傷痕
日毎に朝が早まり、夜の訪れが遅くなっていた。太陽の光が白き街を一層輝かせる季節が近づいている。白の塔の影がくっきりと描かれる昼下がり、執政を務めるイシリアン公ファラミアは国王の執務室を訪ねた。だが、彼を迎えたのは——
『書庫にいる』
机に残された書き置きだった。
書き置きを残すようになっただけ良しとす……るほど、ファラミアは甘くない。書き置きをぐしゃりと握りつぶし、早足で書庫へ向かった。
昨日、エレスサール王はアナリオン王朝の王たちの記録が見たいと話していた。公的なものではなく、私的な書き付けや日記が残っていないかと訊かれたのだ。なぜ、そんなものを見たくなったのか気になったが、王は「興味深いだろう」と笑っただけだった。
理由はわからないが、国王の所望である。ファラミアは司書に訊いておくと答え、実際、司書に探すように申しつけておいた。それなのに、この始末だ。
——まったく、あの王ときたら……。
腰が重いよりマシかもしれないが、身軽過ぎるのも困りものだ。王朝名に定められたテルコンタール、すなわちストライダーとは、王が野伏だったころ、彼の歩くさまから他人が付けた呼称だそうだ。得体の知れない野伏への、揶揄や侮蔑の意味合いが少なからず入っているとは思うが、なるほど、よく言ったものだと感心する。どこへでも颯爽と駆けていってしまうのだから。
前王朝のころの記録となれば旧い書庫だ。今では時折、風を入れる程度で、それ以外では人の出入りがない。あの王にはちょうどいい隠れ場所だ。書庫の前まで来ると案の定というべきか、扉の鍵が開いていた。
「陛下」
呼びかけたが返事はない。ファラミアは奥へと進んでいった。
「——陛下」
再度呼んだが、返ってくるのは静寂だけだった。
——ここではないのか?
かの王は執務室を抜け出しはするが、見つかった場合、基本的に逃げ隠れはしない。特に城内なら、ご丁寧に「こっちだ」と呼んでくれるくらいだ。
「陛下?」
書庫の一番奥まで来てファラミアは目を見張った。書架と書架との間、狭い通路に本や書類の綴りが散乱していた。書類を束ねて納めてあったらしい木箱が割れ、中身がはみ出ているものもある。
何が起こったのかという答えは、書架の一つが向かいの書架に引っかかり、かろうじて横倒しになるのを免れている光景が物語っていた。土台の石材が割れでもしたのだろうか。書架の棚から崩れ落ちた書物が、通路に山をつくっていた。足の踏み場もない。
——それにしても、なぜ、こんなことに……。
かの王の仕業だろうかと思ったとき、視界の端にそれが入った。折り重なった本の下から突き出た人間の手。天窓から細く射し込む光に、指の付け根が煌めいた。交差する二匹の蛇の意匠——バラヒアの指輪。
ファラミアの顔から血の気が引いた。
◆◇◆◇◆◇◆
気がついて最初に目に飛び込んできたのは、寮病院の医師の顔だった。なんだって、医師がいるのだろうと辺りを見回すと、今度は酷く思い詰めた表情をした執政の顔が目に入った。
——珍しいな。この男が、こうも思い詰めた顔をするなんて。
のんきにそう思った。後頭部の痛みにすべてを思い出すまでは——。
無事に目を覚まし、吐き気もないということで、医師は恭しい礼をして引き取っていった。後に残ったのは国王と執政の二人。しばらく、重い沈黙が部屋を覆った。やがて、血の気の失せた顔の執政がぽつりと呟いた。
「息が……止まるかと思いました」
エレスサールが目を覚ましたのは、書庫の隣にある閲覧室だった。ほとんど使われていないが、掃除はされているようで、寝かされていた長椅子もきれいなものだった。
書架の根元の木が傷んでいたらしい。旧い書庫は書物の日焼けを防ぐため窓が少なく薄暗い。上部の棚に目を遣っていて気がつかなかったが、自分が備えつけの梯子に足を掛けた途端、倒れてきたのだから相当傷んでいたのだろう。
書架が傾いてとっさに体勢を整えようとしたが、その前に木製の書類箱が頭を直撃し意識を失った。それでも、瘤ひとつで済んだのだから重畳である——と、書物に埋もれて伸びていた方は思うが、見つけた方はそうもいかないようだった。
