深淵
リングロ川をさかのぼり、白の山脈に分け入った岩場で、ゴンドールの兵士たちが縄一本を頼りに崖をよじ登っていた。腰に剣を帯び、弓と矢筒、背嚢を背負った重装備だが、それを感じさせない速さで登っていく。
「慣れたものだな」
登攀訓練を下の岩棚で見守っていた白の塔の大将、ボロミアは感心して言った。
「野伏の教えが良かったものですから」
ボロミアの隣に立つ案内役の士官が応じた。山野での行動は野伏が得手とするところだ。野伏と言えば、指輪戦争後に即位したエレスサール——アラゴルンの前身で名高いが、ゴンドールでも冥王の手に落ちたイシリアンの地では、野伏の部隊が活躍していた。
忌まわしい力の指輪は滅びの山の炎に焼かれ、冥王の消滅とともにモルドールは崩壊したが、残党はまだ残っている。彼らとの戦いに野伏の能力は不可欠だ。また、モルドールの影が払われて人的交流が活発化した一方、街道を行き交う商隊や旅人を襲う盗賊がしばしば現れるようになった。取り締まりは通常の兵士で対処できるが、賊の動きを探る場合は隠密に行動できる野伏のほうが適している。
今後も野伏――その能力が必要とされる場は増えるだろうということで、イシリアン以外でも山野での行動および探索を隠密にできる部隊を創設することになり、兵を募った。集まったのは二十人余り。登攀は訓練の仕上げであった。
ボロミアは国軍の総大将であり、一部隊の訓練のすべてに立ち合うことはない。ただ、この部隊の創設には積極的だったため、気になっていた。訓練が最終段階に入ったと報告を受けて、視察の予定をねじ込んだ。
「閣下——」
野伏の一人と話していた副官が足早にやってきた。
「そろそろお発ちになりませんと」
一刻前に着いたばかりだが、無理にねじ込んだ予定のため、時間的余裕はなかった。今発たねば日暮れ前に山を下りられなくなる。
「慌ただしくてすまんな」
ボロミアは案内役に詫びた。
「いいえ、とんでもありません。閣下のお越しを聞いて、兵たちの士気は上がりました」
案内役は笑顔で言った。おべっかというわけでもないらしい。
「今後の活躍が楽しみだ」
崖を振り仰ぎ、ボロミアは言った。
「陛下にも頼もしい部隊が増えるとお伝えしよう」
「ご期待に添えるよう精進いたします」
かしこまって答えた案内役は「お急ぎでしたら——」と言葉を継いだ。
「近道があります。少々道は悪いですが、よろしければご案内しましょう」
「馬は通れるのか?」
「はい。本道よりやや傾斜が急な程度です」
「そうか。ならば問題ないな」
強行軍で来た視察だ。帰路も余裕のある日程ではない。随行者が少数なぶん、一人一人にかかる負担は増え、疲労が蓄積している。里へ早く着けば時間に余裕が生まれ、そのぶん彼らを休ませることができる。
「案内を頼む」
「かしこまりました」
◆◇◆◇◆◇◆
案内役に付いて馬を進めること半刻、木々の間から来るときにも渡った橋が見えてきた。
「おお、ここに出るのか」
ボロミアは橋の手前で馬の足を止め、来た道を振り返った。
「なるほど、早いな」
往路より明らかに時間が短縮されている。
「はい、四半時ばかり短縮できます」
案内役は満足そうな笑顔を浮かべた。
「ここまで来れば、あとの道はわかる。手数をかけたな。案内ご苦労だった」
ボロミアは案内役をねぎらい、馬首を橋へ向けた。
「道中、お気をつけて」
見送りの言葉に手を振って返し、ボロミアたちは馬を進めた。
橋の下は青い水を湛えた淵だ。陽の光を反射した水面が静かに揺らめいている。透き通った青色は愛しい主君の瞳を思い出させ、ボロミアの口許に笑みをつくった。この視察にも同行したがっていた。だが、総大将のボロミアの視察が既に無理矢理なのだから、国王の視察など叶うはずもなかった。
——昔なら自分で行けたんだがな……。
