センス
書類に目を通していたエレスサールが、仕上げとばかりにペンを走らせた。
「入植は順調なようだね」
署名を終えて目を細める。ハラドやウンバール、東夷に捕らえられていた人々は、モルドールの崩壊とともに解放された。故郷に戻った者もいるが、彼らの多くはハロンドールで暮らし始めた。
書類は入植地の担当官から、廃れた砦に手を入れる工事の許可を求めるものだった。農地の開墾はもちろん、水路や道、建物……、彼らはみな自分たちの手で作り上げる。骨惜しみせず働く優秀な人材だ。そういう噂を聞きつけたのか、ある申し入れがファラミアのところへ舞い込むようになった。
「はい。そのハロンドールの入植者たちの土地ですが、諸侯の数人から自領に賜りたいと打診があります」
入植者たちが住う土地は誰の領でもない。エレスサールの希望で直轄地となっている。
「まだどうなると予測も付かない未知の土地なのにか……。そんなに領地を増やしたいものかな」
エレスサールは苦笑いして首を傾げた。
「未知だからこそ、治め甲斐があると考えるのでしょう」
ファラミアが答えると、エレスサールはやれやれといった調子で肩を竦めた。
「そんなものかね。あなたもそういった野心家の一人かな。執政殿」
ちらと視線を投げかけられ、今度はファラミアが肩を竦めた。
「わたしの些細な野心など、彼らに比べれば取るに足りませんよ。——ですが、いかがです。野心家でも領民に慕われている領主もおりますし、お任せになってみては」
復興の舵取りをする国王の政務は多忙を極める。執務室を空にしては出歩いていると言われるエレスサールだが、実のところその悪癖も書庫に出向いたり、官や将を訪ねたりといった用を兼ねていることが多い。
前歴が単独行の多い野伏だったため、自分で動くことが性に合っているのかもしれないが、執務がその傾向になってはエレスサール一人に負担がかかってしまう。ファラミアとしては、任せられる部分は他者に委ね、王一人にかかる負担を少しでも軽くさせたかった。入植地の統括権を他者に委任すれば、確実に負担は減る。だが、エレスサールは緩やかに首を振った。
「将来はそうするつもりだが、今はまだ時期ではないよ。数年は直轄地のまま据え置く。わたしも政務に慣れてきたし、執政殿の負担にならないようにするから、もうしばらく待ってくれ」
穏やかな言葉だが、それははっきりとファラミアの提言を拒否していた。そう、彼はこの件に関しては、自身の目が届くことを望んでいた。何者にも任せられないと言うかのように……。
「わたしのことはお構いなく。問題は陛下のご負担です」
「そのへんは上手くやるから——」
「そうまでして、入植地を直轄にしておきたいのはなぜです?」
ファラミアは主君の言葉を遮った。これ以上、表面的な言い訳を聞いていたくない。
「……ファラミア?」
エレスサールが怪訝な顔で首を傾げる。
「解放した人々を直轄地で保護なさりたいお気持ちはわかります。ですが、誰にも任せられないのは……」
誰も信用なさっていないからではありませんか——そう続くはずの言葉が途切れた。喉元までせり上がってきていながら、どうしても口に出来なかった。無礼は承知だ。だが、彼が臣下を信用していないと疑うことは、結局、己が主君を信じていないと言うに等しい。それを口にするのかと思うと、舌が動かなくなった。
「——ファラミア」
エレスサールは立ち上がり、窓際のテーブルを目で示した。ぽん、とファラミアの肩を叩き、自らは棚から茶器を取り出し、お茶の支度を始める。ファラミアが慌てて手を貸すと、主は「ありがとう」と言い、暖炉の鉄瓶を取り上げた。本当になんでも自分でしてしまう人である。そう思っているうちに、茶葉を蒸す良い香りが執務室を満たした。
「さて、さっきの話だが——」
テーブルに付くと、エレスサールはおもむろに話し始めた。
「決して、あなたや諸侯を信用していないわけではない。このことは信じて欲しい」
主君の真摯な眼差しに、ファラミアは黙って頷いた。
「ただ、彼ら入植者たちの感覚は、わたしたちとは少し異なると思う。たとえば、農作物をつくっても、今まではすべて主人に納めていた。収穫した物を元手に商売することなど無理だろう。だから、しばらく様子を見たいんだ」