ファラミアの瞳には昏い翳りが落ち、顔は青ざめている。気を失っていた自分より余程顔色が悪い。皮肉や嫌みが雨のように降ってくるかと思ったが、診察の間も始終無言だった。
「そう心配するな。木箱が降ってきたのには参ったが、わたしはこれでも頑丈だぞ。崖から落ちて助かったことが——」
「そのようなことおっしゃらないでください! 崖から落ちるなどと……」
のんびりとした己の言葉を悲痛な声が遮った。ファラミアは視線を逸らすように背を向けたが、その手は細かく震えていた。エレスサールは己の迂闊さを呪った。
この国の人間の多くは、長く続いたモルドールとの戦いで親しい者を亡くしている。ファラミアも例外ではなく、最も近しい肉親を亡くした。旅に出たまま戻らなかった兄、絶望から死を選び、彼をも道連れしようとした父。
肉親だけではない。イシリアンの野伏を率いていた彼は、オスギリアスでその多くを亡くした。雪崩れた書物の下敷きになっていた自分の姿が、倒れていった人たちの姿を思い出させてしまったのかもしれない。
そうでなくとも、人の倒れている姿というのは、日常で出くわすと意外に慌てるものだ。戦場で冷静に対処できるのは気構えゆえだろう。書庫ならば、書物を探しているか読んでいるかが予想の範囲内だ。書物に埋もれて気絶しているとは、誰も思うまい。
普段の彼は穏やかな笑みを絶やさず(その笑顔に凄みを感じることもあるが)、淡々と執務をこなす冷静で有能な執政官だ。隣国の姫と結ばれて仲睦まじく暮らし、お幸せそうだと評判である。その落ち着いた姿に、彼の気持ちも整理がついたものだとばかり思っていた。
しかし、表面に見えていないからといって、傷が塞がったとは限らない。心に刻まれた傷は簡単には癒えない。人を亡くした痛みはいつまでも疼く。そのことは自分もよく知っているはずだった。なのに……。
エレスサールは己の手を見た。
——癒しの手。
黒の息に冒された人を救うことはできる。アセラスの効能を高めることもできる。しかし、万能ではない。
——癒し切れない傷もある。
だが、治り切らない傷とて、いつまでも血を流し続けはしない。忌ま忌ましい傷痕も、時の流れとともに懐かしさの一片となる。苦みを伴った懐かしさではあるが……。
人は大海を渡り、かの地へ足を踏み入れることは許されていない。傷を受けてもこの地で生きるしかない。けれど、傷を抱えながらも立ち上がり、歩くことができる。それが人の子の強さだろう。
「ファラミア」
エレスサールは立ち上がった。
「心配をかけてすまなかった。けど、わたしはここにいるだろう? 瘤ひとつで済んだんだ。今は『よかった』と笑ってくれないか」
——笑っているほうが怖いこともあるが……。
それでも、今のように思い詰めた顔をされているよりはいい。
「さっきも言ったが、わたしはこれでけっこうしぶといんだ。だから、そんな顔をしないでくれ」
「ですが——」
「納得いかないか」
「そういうことではなく——」
彼は何か言おうとしたが、口にすることなく止めてしまった。
「ではなく?」
普段、感情的に話すことのない男の偽らざる気持ちが聞きたくて、催促するように尋ねたが、彼は黙って首を振っただけだった。
「ファラミア。わたしはこのとおり不甲斐ない王だから、これからもあなたに心配をかけると思う。けれど、ひとつだけ約束しよう。あなたより先に逝かぬ、と」
ファラミアが驚いたように顔を上げた。
「あなたもヌメノールの血の影響で寿命は長いだろうが、わたしは人の二、三倍生きられる。年齢差を差し引いても、わたしのほうが長生きできる」
「そのようなこと……」
「気に入らないか?」
「気に入る、気に入らないの問題ではありません」
「じゃあ、どういう問題だ?」
「そのような約束などなくとも、陛下には長生きしていただかなくては」
「そのつもりだが、あなたが瘤ひとつで青ざめているから、つい……」
「山積みの本の下から手が出ていれば、誰だって驚きます!」
とうとう、ファラミアは我慢できなくなったように叫んだ。
「だいたい、なぜ、あなたはご自身で動くのです。何のための侍従や司書ですか」
自分で動いたほうが早そうだからな——と、さすがにエレスサールは口にするのは控えた。
