スープ
三ヶ月前に旅立った一族の長、アラゴルンが珍しく陽の高い時刻に帰村した。もっとも、いつ彼が戻ろうと村の者たちは気にはしない。大歓迎である。ひと通りの挨拶が済んだところで、長老たちを交えた報告や情報交換が行われた。その後、もう少し詳しい話を——と、ハルバラドが思ったとき、視界から長の姿は消えていた。
「族長は?」
書庫に用がある——そう言い置いて出て行ったと長老に聞いたのだが、書庫に居たのはハルバラドの尋ね人ではなかった。
「さあ、見てないぜ。俺は半刻ばかり前から居るが、誰も来なかったぞ」
古書を繰っていた男が顔を上げた。その首もとには包帯が覗いている。半月程前、肩を斬られ、仲間に担がれて戻ってきた野伏だった。
今、村に残っている現役の野伏と言えば、ハルバラドのような留守居役以外は、彼のような傷病者になる。後は次の任務まで束の間、待機という名の休息を取っている者だが、それも近場の巡回に駆り出されるのが昨今の状況だった。
「また、長老たちに捕まってるんじゃないのか?」
「いや——」
ハルバラドは首を振った。
「書庫で調べたいことがある——そう言って逃げられたと長老たちは嘆いていた」
「そりゃ、態のいい言い逃れじゃないのか」
男が笑った。
「報告以外で、いつまでも年寄りに囲まれていたくないだろう。そうでなくても族長は、帰村の度、手を取らんばかりの勢いで年寄りに取り囲まれるんだ。いい加減厭になるだろう」
端で見ていると確かにそう思う。けれど、アラゴルンは外野が思うほど年寄りの相手を嫌ってはいない。
——そう嫌うものでもない。けっこう興味深い話が聞ける。
さすがに同じ話を幾度も繰り返されるのは閉口するらしいが……。
「どこか人目に付かない所でお休みなんじゃないのか。お戻りになったばかりだ。お疲れだろう」
男は幾分、真面目な表情で言った。
「それならいいが……」
アラゴルンに目立った外傷はなかったが、顔色が優れなかった。報告時の態度もいかにも疲労が蓄積しているようで、それが彼らしくなく気がかりだった。
「村はずれの遺跡は? 戻ったとき、あそこでときどき昼寝をなさっているだろう」
「そうだな。当たってみる」
ハルバラドは書庫を出た。昼寝——といっても太陽は西に傾いてきている。そろそろ戻ってもらったほうがいい。それでも、アラゴルンが休んでくれているならいいと、ハルバラドは遺跡への坂道を上った。
しかし、遺跡に長の姿はなかった。村に駆け戻り、彼に用意した家を見たが、やはりいなかった。集会所、食糧庫、門番の詰め所……、心当たりはすべて空振りに終わった。
——いったいどこへ行ったのか……。
夕映えに染まっていく空の下、アラゴルンの顔色の悪さを思い浮かべ、ハルバラドはため息を吐いた。
◆◇◆◇◆◇◆
明日旅立つ者と夕食を済ませ、ハルバラドは家に戻った。アラゴルンを見かけたら知らせてくれるよう幾人かに頼んであるが、どこからも報せはなかった。
——どこへ隠れたのやら……。
そして、何を思って隠れたのやら……、首を捻りながら居間へ入った。貰い物の酒をテーブルに置き、暖炉に火を入れ、振り返ったところで——、
ハルバラドは額を押さえた。
長椅子に客が居たのだ。丸くなってマントを被り、その隙間から緩やかにうねる黒髪を覗かせているのは……、
——族長……。
ハルバラドが捜しまわっていた人だった。人の気配に聡い彼が目を覚まさない。不審に思って覗き込んだ顔は眉根が寄せられ、汗ばんでいた。額に触れれば、思ったとおり熱い。ハルバラドは顔を顰めた。
具合が悪いのなら、なぜ、そう言わないのか……。一旦外に出て桶に水を汲み、布を浸した。絞った布でアラゴルンの顔の汗を拭う。
「……ん」
冷やりとした布の感触のせいか、アラゴルンが目を開けた。熱を帯びた青灰色の瞳がぼんやりとハルバラドを捉える。
「気分はいかがです? 寒気は?」
彼は二、三度目をしばたたかせ、おもむろに起き上がろうとした。
「あ、ちょっ……大丈夫ですか。横になっていたほうが……」
ハルバラドの制止も聞かず、アラゴルンは立ち上がろうとしたが、腰を浮かした途端、その身がぐらりと傾いた。
「危ないっ」
とっさに身を屈め、くずおれる身体を受け止める。こつんと肩に頭が乗った。
「すまな……」
