小憩
霧ふり山脈まで若手の道案内に付いていったハルバラドは、帰路、ブリー村に立ち寄った。野を歩き、オークを狩る野伏だが、人里の様子を知ることも重要だ。人の口に上る話題は世の有り様を知る手がかりになる。酒場の噂話も貴重な情報源と言えた。
——もっとも、一番の目当てはうまいエールだが……。
夜空に子馬が跳ねる看板の下、ハルバラドは扉を開けた。中に一歩入るや、ざわめきに包まれる。酔客たちの話し声や笑い声が混ざり合った音だ。闇の力が増す中でも、こうした場所があることにホッとする。
ハルバラドは一泊の宿を頼もうと、カウンターに近づいた。が、亭主に声をかける直前、目の端で動いた影に足が止まった。
「——族長」
隅のテーブルで見知った姿が立ち上がり、軽く手を挙げていた。北方ドゥネダインの長、アラゴルンだ。
「お戻りだったんですか」
ハルバラドはテーブルに近寄った。アラゴルンは一族の長だが、村に留まる日は少ない。中つ国を単独で歩きまわっている。待ち合わせもせずに、こうして出会えることは滅多にないことだった。
「裂け谷からの帰り道だ。お前は?」
「霧ふり山脈のふもとから。若手の道案内ですよ」
アラゴルンの向かいに腰を下ろし、ハルバラドは言った。
「お前、最近はそんなことまでやってるのか?」
留守居役が道案内していたと知って、アラゴルンが気遣わしげに訊いた。
「たまたまですよ。引率するはずだった奴が近場をまわった際、怪我して帰ってきたんで——ああ、怪我と言っても、足を捻っただけなんですが、さすがに遠出は無理だってことで、代役を引き受けたわけです。たまには外に出たいですしね」
とりあえずの事情を話し、ハルバラドは亭主を呼んでエールと料理を頼んだ。
「そうか。だが、お前が出てくるぐらいだ。手が足りないんだろう?」
アラゴルンの顔が曇る。
「そんなに深く考えないでくださいよ。……まあ、否定はしませんが」
北のドゥネダインは北方王国の生き残りで、元から数は多くない。少数の生き残りが、主家の血筋を守ってひっそりと暮らしてきた。
「元々少ないんですから。我々の数が少ないことは、あなたの責任じゃない」
「わかってる。だが、減っているのは事実だろう」
ハルバラドは無言で肩をすぼめた。確かに減っている。オークやワーグとの死闘を繰り返す一族だ。命を落とす者は少なくない。
そのうえ、闇の勢力から隠れるため、同族以外との係わりをほとんど持たぬよう暮らしているから、婚姻相手も限られてくる。これで数が増えるわけがない。時を経るごとにゆっくりと数が減っていくのは当たり前だった。
「まあ、お前の言いたいこともわかるが……」
アラゴルンが目を逸らし、ふうっと息を吐いた。吐き出された息に自嘲の響きを感じ、ハルバラドは目を眇めた。
「そんな顔をするな」
アラゴルンが苦笑する。
「何もかも背負い込むな——そう言いたいんだろう?」
ハルバラドは複雑な気分でそっと息を吐いた。この人はいつもこうだ。わかっていないようでいて、見抜いている。だから、
——やりにくい。
再び肩をすぼめ、ハルバラドは努めて軽い口調で言った。
「ま、背負ってくださるのも抱え込んでくださるのもいいんですけどね」
アラゴルンが訝しげに首を傾げる。
「“お独り”では止めていただきたいんですよ」
そう口にした途端、アラゴルンは小さく噴き出した。
「気をつけよう」
「そうしてください」
話が付いたところに、エールと料理が運ばれてきた。
「乾杯しましょうか」
「何に?」
「今夜出会えた偶然に」
「そうだな」
コツリとエールの杯を合わせる。ほのかな林檎の香りが鼻腔を抜け、コクのある深い味が喉を通っていった。今年のエールもうまい。
「ところで、お前が道案内に付いた若手組は、その先、彼らだけで大丈夫なのか?」
口許についた白い泡を手の甲でぬぐって、アラゴルンが訊いた。
「心配いりません。ふもとで別の連中と落ち合って、引き渡しましたから」
ハルバラドは落ち合った中堅二人の顔を思い出しながら言った。
「彼らにとっては初の霧ふり山脈です。しごかれてくるでしょう」
「そうか。成長して帰ってくるといいな」
