選択肢
部屋の中がゆっくりと、だが確実に薄暗くなってきた。窓枠の格子模様をくっきりと床に描いていた影も薄れてきている。陽が傾いてきたのだ。普段の軍議なら、この辺りで小休止となる……いや、はじまった時間を考えれば、既に終わっている頃だろう。
けれど、そんなことを気にしているのは、出席者のうちソロンギル一人だけかもしれない。出席者の関心は、テーブルを挟んで睨み合う二人の男に集中していた。対峙する一人は高位の文官、もう一人はカイア・アンドロス駐留部隊の武官だ。
「先日要望を出した折りはペラルギアの防備、今回はウンバール対策が優先。カイア・アンドロスの砦はいつになったら修復できるのだ! 今日こそははっきりした答えを聞かせてもらうぞ」
半年程前、カイア・アンドロスが嵐に見舞われ、砦の一部が崩れた。石垣の崩れなら駐留部隊で修復可能だが、地盤が崩落したため、部隊だけでは対処できないという。
だが、訴えがあった頃、ちょうどペラルギアの砦の補強工事がはじまっており、他にまわせるだけの十分な人員や費用がなかった。カイア・アンドロスの一件は後まわしになり、砦は応急処置をしたものの、使えぬまま放置された。
「貴殿のお気持ちはわかるが、今、我が国にとっての脅威はアンドゥイン河口を荒らすウンバールの海賊。それに対処するのが急務だ」
文官が淡々と答える。
「カイア・アンドロスの守りを蔑ろにしているわけではない。だが、予算には限りがある。急を要するところが優先されるのは当然の措置。我が軍はカイア・アンドロスだけを守っているのではない。もっと大局を見なされ」
「わかったような口を利くな!」
武官がこめかみに血管を浮かせて怒鳴った。
この協議は普段の軍議とは違い、各部隊への予算や物資の分配の大枠を決めるものだった。昨日、各地の情勢を報告し、部隊ごとの要望を出し合った。提出された情況と要望に応じて予算を決めていくわけだが、配分の多い少ないは交渉役の手腕によるところが大きいと言われている。それだけに出席者の意気込みは並々ならぬものがあり、発言にも熱が入っていた。
ただし、ソロンギルの事情は違う。直属の将軍から「根回しをしてあるから心配ない。気楽に行ってこい」と送り出されたクチだ。説明もお膳立てされた台詞をしゃべったまでで、熱がこもっていたかというと、そのあたりは自信がない。
だが、将軍の根回しの効能か、所属する隊の予算は要望どおり通りそうだった。だが、そうならなかったのがカイア・アンドロスだ。修復がまた先送りになったのだ。しかも、これで三度目である。派遣されてきた武官が黙っているはずもなかった。
「貴殿こそ、現場の情況も知らず、ただ机上の計算をしておるだけではないか! それで大局が見えているなどと、片腹痛いわ!」
「……な、なんたる暴言。侮辱ですぞ!」
これまで冷静さを保っていた文官だったが、侮蔑の言葉を投げかけられて頬を紅潮させた。握り締めた拳をワナワナと震わせている。
「何が侮辱だ。本当のことではないか。数字をいじくりまわして大局が見えるものか」
「その数字こそ、全体の成り行きを教えてくれるのだ。一駐留地のことしか頭にないそなたこそ、何も見えておらぬ盲人(めしい)に過ぎぬ」
事は予算配分についてなのだが、いつの間にか争点は「どちらが全体の状況を把握しているか」になっている。いちおう議長役はいるが、穏やかな人柄の文官だ。この口論を止められるほどの迫力はない。下手に口を出しても「黙っていろ」と一蹴されるのがオチだ。
ただし、議長が仲裁に動かない一番の理由は別にある。臨席者の中に、彼より仲裁役に相応しい人物がいるからだ。白の塔の大将デネソール——現執政の嫡子でもある。
この軍議自体は総大将が顔を出すレベルのものではなかった。だが、予算配分の概要を詰める協議ということで、関心が高かったのだろう。今日の予定が空いたとかで急遽、大将閣下の臨席が決まった。
総大将の臨席に、出席者は最初緊張していたが、彼は口を挟まないと明言し、そのとおり聞き役に徹したため、時が経つにつれ会議は昨日と同じペースで進むようになった。が、今や会議の範疇を超えた光景が、公子の眼前で繰り広げられている。
ひょっとしたら、誰もが閣下の仲裁を望んでいるのかもしれない。だが、執政家の公子は腕を組んで目を閉じ、黙したまま動かない。「口は挟まぬ」と宣言したとおり、沈黙を守るつもりだろうか。彼がこの事態をどう捉えているかは、眉間に刻まれた深い縦皺を見れば一目瞭然である。あの縦皺の前に、仲裁を進言する勇者はいない。進言した途端、その身には「口論の仲裁すらできぬ役立たず」のレッテルを貼られるだろう。
そんな愚かな勇者になるぐらないなら、二人に気の済むまで怒鳴り合ってもらって、物別れ——のほうが幾分マシと、誰もが思うだろう。ソロンギルとてあまり目立つことはしたくない。しかし——、
「人を盲人(めしい)呼ばわりするほうが余程礼儀がないではないか!」