「そういったこと——商売に必要な知識については、文字の読み書きなども合わせて、学ぶ場を用意させますが」
その辺りの事情はファラミアも承知している。諸侯には指示を出すつもりだ。だから問題はないはずだと意見してみたが、エレスサールは小さく首を横に振った。
「それも必要だが……もっと根本的なことがあるんだ」
「根本的……?」
ファラミアは首を傾げた。主の言う“根本的な問題”がわからない自分に、微かな苛立ちを感じながら。
「そう。たとえば……、彼らは自分で金を持ったことがない。だから、エール一杯の値段も知らない」
何気ない言い方だったが、ファラミアはハッと目を見開いた。
「エールに限らず、物の適正な値段——相場がわからない……と思う、たぶん」
確かにそうだ。金銭とは無縁の暮らしだった者に、市場の相場などわかるはずもない。虚を突かれた気分になった。
「極端なことを言えば、エール一杯に金貨を寄越せと吹っかけられても、そういうものかと思ってしまいかねない。そういう人たちなんだ。彼らは」
エレスサールはフッと表情を緩めると、茶器を取り上げた。芳しい赤みを帯びた琥珀色の液体が白磁に注がれる。普段なら、主の行動を止め、自分が茶器を取り上げるところだが、今日は咄嗟に反応出来なかった。
「もちろん、そうでない人もいるだろう。歳を経て鎖に繋がれた者は、その辺りのことは当たり前に知っているだろうから。けれど、子供の頃から奴隷として育った者はそうはいかない。生活のすべてが、主人から与えられるものだけで成り立っていたんだ。口にするものから着るものまで、すべてがそうだ。彼らの意思も判断も入ることは許されない。逆らえば——」
言うまでもないというように、エレスサールは言葉を止めた。
「殺される、わけですか……」
「いきなり殺されることはなかったかもしれないが、見せしめに殴打されるくらいのことはあっただろう。今でも、“仲間”以外の人間とは口を利かない者がいると聞いたが……」
その話はファラミアの耳にも入っていた。傷病者の手当てに当たっていた薬師から聞いたのだ。具合を尋ねてもロクに返事をせず、警戒するように睨むのだという。それだけ脅えているのだ。同じ囚われの身だった“仲間”以外には、何をされるかわからないと——。
「解放されたと言っても、それは身の上の話だけだ。心は恐怖に支配されている。人に逆らったらどんな恐ろしい目に遭うかしれないと。あの人たちにとって、逆らうことは計り知れない恐怖を招く行為なんだ」
淡々と語られる内容を、ファラミアはただ聞くだけだった。
「だから、彼らに“逆らう”という選択肢はない。日常的に虐げられてきては、矜持の持ちようもないしな。意味なく鞭打たれても、這い蹲って容赦を願うのが彼らの選択なんだ。そんな彼らに……たとえば、商取引が出来ると思うか?」
訊き方は穏やかだったが、それは反語的な言葉だった。ファラミアは茶を啜りながら“答え”を求めた。
農作業は出来るだろう。収穫した物の相場や売り方を教えることも出来る。だが、客が高圧的な態度に出たら、言われるままに渡してしまいかねない。駆け引きなど考えられないだろう。
官吏に税を請求されても、それが適正な税なのか、判断できない恐れもある。不正な税を要求されているとわかっても、官吏に逆らうことなど思いもしないに違いない。
どれも時間をかければ解決できる問題だが、そうなるまでは注意が必要だ。彼らの特殊性を嗅ぎつけて、悪用する者が出ないとも限らない。どんなに酷い扱いをしようと、一切逆らわないのだ。都合のいいように搾取されてしまう。
——なるほど……。
エレスサールが慎重になるはずだ。ファラミアは茶器を置いた。
「陛下のおっしゃるとおりですね。もうしばらく直轄地にしておきましょう」
直轄地ならば常に報告が入り、状況を把握しやすい。問題があっても素早い対処が可能だ。