感慨深げにアラゴルンが呟いた。旅は人を成長させる。身を以て知っている長の言葉だった。もっとも、数十年を旅から旅へ過ごした人と、数週間の山中探索では比べるのもおこがましいが。それでも、何かを学んで戻ってきてくれればいいと思う——無事に。
「ええ」
ハルバラドは頷き、フォークを手に取った。
「うまそうだな。それ」
パイプを取り出したアラゴルンだったが、ハルバラドがフォークを突き刺した皿を見て言った。ネギと鶏肉を潰したじゃがいもとホワイトソースで合え、チーズを振って焼いたものだ。表面に焦げ目があり、フォークを入れるとトロリと垂れるソースから、白い湯気とともに香ばしい匂いが立ち上った。
「うまいですよ。一口いかがです?」
「いや、いい。注文する。ついでにエールももらってこよう」
そう言って、アラゴルンは席を立った。
「ひょっとして、まだ召し上がってなかったんですか?」
今から料理を頼むという言葉を聞き、ハルバラドは目を見開いた。そういえば、ここに座ったとき、テーブルにあったのはエールの杯だけだった。
なにしろ食の細い人だ。本人に言わせると、「ちゃんと食ってる」ことになるらしいが、気が向かないと食べずに済ませてしまうことがあるのをハルバラドは知っている。もしやと心配になったが、アラゴルンは「いや」と首を振った。
「シチューを食った。仔羊と香草のシチュー」
「へえ。うまそうですね」
「ああ、うまかった」
アラゴルンが笑う。その笑顔につられるように「次はそれを頼もうかな」と呟くと、気安い長は軽く頷いて言った。
「じゃあ、ついでに頼んでこよう」
他の連中なら族長を顎で使うなんてことはしない。「わたくしが取って参ります」と立ち上がるだろう。だが、いつの頃からか、ハルバラドは慌てなくなった。
長老たちが知ったら「族長を顎で使うとは何事か!」と目を剥くだろうが、当人が自分で動きたがるのだから仕方がない。いちいち止めるのも面倒になり、危険がない限り好きにさせるようになった。
——そのほうが機嫌良く過ごせるようだし……。
エールの杯を持って戻ってくるアラゴルンの笑みを眺め、ハルバラドも口許を綻ばせた。
◆◇◆◇◆◇◆
食事を終えたハルバラドとアラゴルンは、火酒を確保して部屋に引き取った。アラゴルンは早々にブーツの紐を解き、寝台に腰を下ろした。腕をグッと上に伸ばし息を吐き、すっかり寛いでいるようだ。日頃、危険と隣り合わせの単独行をしている人だ。僅かとはいえ、こうした時間を持てていることにハルバラドは目を細め、窓際にあった椅子を寝台脇に動かして座った。
火酒をちびりちびりとやりながら、手持ちの情報を出し合い、今後どう動くか話し合う。夜も更けて、うっすらと酔いがまわってきた頃、寝台の上に広げた地図を眺めてアラゴルンが言った。
「帰りはどうする?」
ネヌイアル(イヴンディム湖)の辺りを指して、こちらを窺う青灰色の瞳に期待の色が浮かぶ。
「急がないなら、エミン・ウィアル(イヴンディム丘陵)の北部をまわって行かないか?」
「……族長」
ハルバラドはこめかみに指をあてた。
「それでは村を通り超してしまうじゃないですか」
エミン・ウィアルはネヌイアルの西から北へと広がる丘陵だ。ブリー村からエミン・ウィアルの北へ向かったら、帰るはずの村を素通りしてしまう。
「いいだろう。近いんだから、ついでに……」
「まったく“ついで”になっていません」
アラゴルンの言葉をハルバラドはぴしゃりと遮った。
「ここと村の間だというならともかく、素通りすることのどこが“ついで”なんですか?!」
「じゃ、じゃあ……」
アラゴルンの視線が他の場所を探すように地図の上をさまよう。
「南連丘に……」
「方角が逆でしょう!」
ハルバラドは立ち上がった。南連丘はその名のとおり、ブリー村の南に位置する。村へ帰るには北へ向かわなければならない。まったくの逆方向である。いったいどこが“ついで”なのか、相手がアラゴルンでなかったら、襟首を締め上げているところだ。
「逆って……僅かな距離じゃないか」
拗ねたように言って、アラゴルンは上目遣いにハルバラドを見る。ハルバラドは腕を組み、首を横に振った。