耳許で小さな呟きがあった。その息も腕に抱えた身体も熱い。ハルバラドは舌打ちしたい気分を抑えながら言った。
「謝らなくてもいいですが、具合が悪いのなら素直にそうおっしゃってくださいよ」
寄りかかる身体を肩に担ぎ上げ、寝台へ運ぶ。
「あなたの代わりはいないんですから、倒れられるほうが困るんですよ。族長、おわかりですか」
熱を持つ身体を寝台へ下ろし、横たえながら問いかけたが、返事はなかった。それもそのはず、アラゴルンは既に意識を失っていた。
「まったく……」
ぐったりと横たわる長を眺め、ハルバラドは息を吐いた。子供でもあるまいし、発熱したときの処置ぐらいわかっているだろうに、なぜ、人目を避けて蹲っているのか。しかも、寝台ではなく長椅子なんかで……。
「……困った人だ」
ため息をこぼしながら、ハルバラドはアラゴルンのマントを外した。ブーツを脱がせ、剣帯とベルトも外す。手袋を外し、革のコートを脱がせて、ハルバラドは手を止めた。シャツが汗でしっとりと濡れていた。このまま寝かせては治るものも治らない。着替えが必要だ。
「ん……」
悪寒がするのだろう、アラゴルンが身震いするように身じろいだ。ハルバラドは一旦、彼を毛布で覆い、背後のクローゼットを開いた。着替えと予備の毛布を取り出すと、先程、水を汲んだ桶を居間へ取りにいった。
——薬は……。
目が覚めてからにしよう。おそらく夕食も取っていないだろう。下手に強い薬を服ませては、かえって弱った身体に負担をかける。熱は高いが、呼吸は穏やかだった。滋養のあるものを食べさせて、数日休ませれば快復するだろう。
——しばらく看病させていただくか。
その間はおとなしく、自分の言うことを聞いてもらおう。留守中とはいえ、家に転がり込んできたのだ。そんなつもりはなかったとは言わせない。滅多に他者の手を煩わせようとしない長の世話が焼けることに、ハルバラドの口許は綻んだ。
◆◇◆◇◆◇◆
喉の渇きを覚えて、アラゴルンは目を覚ました。周囲は明るく、窓から射し込む白い光が今は朝だと告げていた。見回した部屋には見覚えがあり、ハルバラドの家だと認識しながら、アラゴルンはのろのろと身を起こした。
——水……。
部屋の中に水差しはない。アラゴルンは水を汲みに行こうと寝台を下りた。途端に目眩に襲われ、足がふらついた。とっさに寝台に手を付く。なんだか異様に身体がだるい。支えの手をそろりと放しながら、自分がだぶついたシャツしか身に付けていないことに気づいた。
——あれ……?
軽く首を捻り、アラゴルンはようやく昨日のことを思い出した。けれど、やはり謎は残る。
——確か……自分が寝転がったのは、居間の長椅子だったはず……。
厭な悪寒がおさまらなくて、ちょっと休もうとここの長椅子を借りに来たのだ。自分の家——といっても、ほとんど留守にしているが、アラゴルンが滞在している間はよく人が訪ねてくる。けれど、副長の家を日中、訪ねる者がいないことは知っていた。
別段、ハルバラドが敬遠されているわけではない。昼間ならば、彼は集会所や資料の保管庫など、村の共用施設に詰めている。誰もがそちらを訪ねるというだけの話だ。
この村でアラゴルンの体調が悪いと知れると、ちょっとした騒ぎになり、その後、漏れなく説教がついてくる。心配してくれるのはありがたいのだが、臥せっている枕元で、次から次へと小言を聞かされるのはあまり楽しいものではない。
その点ここならば、少なくとも、暗くなるまでは誰にも見つからず静かに休める——と思ったのだが、既に朝である。そのうえ、寝転がったときと、場所も衣服も変わっている。
——しっかりバレているな。
アラゴルンは深々とため息を吐いた。窓から出て行きたい気分になったが、それをやってはここの家主が本当につむじを曲げてしまう。
——とにかく水を飲もう。
まだ頭が重いと自己診断しながら、ふらふらと数歩進んだところ、部屋の扉が開いた。と同時に、ふわりとうまそうな香りが漂った。顔を上げれば、盆を手にしたハルバラドが立っていた。
「——族長」
灰色の目が少々驚いたように見開かれたが、それは一瞬のことで——、
「そんな格好で何をやっているんですか」
咎める声が降ってきた。そんな格好でって……、
——着替えさせたのはお前じゃないのか?
