表情
ゴンドール——エルフの言葉で「石の国」を意味する王国の都は、その名に相応しく白の山脈から岩肌を削りだした城塞都市だった。城塞と聞けば厳めしい印象があるが、白い石でつくられた街は気高い貴婦人を思わせる麗しさがあった。
古くはミナス・アノール——太陽の塔と呼ばれていたが、モルドールとの攻防が激しくなって後、守護の塔——ミナス・ティリスと呼び慣らわされるようになったと聞いた。指輪を巡る戦いで大門が破られたが、長くモルドールと対峙し続けた堅牢な要塞だ。破られた大門も、今は以前より丈夫なミスリルで補修されている。
——いつ見ても圧倒されるな。
大門をくぐったリダーマークの王エオメルは、目の前にそびえる崖を仰ぎ見た。環状の都を上から下まで貫く崖は船で言えば竜骨、人に喩えるなら背骨にあたるだろうか。砦にしてはたおやかな印象を抱かせるこの都にあって、唯一男性的な造形に見えた。
「エオメル様、どうかなさいましたか?」
傍らから従者の声がかかった。馬を留めて上を向いているエオメルを訝しんだのだろう。
「いや、なんでもない。行こうか」
エオメルは環状区を上がるべく、馬の腹を軽く蹴った。
◆◇◆◇◆◇◆
ミナス・ティリスの最上層はゴンドール王の居城である。重厚な扉を開けば、白い石造りの空間に黒い列柱が立ち並ぶ荘厳な広間が続く。広間の奥に丈高くそびえるのが玉座だ。黒いきざはしの上、白き玉座に腰を下ろせるのはただ一人、翼ある王冠を戴いたゴンドールの王だけである。現王は北のアルノールと合わせた二国を統べるエレスサール——アラゴルンだ。
アラゴルンはゴンドールよりアルノールに縁が深いという。ゴンドールがエルフの言葉で「石の国」なら、アルノールはずばり「王の国」を意味するそうだ。
——ひと口にアルノールと言っても、第三紀のはじめに分裂してしまってね。
いつだったか、アラゴルンがそう話してくれた。
——そのうちのひとつがアルセダイン。わたしをはじめ、北のドゥネダインの一族はそこの生き残りさ。
分裂し弱体化した北方の王国は魔王が率いるアングマールに滅ぼされた。そうして北のドゥネダインは歴史の表舞台から姿を消した。アラゴルンのことも、彼が指輪を巡る戦いで名乗りを上げるまで、ゴンドールでは知られていなかった。
一方、南のドゥネダインの国ゴンドールは、国としての形は失わなかったものの、王の血統は千年近く前に絶えていた。空位の時代が続き、その間、きざはしに足を掛ける者はいなかった。
前の王家はアナリオン王朝といい、その最後の王はエアルヌアという猛々しい勇者だったと伝わっている。魔王の挑発に乗って呪魔の谷に出向き、そのまま姿を消した。骸さえ戻らなかったという。独身のエアルヌア王には子がおらず、ゴンドールは王権を継ぐ者を失った。北のドゥネダインは国を、南のドゥネダインは王家を、それぞれ魔王によって滅ぼされたのだった。
王を喪った後のゴンドールは執政が統治する国となった。ただし、統治はしても王として君臨はしなかった。エアルヌア王が生死不明なこともあり、時の執政は「王還りますまで、王の御名において杖を持ちて統治す」と唱え、あくまでも王の代理という形を取った。
実権は執政職とともに世襲され、ゴンドールは国として続いた。「王の御名において」という言葉は時とともに形骸化していったが、それでも代々の執政は玉座の脇に置いた椅子に座し、きざはしの上を目指すことはなかった。
けれど今、エオメルの目にはきざはしの上に座する人が映っている。千年の時を超えて、王が帰還したのだ。
「——ようこそ、リダーマークの王。草原の雄にして我が友、エオメル殿」
白と黒に彩られ、ともすれば冷たく感じる空間にあたたかい声が響いた。声は黒いきざはしの上から広間に降り注ぐ。玉座にはたっぷりとした黒いマントを羽織り、翼を象った冠を戴いた貴人が腰を下ろしていた。緩くうねる黒い髪に白銀の冠がよく映えている。