「とにかく却下です。まわり道も寄り道も無し。最短距離で帰ります」
アラゴルンはつまらなそうに息を吐き、ばたりと寝台に転がった。まるで駄々っ子である。違いは手足をじたばたさせていないところだけだ。
こういう長に相応しからぬ姿を見ても、愛想が尽きるどころか、かえって愛しさが増すのだから、我ながら処置無しだと思う。それも、この人がこんな姿を晒すのは、相当気を許している相手だと知っているからだ。
「そんなに村へ戻るのが厭ですか?」
やれやれと呆れ半ばで尋ねると、アラゴルンはガバッと起き上がった。
「そんなわけはないだろう」
否定は強かったが、その後「ただ……」と低い声が続いた。
「今度はしばらく居るつもりだから、周囲の様子を見ておきたいと思って……」
「しばらく?」
そういえば、滞在の予定日数はまだ聞いていなかった。村に長く留まってくれるならうれしい。
「長くいらっしゃるんですか?」
「ああ。ひと月は居ようか思ってる。できれば冬を越したいが……」
さすがにそれは無理か、と淋しそうな笑みが浮かんだ。
「それなら、一度お帰りになってから、改めて周囲を見まわればいいでしょう」
視線を合わせるように、ハルバラドも寝台に腰を下ろした。
「そうできればいいが……、なかなか出してもらえないだろう?」
諦め気味の笑みを浮かべ、アラゴルンが言った。
村にはアラゴルンの幼少の頃を知っている年寄りがいる。先代の族長アラソルンの記憶がしっかり残っている彼らにとって、“アラソルン様のご子息”が立派に育った姿は感慨深いものがあるらしく、何彼につけてアラゴルンのそばに居ようと試み、村に引き止めようと画策する。
情に流されて出立を遅らせたことなどないアラゴルンだったが、対処には苦慮していたようだ。誰しも年寄りには弱いということだろうか。
「そのへんはうまくやりますよ」
ハルバラドは任せてくれとばかりに請け負った。実際は長老たちに手を焼かされることのほうが多いが、それでも日常的に相手をしているため、対応には慣れている。
「あなたが無茶をしないと約束してくだされば」
釘を刺す言葉を付け足すと、アラゴルンは苦笑いをこぼした。
「近辺は若手連中が見まわってます。付いていってくださらずとも、族長が近くをまわっているとなれば、彼らの励みになりますし、人手不足の中、やり繰りしているわたしも助かります」
本心を言えば、村に帰ったときぐらいゆっくり過ごしてほしい。村の近くだからといって安全の保証はないのだ。年々増えるオーク。冬の訪れとともに襲ってくる狼たち。命を脅かす敵は村の周囲にも存在する。距離の近遠に係わらず、大切な長を送り出したくはない。危険から遠ざけておきたい。
しかし、そんな扱いはアラゴルンが望まない。だから、ハルバラドも本心は口にしない。長が望むように取り計らい、動きやすいように補佐する。それが副長たる者の役目だと、己に言い聞かせて。
けれど、そんなふうにかぶった仮面も、青灰色の瞳は見破っている——ように思える。ほら、今もそうだ。
なぜ、ここで、そんなやさしい表情になるのか——訊きたくなるような顔で、ハルバラドを見ている。それは近隣の巡回に出られることを喜ぶ顔でも、長老たちの引き止め攻撃が減少することに安堵する顔でもない。慈しみ——とでも表現したくなる笑みだ。
「——ハルバラド」
アラゴルンの手が伸び、ハルバラドの頬をそっと包んだ。
「ありがとう」
青い目が細められ、にこりと美しい笑みが広がった。それに見惚れている間に、アラゴルンの腕が首にまわった。
「感謝する」
耳許で謝辞が囁かれ、彼の額がこつりと肩に乗った。その重みと寄りかかってきた体温が心地よくて、ハルバラドはアラゴルンの背に手をまわし、しばらくそのままの姿勢を保っていた。やがて——、
肩の上から安らかな寝息が聞こえてきた。ハルバラドは小さく苦笑し、寝入った長の身体を静かに横たえた。
「お休みなさい。良い夢を」
危険な旅の繰り返しが日常になっている彼の、せめて夢は安らぐものであってほしい。願いを込めて、ハルバラドはアラゴルンの額に唇を落とした。
END