領主が存在すれば、彼らを介して事を為さねばならない。不穏な話を耳にしても、勝手に調査は出来ない——少なくとも表立っては。誰しも自領のことに口を挟まれたくはないものだ。土地が国王からの下賜であっても、逐一詳細な状況報告を義務づけるなど無理である。義務づけたところで守られることもないだろう。専横だと反発を招くだけだ。
「すまないな。わがままを言って」
エレスサールの口許に、我を押し通したことを詫びるような笑みが浮かんだ。
「いいえ」
ファラミアは首を振った。
「わたしは今、我が主が“エルフの石”で良かったと、改めて思いましたよ」
本当に、自分が仕える主君がこの人で良かったと。そして——、
「同時に、いかに自分が至らない人間かも……」
まだまだ自分は底が浅い。
「そんなことはないだろう」
エレスサールが強い声を上げた。
「ミナス・ティリスで育てば、物価の相場は自然に覚わるものだ。執政家の人間ならば尚更……、庶民の金銭感覚とは言えないかもしれないが……。とにかく、この都で金銭のやり取りは常識なのだから、彼らの感覚がわからなかったからといって恥じることはない。わたしの説明で気づくぐらい、あなたは聡い人だよ」
エレスサールは厳かに言い、最後はまるで教師が生徒を諭すかのように締めくくった。その口振りには苦笑を禁じ得なかったが、今の言葉からひとつの疑問が浮かび上がった。
「お訊きしてもよろしいですか? 陛下はなぜ、彼らのこと……たとえば、物価に疎いことをご存じなのです?」
前身が野伏で街暮らしと縁が薄かったとはいえ、物価に疎かったはずはない。おおよその相場は把握していたはずだ。先程の話は想像だけで考えられることだろうか……。
「過去に会っているからだよ」
事もなげにエレスサールは言った。
「二、三十年前になるかな。アンドゥインの東を探っていた仲間が、痩せこけた子供を連れて帰ってきた。林の中で、足枷を付けられまま横たわっているところを見つけたらしい。なぜ、そんなところに放り出されていたのか……詳しい事情は子供自身もわかっていなかった。ただ『病気になって置いていかれた』とは言っていたそうだ。おそらく、病に罹ったために、足手まといだと置き去りにされたんだろう。実際、仲間の野伏が見つけたときは虫の息だったそうだ」
昔を思い出すような光が青灰色の瞳に浮かんだ。
「その野伏は前年、ひとり息子を亡くしていた。だから、似た年頃の子供が倒れているのを見過ごしに出来なかったんだ。当時、非常に危険な地だったにも係わらず、アンドゥインの東岸に留まって子供の看病をした」
そこでエレスサールは何を思ったか、くすりと笑った。
「おかげで彼の仲間は非常に気を揉んだ。当時、単独行の仲間が消息を絶てば、それは凶事の先触れだったからね。ひと月くらい経ってから、無事だと報せが届いてほっとしたが、その後、彼が子連れで村に帰ってきたときには、ちょっとした騒ぎになったよ——隠し子じゃないかとね」
最後の一言を聞いてファラミアも笑った。
「今でもその子は——もう立派な大人でしょうが、アルノールに?」
そう尋ねると、エレスサールから意外な言葉が返ってきた。
「いや、昨年からミナス・ティリスに来ている。あなたも幾度か会っているよ」
「わたしも?」
「ああ。ときどき、北方の野伏の館から使いが来るだろう? ミヌイアリオンという名の。彼だよ」
「彼が……」
ミヌイアリオンなら知っている。黒髪で少し暗い緑灰色の瞳をした、ファラミアと同じ年頃の男だ。書庫で姿を見かけ、話したことがある。剣は上手くないが、書物が好きだと照れたように笑っていた。自分も書物が好きだと話したことが縁で、彼の蔵書を数冊借りたこともある。確かエルフ語の古書も混ざっていたが、彼にそんな過去があったとは——。
「元々、ゴンドールの人間だと思う」
エレスサールが静かに言った。
「本人の記憶が曖昧なので確かなことはわからないが、姿はこちらの人たちと変わらないからね」
ファラミアは頷いた。それどころか、話を聞かなければ北方の野伏の血筋だと信じて疑わなかっただろう。それくらい、ミヌイアリオンはドゥネダインの特徴を備えた姿をしている。