髪がこぼれ落ちる肩にはミスリルのブローチが光っていた。黒いマントの下は銀糸で植物文様が刺された紅のコート。天窓から降り注ぐ白い光に包まれたその姿は神々しい。この人に“友”と呼ばれることの、なんと光栄なことか。エオメルは一礼して答えた。
「お招きくださったことに御礼申し上げます」
「こちらこそ、突然の招待にも係わらず、快くお受けいただいたこと感謝する」
アラゴルンは静かに立ち上がり、ゆっくりときざはしを下りてきた。青灰色の目が穏やかに細められる。
「さあ、堅苦しいあいさつはこれぐらいにしよう。まったく——」
羽を象った冠をかぶった盟友の王は、ぽんとエオメルの肩を叩いた。
「気心知れた仲だというのに、紋切り調で話さなければならぬとは、滑稽で仕方ない」
そう思わないか? ——同意を求めるように小さく首が傾けられる。思わず頷いてしまいそうになるが、エオメルが口を開く前に、渋い声が上がった。
「陛下……」
統治権を王に返上したゴンドールの執政、イシリアン公ファラミアがこめかみを指で押さえながら歩み寄ってきた。
「そのようなことをこの場で口になさるのは……」
「わかった。悪かった」
忠臣の諫言をアラゴルンは軽く手を振って遮った。イシリアン公が軽く息を吐く。彼の妃はエオメルの妹エオウィンだ。剣を振りまわしていた男勝りの妹を娶ったぐらいだから、切れ者であっても柔軟な思考の持ち主だと思うが、王の威儀に係わることには頭の固い反応をするらしい。
もっとも、アラゴルンのほうはその反応を楽しんでいるところもあるようで、苦笑はしても咎めたことはない——エオメルの知る限りにおいてという条件が付くが。けれど、今も青灰色の瞳には楽しげな光が浮かんでいるのを見れば、自分の解釈は間違っていないのだと思う。
「では、もう少し気やすい口を利いてもいい場に移ろうか」
微笑の弧を描いていた唇が、心持ち弾んだ調子で言葉を紡いだ。視界の端で、義弟が再び息を吐いた。
◆◇◆◇◆◇◆
開け放たれた窓から涼やかな風が入ってくる。陽射しは強いが空気は乾いており、石造りの屋内はひんやりとしていた。賓客を迎えるための部屋は、ゴンドールの格調の高さを示すように上品な調度で整えられている。見事な物だと思うが、勇壮な黄金館に慣れた身には、石材と高級品に囲まれた空間は少々堅苦しく感じてしまうのが正直なところだった。
玉座の間を出た後、アラゴルンは控え室へ消え、エオメルはこの客間に通された。あの場で「気やすい口を利ける場へ移ろう」という流れになったが、言葉どおり二人で逐電するわけにもいかない。エオメルは旅装を解き、部屋係が淹れてくれた茶を飲みながら、友国の王の訪いを待った。
「お待たせした」
しばらくしてアラゴルンが現れた。
「これでさっきより少しは動きやすくなった」
冠とマントを外した姿で、彼はうれしそうに笑った。衣服を改めるのかと思っていたが、紅のコートはそのままだった。髪も結われたままだ。
「わたしもお茶をもらっていいかな? 喉が渇いてるんだ」
テーブルの上の茶器を見て、アラゴルンが言った。
「あ、はい。気がつきませんで……」
カップはもう一客ある。それを返してポットを——と、エオメルは手を伸ばしたが、アラゴルンがポットを持ち上げるほうが早かった。
ゴンドールの礼儀作法についてはまだまだ知らぬことの多いエオメルだが、王手ずから茶を注ぐ行為が感心されないだろうことはたやすく想像できた。舅であるドル・アムロスの大公や、ゴンドールの他の貴族とも茶の席を共にしたことがあるが、すべて使用人が給仕をしている。
早々に人払いをしてしまったとはいえ、侍従なり部屋係なり給仕なり、呼べばすぐに来るだろうにこの人はそれをしない。理由は以前聞いた。「わたしでもお茶は淹れられる」であり、「注ぐだけなら尚更、自分でやったほうが早い」というものだった。
「この香りはドル・アムロスの茶葉かな」