一介の野伏だった頃を懐かしむ言葉に「国王としての自覚を」と、弟と共に諫めることになった。もっとも、王自身、本気で視察が叶うとは思ってなかったのだろう。「言ってみただけだ」と苦笑いをしていた。
——陛下には後日、正式にご紹介いたしますから。
ファラミアが部隊を披露する機会をつくると言って、その場はおさまった。
——報告を楽しみにしている。
見送ってくれた人の瞳の青を淵の輝きに重ね、ボロミアは馬の歩みを少しだけ緩めた。
青い水の中で時折、黒い影が動くのは魚だろうか。底まで見通せるほどに澄んだ淵は、見ていると吸い込まれそうな気分になる。
陽光をはじく水面の輝きは、その奥に横たわる水底へ誘うようにゆらゆらと揺らめき、見ているボロミアの頭の芯をもくらりと揺らした。その瞬間、景色が青く染まった。
怪しく揺らめく澄んだ青に呑まれ……。
「——閣下っ!」
上擦った叫び声がボロミアの鼓膜を打った。強い力に二の腕をつかまれる。がくりと首が揺れた。馬のいななきが響く。
「……ぅおっ」
目を見開いたボロミアの口から、小さなうめきが漏れた。落馬しかかったのだ。
「大丈夫でございますか」
腕をつかんだ部下が尋ねる。
「あ、ああ……。大丈夫だ」
体勢を整えながらボロミアは頷いた。
「すまん。助かった」
こめかみをつたう冷たいを汗をぬぐって、礼を言った。
「……少し目眩がしてな」
武人として情けない言葉だが、落馬しかかっておいて「なんでもない」とは言えなかった。
「いえ、大事にならなくてようございました」
「ああ、そうだな。急ごう」
ボロミアは手綱を握り直すと馬の腹を蹴った。その目が再び淵に向くことはなかった。
◆◇◆◇◆◇◆
ボロミアたちはペラルギアで船に乗った。ハルロンドまでアン・ドゥインを遡るのだ。
シンダールで“王家の船の庭”を意味する港町は活気に満ちていた。何艘もの船が停泊し、桟橋では荷の上げ下ろしがされていた。モルドールが滅ぶ前は、こんな光景は想像もできなかった。
——平和になったものだ。
動き出した船の上で、ボロミアは賑わう港を眺めた。
——王おわすおかげだな。
脳裏に白い都の姿がよぎり、主君の面影が浮かんだ。
——今頃は何をなさっておいでだろう。
何かの会議か、それとも書類の山と格闘中か。ひょっとすると執務室を抜け出す悪癖で、侍従や近衛兵を困らせているかもしれない。
——早くお会いしたいものだ。
募る思いを乗せ、船はアン・ドゥインを遡りはじめた。
西の空が僅かに赤みを帯びてきた頃、ハルロンドに着いた。
ボロミアたち一行はすぐさま用意されていた馬に乗った。駆けていくうちに、やがてエクセリオンの塔が見えてきた。ミナス・ティリスだ。
「もう一息だな」
ボロミアは独りごち、部下を振り返った。日が暮れればミナス・ティリスの大門は閉まる。大将であるボロミアならば、門を開けさせることができるが……。
「急げば閉門までに間に合う。行くぞ」
「はいっ」
歯切れの良い返事を背に、ボロミアは馬に鞭を当てた。
第六環状区で馬を下り、執務室に向かったボロミアを、執政職にある弟のファラミアが出迎えた。
「お帰りなさい、兄上。視察はいかがでした?」
「ああ、上々だ。頼もしい部隊になるだろう」
ボロミアは機嫌良く答えた。この度の部隊創設には、イシリアンの野伏の長だったファラミアにも協力してもらった。それだけに彼も気にしていたのだろう、ボロミアの評価を聞いてホッとした表情を見せた。
「それはよかった。陛下もお喜びになるでしょう」
自ら視察を希望していたぐらいだ。良い報告を聞けば喜ぶに違いない。ファラミアの言葉に大きく頷き、ボロミアは留守中の様子を尋ねた。
「こちらはどうだった? 何か変わったことはなかったか?」
「特にこれといったことは……」
思いを巡らすような顔をして、ファラミアは言った。
「平穏でしたよ」
「そうか。陛下のご様子は?」
「政務に励んでらっしゃいました」