「そう言う貴殿こそ、はじめから文官を莫迦にしているであろう!」
口論の勢いは一向に衰える気配がない。物別れするにも相当時間がかかるだろう。
——今日は……夕食抜きかな。
ソロンギルは窓の外、暮れなずんでいく空を見ながら、ひっそりとため息を吐いた。まあ、一食抜くぐらい慣れてはいるが……。それに、テーブルの上には水差しが幾つか置いてある。とりあえず水は手に入るのだ。話せば喉が渇くからという配慮で用意されているのだが、
——あの二人には必要なさそうだな。
エネルギッシュに怒鳴り合う二人を一瞥し、ソロンギルは水差しに手を伸ばした。
「ええい! 話にならぬ!」
バシッと書類をテーブルに叩きつけたのは、当初冷静に対処していた文官だった。椅子を蹴るようにして立ち上がる。
「これ以上、貴殿と話したところで時間の無駄だ!」
「それはこっちの台詞だ!」
武官も勢いよく立ち上がった。
「散々コケにしおって。許さん!」
叫ぶや、剣の柄に手をかけたから、さすがに周囲も傍観していられなくなった。
「……落ち着いてください」
議長が制止の声をかける。だが、逆上した相手が聞くはずもない。
「うるさい! 貴殿も我が部隊をコケにしているのであろう」
他の武官も腰を浮かし、剣の柄に手をかけた。一触即発だ。動じずに座っているのはデネソールだけである。ソロンギルは水差しを左手に持ち、そろりと右手を挙げながら立ち上がった。
「あのう、すみません——」
睨み合う二人を除く顔がギョッした表情で振り向いた。何を言い出すんだという、緊張した空気が場に張り詰める。それに気づいていないかのように首を傾げ、ソロンギルは言葉を続けた。
「お取り込み中のようですので、席を外させていただいてよろしいでしょうか」
しん、と沈黙が落ちる。
「水差しの水が無くなったので、汲みに行きたいと思いまして……」
水差しを掲げながら言った途端、こちらを見ていた出席者の口がぽかんと開いた。睨み合っていた二人も毒気を抜かれたような顔になる。やがて——、
「くっ……」
誰の口からともなく笑いが漏れ、場は笑いに包まれた。
「さて、水も切れるほど時間が経ちましたし——」
笑い声が小さくなったところで、議長が立ち上がった。
「日も暮れてきました。本日はここまでということにしませんか。日程は明日まであります。明日まとめましょう。いかがですか?」
異議の声は上がらず、そこで散会となった。
「——ソロンギル殿」
部屋を出ようとしたところ、議長に声をかけられた。
「先程は助かりました」
穏やかだと言われる人物はその評判どおり、己より若く官歴も浅いソロンギルに頭を下げた。
「いえ、そんな……。わたしは本当に水を汲みに行こうと思っただけですから。けれど、議長のお役に立ったのなら光栄に思います」
そう答えると、議長はやさしい笑みを浮かべた。
「貴殿は良い人ですな」
「恐れ入ります」
軽く頭を下げたところ、「ソロンギル」と鋭い声に呼ばれた。振り向くまでもない。デネソールの声だ。大将閣下のお呼びとあれば、待たせてはおけない。係わりたくない人物なだけに、機嫌を損ねることは避けたかった。
「失礼します」
議長に会釈をして、ソロンギルは声の主に駆け寄った。
「はい」
「大したものだな。笑いを誘って場をおさめる術も心得ているとは」
皮肉の言葉に、ソロンギルは非礼にならない程度に肩をすぼめ、議長に答えたのと同じく謙遜の言葉を述べてみせた。
「偶然ですよ。わたしは水を飲みたかっただけです」
「そうか……」
デネソールは何やら思案するような顔をしたが、すぐに口を開いた。
「ならば、付き合え」
「……は?」
水を飲みたかったという己の発言と、「付き合え」の命令が結びつかず、ソロンギルの思考は一瞬停止した。
「水が飲みたかったということは、喉が渇いておるのだろう?」
「ええ、まあ……」
「ちょうどいい。昨日うまいエールが入った。たっぷり飲ませてやる」
そこに結びつくのか——とわかったところで、めでたくもありがたくもない。このままでは大将閣下の館に連行されてしまう。ソロンギルは焦った。
「あ、あの、せっかくですが、将軍に報告をしなければなりませんので……」
言い訳でも断りの口実でもない。出席者として会議の進捗状況を報告する義務があるのは事実だ。しかし、国軍の総大将はあっさりと、その義務を免除してくれた。
「心配ない。報告なら書記官を走らせた。ついでにお前を借りることも伝えるよう言ってある」
さすがと言うべき手回しの良さだった。伊達に王なき王国を千年支える家の継嗣ではないということか。茫然としていると、先を行く公子が振り返った。
「何をしている。早く来い」
彼の中では、ソロンギルが付いてくることは決定事項なのだろう。傲慢とも言える強引さだが、為政者には必要な要素なのかもしれない。何にせよ、今のソロンギルに選べる道はひとつしかない。
「はい」
気の進まぬ返事とともに、ソロンギルは残された道へと足を踏み出した。
END