茶を注ぎながらアラゴルンが言った。
「香りだけでわかるのですか?」
「昨日飲んだのと似てるからね」
そう言って、アラゴルンはポットを置いた。
「さすがに香りだけで種類を当てられるほど、茶葉に精通していない」
彼は軽く笑ったが、エオメルはアラゴルンが香りだけで茶葉を当てたとしても驚きはしないと思った。前身が野伏だった彼は植物に詳しく、茶についての知識も豊富だ。
「いい香りだ」
カップを持ち上げて、アラゴルンは目を細めた。穏やかな笑顔だ。この人はいろいろな顔をする。エオメルは茶に口を付ける人の顔を見つめた。
アラゴルンは決して表情豊かな人間ではない。危急の際でも判断を見誤らない冷静さを持っている。冷たい人間ではないが、喜怒哀楽がストレートに表れることは稀だ。だから、エオメルがアラゴルンに感じる表情の豊かさは、そういった類(たぐい)のものとはまた別だった。
たとえば、玉座にいるときは同じように笑みを浮かべていても、国主らしく威厳のある面持ちで、神秘的な気配を漂わせている。かと思えば、先程楽しげにイシリアン公を見ていたように、少々人の悪い笑みが浮かぶこともある。そのイシリアン公に言わせると、実年齢のとおり老獪な笑みを見せることもあるらしい。
一方、お忍びで街に出かければ王の気配は消え去り、酒場で笑う顔は市井の民と変わらなくなる。そして今、向かいに見えるのは、貴人の顔はしているけれども、ゆったりと寛いだ表情をしている。玉座で感じた神々しさはない。
——不思議な人だ。
いったいどれだけの顔を持っているのか。茶を飲むのも忘れて眺めていると、視界の中でアラゴルンがこくりと首を傾げた。
「エオメル殿、どうした? カップを持ったまま口も付けないで……」
青灰色の目がしばたたき、訝しげにエオメルを見る。
「何かお茶に入っていたとか?」
アラゴルンは自分のカップを置くと、エオメルの手許を覗き込むように腰を浮かした。
「いえ、そんなことは……」
エオメルは慌てて茶を飲み干した。
「うまいです!」
力強く言うと、こちらを覗き込もうとしていたアラゴルンは、半ば背を反らせるように身を引いた。
「そ、そうか……」
コートの裾をさばいて座り直し、やわらかな笑みを浮かべた。
「それはよかった。舅殿も喜ぶだろう」
「あ、やはり、この茶はドル・アムロスの大公のお心遣いで?」
空になったカップにちらと目を遣って、エオメルは訊いた。舅である彼とは明日会う予定だ。もしこの茶が彼の心遣いならば、忘れぬよう礼を言っておかねばならない。
「いや、特にイムラヒルから配慮があったとは聞いていないから、偶然だと思う。だが、あなたが気に入ったと言えば、彼は喜ぶだろう」
にっこりとアラゴルンは笑った。しかし、すぐにその笑みは人の悪いものに変化した。
「張り切った彼が、エドラスに一年分ぐらい送りつけるかもしれないが」
確かに舅の性格を考えるとあり得る話である。エオメルの妃ロシーリエルがつまり大公の娘なのだが、娘可愛さからなのか、彼からの贈答品は持て余す量が届くことが多い。一年分は大袈裟だが、以前、海産物——といっても干物だったが——が大量に届き、短期間で消費するために黄金館中の者の努力を要したことがある。直後にロシーリエルが釘を刺す手紙を書いたが、効果があったとは言えない状態だ。まあ、茶葉ならば量を送られてもさほど困りはしないが……。
アラゴルンに詳細を話したことはないが、臣下と友好国のやり取りであり、いろいろ聞いているのだろう。にやりと唇の端が上がったさまは、若造をからかう老いた者のそれ、年輪を感じた。なるほど、これが義弟の言っていた老獪な笑みかと思う。けれど、不愉快には思わなかった。それどころか、新たな表情を目にしたうれしさのほうが強かった。
——もっといろいろな表情を、もっと近くで……。
エオメルは腰を浮かし、テーブルの上に乗った敬愛する王の手に、己の手を重ねた。
END