ファラミアはにっこり笑うと言葉を付け加えた。
「ボロミアが心配するようなことは何もなさいませんでしたよ」
含んだ物言いに、ボロミアはムッとした。まるで自分が王を信用していないようではないか。
「わたしは陛下のなさることを心配したことなどないぞ」
「おや、そうですか。部屋を抜け出していないか、街へ下りて無頼の輩と剣を交えてないか、そうした心配をしていたのではと、つい気をまわしてしまいました」
澄ました顔で言われて、ボロミアは唇をゆがめた。そんなこちらの姿にファラミアは笑いを噛み殺している。色恋沙汰に縁遠かったボロミアが、王に惚れ込んでいる姿をからかっているのだろう。そうしたことをボロミアが苦手としていることも承知の上で……。可愛くない弟だ。
だが、ボロミアも本気で腹を立てる気はない。話を終わらせれば済むことだ。
「何もなかったと聞いて安心した。陛下へごあいさつして参ろう」
扉へ向かって歩き出す。主君へ帰還のあいさつをするのだ。ファラミアとて止められまい。そう考えたが、弟のほうが一枚上だった。
「残念ながら、ボロミア。今伺ってもお会いできませんよ」
「なんだと?」
振り返ったボロミアに、執政閣下は慇懃に答えた。
「一刻も早く陛下にお会いしたい気持ちはわかりますが、陛下はただいま公使たちと会食中です」
早く会いたい一心で帰ってきたのにこの始末だ。ボロミアは肩を落とした。
「というわけで、兄上。夕食は執政舘で取りませんか? 湯の用意もしますから旅の汚れも落とせますよ。もちろん着替えも」
有能な執政は手まわしも良い。どこか釈然としないものを感じながらも、ボロミアは弟の言葉に頷くしかなかった。
「世話になろう」
◆◇◆◇◆◇◆
執政館で夕食を取った後、ボロミアは王の私室へ向かった。私室と称しても執務室の隣である。そのほうが都合がいいというのが王であるアラゴルンの主張だが、後宮から王の足が遠のくことに女官たちは嘆いている。
ただし、王と王妃の仲は良好だ。夕星の王妃はエルフである。若く美しい姿をしているが、既に二千七百年以上生きていると聞いた(聞いたときは気が遠くなった)。時間に対する感覚が人とは異なるのか、夫の姿がしばらく見えなくても気にならないらしい。
——近くにいるのはわかってるんですもの。それに、エステルが幸せならいいの。
王の子供の頃の名を口にした王妃は、鈴を転がすような声で笑った。実に寛大な妃である。その寛大さに自身も救われていることをボロミアは知っている。王の寛容さにも……。二人の心に人の常識外の広さがなければ、ボロミアは主君を侮辱した不忠者として処刑されていただろう。
主の懐が深いというのは誠ありがたいものである。感謝の念を抱きながら、ボロミアは王の執務室の扉を開けた。
「お帰り、ボロミア」
アラゴルンが笑顔で迎えてくれた。公使たちと会食だったためか、普段より華やかな衣装を纏っていた。黒い外衣には金糸で文様が刺され、袖に大きく入ったスリットからは鬱金色の内衣が覗いている。王の威儀に適った装いだった。髪も結われており、珍しいことに銀の櫛が挿してあった。
軽装が多い主の艶姿をボロミアが見つめていると、アラゴルンがわずかに眉を顰めて首を傾げた。
「ボロミア、どこかおかしいか?」
「いいえ、何も……」
「本当に? 櫛なんぞ挿しているのを見て面食らったのではないか?」
アラゴルンの口許に薄く自嘲めいた笑みが浮かんだ。
「確かにあなたがそういう格好をするのは珍しいが……」
「そうだろう」
得たりという顔でアラゴルンは頷いた。
「滑稽だと言ったんだが、聞いてもらえなかった。あんたの親愛なる弟君にね」
「ファラミアに?」
「ああ、そうだ。おまけに会食が終わっても着替えるなと言われた。櫛を外すのも駄目だと。『ボロミアがお目通りするまでお待ちください』とね」
