほどの遣い手が剣を投げ出すのは、並大抵のことではない——その程度のことはわかる。エルダリオンは口許を綻ばせた。
「俺も“父王を下敷きにした王子”なんてのは御免だけど」
礼を言う代わりに冗談を返してみる。
「そんな呼び名は付かんさ」
父はくすくすと笑った。
「呼ばれるとしたら、“脱走を繰り返していた王太子”か、“城を空けたままだった王太子”あたりだ」
「それは自分だろう。“脱走を繰り返していた王”」
呆れて言うと、父は自信たっぷりに否定した。
「そうはならない。少なくとも公式記録には残らない」
「なんで? 気づかれてる数が少ないから? それだってけっこうな回数だろう?」
父は執務室を空けても、気づかれることが少ない。そのため、発覚している回数の倍以上、抜け出しているはずだ、と近衛兵たちは噂している。が、発覚しているだけでも相当な回数になるはずだ。
「違う。ファラミアが手を打っている」
「ファラミアが? どうして?」
エルダリオンはわけがわからないと首を捻った。父の脱走を一番厳しく叱責するのが、執政のファラミアだ。庇うようなことをするはずがない。
「城を抜け出してばかりの王に仕え、あまつさえその悪癖を正せなかった執政、などと記録に残っては名折れです——だと」
ものすごい理屈を聞かされて、エルダリオンはぽかんと口を開けた。
「それって、文書の改竄なんじゃ……」
「そう思うなら、意見してみてはいかがな。殿下」
エルダリオンはふるふると首を振った。出来るわけがない。ゴンドールでは、王に意見するよりも執政に意見するほうが恐ろしいのだ。父は「いい執政を持った」と笑いながら、酒瓶と水筒をしまった。
「さて、そろそろ行くか」
エルダリオンに向き直って目を細める。
「元気そうで良かった」
「……ほんとに会いに来ただけなんだ」
いつ「帰って来い」や「帰って来ないのか」という言葉が出るのかと構えていただけに、エルダリオンは拍子抜けした。
「他に何があるんだ」
訝しげにエレスサールが言った。
「連れ戻しに来たのかと……」
「そんなことのために、わざわざ来るわけがないだろう。それなら、さっさと帰ってこいと、帰参命令書に署名すれば済む話だ」
普通は会うためだけにわざわざ来ないと思うのだが、何事も型破りな父親は常識と逆を行くらしい。エルダリオンは呆れを通り越し、笑ってしまった。
「わたしは何十年も旅をした。お前も気の済むようにすればいい。ただし、跡は継いでくれ」
「継ぐのはいいけど……務まるかな」
自分が継いだ途端、国が傾きました——、なんて事態は避けたい。
「出来るさ」
エレスサールはあっさりと言った。
「そのときになれば、否が応でもやるしかないからな。躊躇っている暇もない。今のうちにゆっくり悩んでおけ。いつかそれが力になる」
力づけられているのか、突き放されているのか……、よくわからない。
「考えてみれば少し残念だな」
悩める息子を眺めて面白そうに笑っていたエレスサールだが、ふと何かに思い当たったように言った。
「何が?」
「わたしはお前が玉座に座った姿を見られない」
まあ、確かにそうだ。エルダリオンが玉座に就くときは、彼が廟で眠った後になる……たぶん。そういった意味でも、並び立つ者がいない位だ。その重みは年を経るごとに増していくばかりで、位を継ぐ頃には潰されてしまいそうだ。
「……いいよ、見なくて」
「一回、座ってみるか?」
一杯飲むか——と同じ口調で訊かれて、エルダリオンはあんぐりと口を開けた。そんな軽く訊かないで欲しい。座る気にもならないが、仮に実行したら、あの執政に父子そろって説教を食らうことは間違いない。
「……止めとくよ、今は」
「ま、そうだな。将来、厭でも座ることになる。急ぐことはないな」
そう言って、エレスサールは立ち上がったが、何事かを思いついたような顔になって、エルダリオンを見た。
「真似事だけしてみるか」
何の? と尋ねる前に、エレスサールはさっとマントを払い、コートの裾を捌いて跪いた。その流れるように優美な所作に、エルダリオンは声を発することも忘れた。静謐な光を湛えた青灰色の瞳に捉えられる。
「またお会いできる日まで、ご壮健であらせませ」
穏やかでありながら凛とした声が響き、エルダリオンの左手が丁重に持ち上げられた。手の甲に軽く唇が触れる。
「しっかりやれ」
惚けていると、今度は額に唇が下りてきた。目の前の男はいたずらっぽい笑みを浮かべ、立ち上がった。そこには一分の隙もない礼を取った騎士の姿は既になく、旅装の剣士がいるだけだった。
「また来る」
ぎょっとする言葉を残し、エレスサールは身を翻した。「また」って……、
——それはちょっと……いや、かなりまずいのでは……。
しかし、止める間もない。黒衣の剣士は足早に遠ざかっていく。その背中を見送って、エルダリオンは寝転がった。
——敵わないな。
視界いっぱいに、星が降ってきそうな空が広がる。
——帰る……か。
ここで意地を張っていても仕方がない。第一「また来る」などと……。今回のような“遠征”を度々されては堪らない。そんな原因になっては、凍気を纏った執政か、こめかみに青筋の浮いた大将が乗り込んできそうである。
——帰ろう。
一度帰って、また出直せばいい。かの人が玉座に在るうちは、時間があるということだ。お言葉に甘えて、ゆっくり悩んでおくとしよう。エルダリオンは微笑んで立ち上がった。
END