「本だったから瘤で済んだようなもの、書架が当たっていたらどうなっていたと思うんです!」
骨の一、二本で済めば良いほうで、最悪潰れていたかもしれないな、と胸の内で呟く。実際、倒れてきたのは書架なのだ。向かい合わせに並んでいた壁沿いの書架に引っかかって、止まってくれたから助かったようなもので。
「気をつけてくださらねば困ります」
気をつけていたつもりなんだがなぁ、と、これも口に出すのは止めたが、真剣味のない態度が気に障ったらしい。碧色の瞳に鋭く睨みつけられた。
「聞いてらっしゃいますか! 陛下」
それでも言葉遣いが丁寧なあたり、さすがというべきか——などと感心している場合ではない。エレスサールは急いで答えた。
「あ、うん、わかった。気をつける」
「本当にご理解いただけましたか」
「ああ、よくわかった」
——ファラミアは笑っても怒っても怖いということが……。
「おわかりいただけたのなら、これからはもっと慎重に行動なさってください」
そう言いながらファラミアは、エレスサールの服の汚れを払うように軽く叩いた。
「ずいぶん汚れてしまいましたね」
服は全体的に白くなっていた。古い書物に埋まったのだから当然だ。
「お髪にも埃が……」
「まあ、頭から被ったからな」
「お召し替えも必要ですし、湯浴みしていただきます」
告げられた内容に、エレスサールは慌てて部屋を出ようとしたが、それを許す執政ではない。がっしりと腕をつかまれた。
「どちらへ?」
「いや、まだ目的の書物を見つけていない。湯は後に……」
「それは司書の仕事です。陛下はご自分の為すべきことをなさってください。まずは埃を落として、着替えを済ませること。書類を用意してお待ちしております。よろしいですね」
ファラミアの顔に笑みが浮かんだ。立ち直りの早さに感心しながら、エレスサールは頷いた。
◆◇◆◇◆◇◆
エレスサールを浴室へ送り込んだ後、司書がアナリオン王朝の王の書き付けを幾つか見つけ出した。それらを国王の執務室へ運びながら、ファラミアはエレスサールの言葉を思い出していた。
——約束しよう。あなたより先に逝かぬ、と。
なぜ、あの人はあんなにもあっさり、自身を賭けるようなことを言うのか。非難めいたことを口の中で呟きながら、ファラミアは己の心が喜びを禁じ得ないことに気づいていた。
己が執政として生きる限り、かの人は傍らに在り続けてくれる。この国の王として——。
そのことに喜びを感じてしまう。彼を縛りつけるにも等しいとわかっていながら。どこまでも浅ましい思考に自嘲めいた苦笑が漏れる。
ひとつの指輪と闇の勢力がもたらした災いは、イシルドゥアが誘惑に負け、指輪を葬り去れなかったことに端を発している。その直系の子孫であるエレスサールは、指輪をめぐる戦いで傷を負った者に負い目を感じている。その最たる者が「王還りますまで」と唱え続けたゴンドールの執政家の人間——自分だ。
旅の途上で兄を看取った彼が、入城後、炎に焦げた廟を目にして何を思ったのか、ファラミアには知る由もない。それを推し量ることすらできない。だが、負い目を感じること自体、傷ついているという証しだ。かの人自身がそのことに気づいていないだけで。
今、ファラミアがもっとも恐れているのは、王を失うことだ。娶った妻でもなく、自身ですらない。
——陛下の大事に、殿がイシリアンでのんびりしていらっしゃったら、館から叩き出しますから。
騎士の心を持つ姫は朗らかに笑って、不実な夫を許してくれた。
失ったものと新たに得たものと、比べることなどできない。失ったときに生じた痛みは忘れられるものではない。けれど、新たな喜びを得ることはできる。やがて、痛みは感傷を誘いながらも、懐かしく語られる思い出へと変化するだろう。
唯一人と決めた主君が、先には逝かぬと誓ってくれた。ならば、自分も長く生きよう。後に残る彼の時間が短くて済むように。自身の傷には気づかぬ人を、少しでも長く守れるように。
眼下に広がる白い街並みを眺め、ファラミアは静かに微笑んだ。この国の傷が癒える日はさほど遠くない。その痕すら、やがて新たなものを生み出す力になるだろう。かの人の御世において。
END