アラゴルンはふうっと息を吐き、言葉を続けた。
「我が有能なる執政閣下は、わたしが着飾ったらあんたが喜ぶと考えたようだ——が、今回は見誤ったな」
小さく笑って肩をすぼめる。
「あんたは面食らって立ち尽くしていたんだから」
「そんなことはない」
ボロミアは慌てて否定した。立ち尽くしていたのは事実だが、面食らったからではない。見惚れていたのだ。
「似合ってる」
力を込めて言ったが、アラゴルンは疑わしそうに片目を眇めた。
「本当か? 無理に誉めなくてもいいぞ」
「あなたはわたしが無理して世辞を言っていると?」
ボロミアの声は自然と険を含んだものになった。些細なことでも、彼に疑われるのは心外だった。
「いや、しかし……どう見てもおかしいだろ?」
そう言うと、アラゴルンは腕を動かして袖を見遣った。どうやら、櫛だけでなく衣装も似合ってないと思っているらしい。
「いいや、似合ってますぞ」
ボロミアはきっぱりと言った。
「それとも陛下はわたしの言葉を信用できないとお考えか?」
「そうは言ってないが……」
納得できない顔のアラゴルンだったが、むっと唇を引き結んだボロミアを見て言葉を途切れさせた。青灰色の目がボロミアを見つめる。しばしの沈黙の後、彼の肩からふっと力が抜けた。
「すまない。あんたの言葉を信じるよ。櫛が似合うというのは、髭の生えた男としては複雑な気分だが……」
苦笑した王はボロミアとの距離を詰めた。その手がすっとボロミアの肩に触れ、指先が赤い布地に浮く文様をなぞった。
「あんたのほうが似合ってる」
顔を寄せたアラゴルンが間近で囁く。
「男前だ」
ボロミアの頬が熱くなった。気の利いた受け答えをして、想い人の腰を引き寄せる——のが理想だが、舌も腕も動かなかった。元々武張った性格だけに、こういう不意打ちには未だ弱い。何も言えずに突っ立っていると、元の場所へ身を引いたアラゴルンが訊いた。
「視察はどうだった?」
「あ、ああ……そうですな。あれは頼もしい部隊なりますぞ」
内心の動揺を誤魔化そうと声を張り上げた結果、飛び出したのは堅苦しい言葉だった。これでは誤魔化しにならない。だが、アラゴルンは気にしていないようで「それは楽しみだ」と笑った。
「きっと活躍しますぞ」
ボロミアが力強く請け負うとアラゴルンは頷いたが、少し淋しそうな表情を浮かべて呟いた。
「わたしも見に行きたかったな……」
ぽつりと落とされた言葉に、ボロミアは眉を顰めた。
「陛下には後日改めて披露すると取り決めただろう。それで納得したのではなかったか?」
「わかってる」
アラゴルンは苦笑して肩をすぼめた。
「立場は弁えてるよ。そんな厳めしい顔をしないでくれ」
そう言ってから、長椅子のほうを見遣った。卓上に葡萄酒のボトルとグラスが見えた。
「料理長がうまいのを置いていってくれた。飲みながら詳しく聞かせてくれ」
「喜んで」
◆◇◆◇◆◇◆
淡い黄緑色をした液体が、持ち上げた玻璃の杯の中でゆらりと揺れた。グラスに口を付けると、甘い果実香と爽やかな香草の香りがした。少し酸味のあるすっきりとした味が、絹のような舌触りを残して喉を落ちていった。
「さすが料理長の選んだ酒ですな。うまい」
香りと味の余韻を楽しみながら、ボロミアは言った。
「大将閣下が気に入ったと聞けば、料理長も喜ぶだろう」
ボロミアの隣でアラゴルンもグラスを傾けた。
「あなたはどうなのだ?」
国王であり、城の主でもあるアラゴルンの舌に合うか否かのほうが重要だ。
「王が気に入ったと聞いたほうが、もっと喜ぶと思うが」
「もちろん、うまいと思うが、料理長が喜ぶかどうかは……」
アラゴルンは微かな苦笑を浮かべた。
「なにしろ、わたしは彼を困らせてばかりだからな」
「そんなことはないだろう」