「彼は出身地だけでなく、元の名前も本当の年齢もわからないままだ。今の名前は養い親が付けたんだ。彼と出会ったのが夜明け間近だったからと。年齢は外見から推測したんだが、それも決めるときに夫婦で少し揉めていた。痩せているから幼く見えるだけだのなんだのと——。幸いそういったことも、ミヌイアリオンのいい思い出になっているらしいが」
エレスサールの顔にやさしい微笑が浮かんだ。
「良いご夫婦なんですね。彼の養い親となった人たちは」
「ああ。良い人たちだった」
万感の思いがこもった短い言葉と過去形の表現に、ファラミアは養い親の現状を訊くのを止めた。
「さて、仕事に戻ろうか」
エレスサールが立ち上がった。
「陛下——」
ファラミアも立ち上がり、脳裏に浮かんだある考えから、主君を呼び止めた。
「ミヌイアリオン殿に頼みたいことがございます」
「入植者たちと接する助言かな?」
振り向いた主君が苦笑めいた表情を浮かべた。
「ええ。……避けたほうがよろしいでしょうか」
助言を求めることは、ミヌイアリオンの辛い記憶を呼び戻すことになる。また、ファラミアは必要以上に他の者に知らせる気はないが、それでもどこからか彼の出自が漏れる恐れはある。口さがない者はどこにでもいる。
——どこの馬の骨とも知れぬ……。
そんな陰口で、あの青年の顔を曇らせたくはない。エレスサールは言葉を探すように黙り込んでしまった。
「彼に話を訊くべきではないとおっしゃるなら、今申し上げたことはお忘れください。陛下からお聞きしたことも忘れます」
口にすることではなかったと、ファラミアが提案を撤回しかけると、
「いや、そういうことでは……」
慌てたように、エレスサールが言った。
「わたしもときどき尋ねていたから、訊くのは構わないんだが……」
歯切れ悪く呟くと、ファラミアを見て小さく笑った。
「また執政殿の仕事を増やしてしまうな」
——まったく、この人は、何を気にしているのかと思えば……。
ファラミアは息を吐いた。仕事が増えるといっても大した量ではない。それを国王がいちいち気にしてどうするのだ。感覚がズレているにもほどがある。
「そのようなことはお気になさらず。わたしのことはお構いなくと、申し上げたではありませんか」
「そういうわけにはいかない。あなたに倒れられたら、わたしが困る」
真剣な表情で言われて、ファラミアはつい笑った。すると——、
「笑いごとではない。本当に困る」
今度はじろりと睨まれた。あまりのことに吹き出しそうになる。
「ご心配なさらずとも、倒れるようなことにはなりませんよ。増えた仕事の分だけ、部下を働かせれば済むのですから」
そう言ってにこりと笑うと、エレスサールはまじまじとファラミアを見つめ、静かに息を吐いた。
「執政殿の部下は大変だな。主人が次から次へと王から仕事をもらってくる」
「それが臣下の務めというものです」
「それが務めね……」
エレスサールは納得しかねるように呟き、首を傾げた。
「ええ」
ファラミアが頷くと、主は諦めたように苦笑いを浮かべた。が、ふと何か思いついたような顔になり、青い目を煌めかせて意外なことを訊いた。
「では、国王の務めは何かな」
どういう返答を期待しての問いなのかにわかに計りがたいが、面白がっていることは間違いない。着飾って玉座におさまること——と答えたら、どんな顔をするだろう。ファラミアは「さあ……」と考える素振りしてから、おもむろに言った。
「執務室を抜け出すことなく、政を執っていただければ充分かと——」
たった今、面白そうな光を浮かべていた青灰色の瞳が、恨めしげにファラミアを一瞥した。それに満面の笑みを返すと、尊き主は肩を落として執務机に戻り、ため息を吐いて書面を広げた。そんな主君の姿に、ファラミアの口許は自然と綻ぶ。
本当は脱走癖など大した問題ではない。型破りで感覚が大いにズレていようと、そんなことは構わない。
——この人以外の王は考えられない。
それは先程の話で改めて感じた。エレスサールは前の戦いでの勇猛さが名高い王だが、決して武に優れるだけの人ではない。鎖に繋がれていた者の心情を汲み取る、思慮深い人物でもある。
——ゴンドールは善き王を得た。
その王に改めて白き杖を授けられたのだ。主がペンを走らせる音を聞きながら、若い執政は幸せな心地で目を細めた。
END