わたしはちゃんと服を着てたんだ、と思ったが、それを口に出すと話がややこしくなることは間違いない。不本意に思いながら、アラゴルンは用件だけを言った。
「水を飲みにいこうとしたんだ。喉が渇いたから」
「今、差し上げますから。とにかく寝台に戻ってください」
追い立てられるように言われ、アラゴルンはおとなしく寝台に戻った。
「そんな格好でふらふら歩かないでください。また熱が上がります」
寝台脇の椅子に腰掛けた男は、金属製の杯に水を注ぎながら厳しい声で言った。
「それくらいおわかりでしょう」
眉尻を上げた顔で杯が差し出される。なんだか水が辛くなっていそうだ。
「そもそも、なぜ、具合が悪いことを黙っているんですか。長椅子で蹲っていて熱が引くわけないでしょう」
ごもっとも——と、アラゴルンは神妙な態度で水を飲んだ。ちょっと休むつもりだけだったとか、そんなに酷い熱だとは思わなかったとか……、思っても言ってはいけない。新たな説教が始まるだけだ。
——会う度に口喧しくなるな。
目を吊り上げながら、それでも自分の肩にガウンをかけてくれる男へちらりと目を遣って、アラゴルンは息をこぼした。それを聞かれたのか、すかさず低い声が降ってきた。
「反論がおありですか」
「いや……迷惑をかけた。すまない」
アラゴルンは頭を下げた。勝手に家に入り込んで昏倒した挙げ句、看病させてしまったのだ。説教はともかく、そのことまで余計な世話だと言う気はなかった。が、何が気に障ったのか、ハルバラドは渋い顔でため息を吐いた。
「迷惑だとは思っていませんがね……」
「しかし、寝台を占領してしまったわけだし……。お前、ちゃんと眠れたのか?」
今この家に寝室はひとつしかない。以前は、彼の両親が使っていた寝室があったが、二人が還らぬ人となって数年後、ハルバラドは書庫にしてしまった。その辺りの事情を気遣って訊いたのだが、返ってきたのは怒ったような声だった。
「そんなことは気になさらなくていいんです」
「いいんですって、そういうわけにも……」
いかないだろう——という続きは、再び眉を吊り上げた男の声に遮られた。
「とにかく——、今は族長、あなたのことです。わたしのことを心配なさるくらいなら、まずはご自分のお身体を気遣ってください。熱があるならそのことをおっしゃるべきです。長椅子でマントにくるまっていても治りません。見つけるのが遅かったらどうなっていたと——」
滔々と説教が続く。昔はこんなに饒舌じゃなかったんだが……と、ため息を吐きそうになり、アラゴルンは慌てて息を呑み込んだ。喉まで競り上がってきた「わかった。反省している。これからは充分に気をつける。だから黙ってくれ」という言葉も呑み込む。言ったところで「信用できません」と一蹴されるだけだ。体調管理に関してはとことん信用を失っているらしく、何を言っても無駄になってしまっている。
「聞いていますか。族長」
「……聞いてる」
頭には入っていないが——と胸の内で呟きながら、アラゴルンは出来るだけやわらかい表情を心がけて、顰め面の男に向き直った。
「ハルバラド」
「なんです?」
「それ……」
険しい表情を崩さない男の傍らを指す。脇のテーブルに良い匂いを漂わせている器があった。蓋で見えないが、おそらくスープだろう。
「食べてもいいか?」
首を傾げて尋ねると、ハルバラドの片頬がひくついた。訊いた間が悪かったかと焦ったが、非難の言葉はなく、彼は盆ごとアラゴルンに渡してくれた。
「ありがとう」
蓋を開けると、温かな湯気と食欲を刺激する香りが立ちのぼった。煮込まれた根菜の間に肉が見え隠れしている。アラゴルンは匙を握り、スープをすくった。旨みの溶けたまろやかな味が口の中に広がる。
「うまいな」
正直な感想を口にしたのだが、スープをつくったであろう男は唇の端をゆがめ、なんとも形容のし難い顔になった。
——やっぱり……。