アラゴルンに好き嫌いはない。なにしろ、前身が野伏だ。食の選り好みをしていたら飢え死にかねなかっただろう。だから基本的になんでも食べる。食材にわがままを言って料理長を困らせることはないはずだ。例外は、北方生まれアラゴルンが食を細らせる夏場の苦労ぐらいだろう。そう思ったが、アラゴルンは「いや……」と首を振った。
「先日、羊の臓物料理を食べたいと言って、困らせてしまった。羊の胃袋に、他の内臓や肉やタマネギをみじん切りにして詰めた料理だ。たまに食べたくなる」
そういうことかと、ボロミアは息を吐いた。臓物料理は基本的に庶民が口にするもので、貴人の食卓に供する料理ではない。たとえ王の所望であっても、城の厨房を預かる料理長にしてみれば、そんな料理を御前に出す気にはなれないだろう。
「大将殿はどうだ? 食べたことがあるか?」
「ないな」
ボロミアは首を振った。執政家の継嗣として育ったボロミアに、その手の料理を口にする機会はなかった。行軍中であっても、臓物がメインの料理が出てきた憶えはない。下士官たちは食べていたのかもしれないが。
「第二環状区にうまい店があるんだ。今度一緒に行かないか?」
アラゴルンがにこやかに言った。城の外へ誘う言葉に、ボロミアの片眉がひくりとつり上がる。
「アラゴルン。あなたはまたそうやって……」
抜け出そうとする——と、言おうとしたが、ボロミアの言葉を遮るように、アラゴルンがずいっと顔を寄せてきた。
「いいじゃないか。息抜きだ」
青灰色の瞳が間近に迫り、アラゴルンの手がボロミアの頬を包む。
「なぁ、ボロミア」
やや俯き加減の上目遣いで見つめられ、ボロミアの舌は動きを止めた。息がかかりそうな距離まで顔が近づく。淡い色の瞳に釘づけになった。その澄んだ青色に映るのはボロミア自身の影だったが、それが蠢いた気がした。
不意にボロミアの脳裏に、道中で見た淵の光景がよぎった。底まで見通せるほど澄んだ水の中で、黒い影が蠢いていた。魚だと思ったあれは……。
今、目にしている澄んだ青は愛する主君の瞳のはずである。なのに、その表面があの淵のようにきらめき、怪しく揺らめいた。ぞくりとした感覚が背筋を走る。
——目を逸らせ。
理性がそう訴えたが、透き通った青から目が離せない。
——青に……呑まれる……。
頭の芯がくらりと揺れた。あのときと同じ目眩——
青く深い淵に呑まれ……て……。
「——ボロミア?」
名前を呼ばれて我に返った。
「どうした? 大丈夫か?」
気遣う眼差しがボロミアを見ていた。見返した青灰色の瞳にはもう、先程のような怪しい揺らめきはなかった。
「あ……ああ、大丈夫だ」
「そうか? なんだか顔色が悪いぞ」
アラゴルンが労るようにボロミアの髪を撫でた。
「強行軍の視察だったから、疲れたんじゃないか?」
「いや、そんなことは……。ただ——」
「ただ——なんだ?」
こくんとアラゴルンの首が傾く。
「いや、なんでもない」
ボロミアは小さく首を振った。改めて主君の瞳を見る。愛してやまない青い瞳がそこにあった。美しい虹彩に映った燭の灯がゆらりと揺れる。先刻と同じ光だった。けれどもう、ボロミアは怯まなかった。瞳の中で揺らぐ光を見つめ返した。
——この瞳の青になら呑まれてもいい。
淡く柔らかな青を見ながら、ボロミアは思った。この人が誘う深き淵なら、呑まれるのも本望だと——。
「ボロミア?」
じっと見つめていたら、アラゴルンの首がまた傾いた。上目遣いの青い目が不思議そうに瞬く。まるで誘っているのかのような強烈な誘引力を持つ仕草だが、本人にはまったくそんな気はないのだ。その無邪気さが憎らしい。
ボロミアはそっとアラゴルンの首の後ろへ手をまわした。
「アラゴルン」
愛しい名を呼び、その身体を引き寄せる。青灰色の瞳がまぶたの裏へ隠れた。
この先、彼の深き淵はボロミアに留まらず、多くの者を魅了するだろう。そのことに頼もしさと若干の嫉妬心を抱きながら、ボロミアはかすかに震えるまつげの上に、そっと唇を落とした。
END