自分は起きてから今までの短い間に、ハルバラドの気に障ることを仕出かしたのだ。でなければ、こんな妙な表情をされるわけがない。スープを口に運びながら、アラゴルンは己の言動を振り返った。が——、
何がまずかったのかさっぱりわからない。シャツ一枚でのこのこ歩こうとしたのはまずかったが、叱られたのだから解決済みと考えていいだろう。となると、他の点なのだろうが、そこがわからなかった。まあ、熱を出して転がっていた時点で、この心配性の男の機嫌を損ねたのは間違いないだろうが……。
「——ハルバラド」
考えていても解決はしない。何が気に障ったのか率直に訊いてみようとしたが、睨むように凝視している眼差しにぶつかり、アラゴルンは二の句が継げなくなった。
「なんです?」
「えーと、その……」
なんでもない——とも言えず、アラゴルンはほとんど空になった器を差し出した。
「……もう一杯もらえるか」
場を取り繕う手段でしかなかったのだが、意外にもハルバラドの表情がやわらいだ。
「そんなにお気に召しましたか」
アラゴルンが頷くと彼の口許が綻んだ。ようやく笑ったとほっとしたところ、灰色の瞳が間近に迫ってきた。
「お気に召したなら、毎日つくりましょうか」
「いや……そこまでは……。だいたい、お前、そんなに暇じゃないだろう」
ハルバラドは長旅に出ることは少ないが、集った情報を基に野伏たちへ指示を出したり、連絡の調整をしたりといった一族の活動の要を担っている。他にも若手の訓練や村の警備など、留守居役として諸事全般の取りまとめをしている。決して暇ではない。
けれど、ハルバラドはなんだという顔であっさり言った。
「構いませんよ。雑用なら他の者にまわしますから」
「おい……」
唖然とすると、追い打ちをかけるように灰色の目をきらめかせ、にやりと笑ってくれた。
「長の面倒を見る以上に重要な役目はありませんからね」
「面倒って……」
ひょっとして、自分は一人で飯も食えないと思われているのだろうか。過去のあれやこれやを考えると、心配されるのもわからないではないが、それにしても……。
「族長。スープの件はともかく、治るまではわたしの言うことに従ってもらいますよ。いいですね」
考え込んでいると、有無を言わさぬ声が投げかけられた。
「あ、ああ、わかった」
ここで「断る」と言ったら、当て身で眠らされそうである。素直に頷くと灰色の目が細められ、その手がすっとこちらへ伸ばされた。そして——、
くしゃり
アラゴルンの頭を撫でるように触った。
「なんだ?」
ごみでも付いていたのだろうか。首を傾げて問いかけたが、ハルバラドは「なんでもありません」と苦笑して立ち上がった。
「スープと、食欲があるようですから、パンも持ってきます。それと薬も——」
そう言って、背の高い男は盆を取り上げ踵を返した。その背中が妙に大きく見えた。そのせいなのか——、
「ハルバラド」
気づけば、なぜか呼び止めていた。だが、振り返った相手に言う用件などない。
「スープの件——」
さっきと同じ、場を繕う言葉が口を付いて出る。
「その……毎日はいいが、帰ってきたとき、よかったら食べさせてくれ」
何を言っているんだと我ながら呆れたが、灰色の目の男はうれしそうに笑って頷き、扉の向こうに姿を消した。
「……わからん奴だな」
——飯を食わせろというのがそんなにうれしいのか?
アラゴルンにしてみれば首を捻る反応だが、それでもああやって笑ってくれるのなら、スープだろうとパンだろうと食べておこうと思う。頼りない長が単独行を繰り返す度、彼が気を揉んでいるのは薄々知っている。せめて帰ってきたときぐらい、安心させてやりたい。せいぜいその程度のことしか、自分には出来ないのだから。
——それに、うまかったし……。
次に帰ってくるときは茸でも採ってこようか。のんきなことを考えながら、アラゴルンはガウンの襟元を合わせた。
END