Spice
夕刻、国王の執務室を訪ねたファラミアは、立哨の近衛兵から主が留守をしている旨を伝えられた。珍しく——などと言っていてはいけないが、王はきちんと扉から出て行ったらしい。随伴の者も連れていったという。
——少しはおわかりになられたか。
現王エレスサールは、単独行の多い野伏として長く過ごした。そのためか、所用に人を使わず、自分で済ませる習慣がついてしまっている。資料を探しに書庫へ出向いては司書を慌てさせ、訊きたいことがあるからと気軽に訪ねては官吏を仰天させている。食事も忘れて机に向かう集中力もあるのだが、割合としては執務室を留守にするほうが多かった。
気ままに城のあちらこちらを歩き回り、ときには街にまで足を伸ばす始末。そのほとんどは野伏の経験を生かした露台や窓からの出入りで、側仕えを置いていない現状、気づく者はいない。何も知らず立哨している近衛兵はいい面の皮である。
側仕えを置いて脱走の阻止を試みたこともあった。しかし、わずかな隙に姿をくらまされることしばしば、籠絡されて見逃す者も後を絶たず(王の言葉を借りれば「見逃してくれと頼んだだけ」になるらしい)、効果はさっぱりだった。結局、人手が足りない今、側仕えを置くのは取り止めた。
以来、脱走が発覚する都度、ファラミアが懇切丁寧に叱責するようになった。側仕えも置かず、随伴者も連れず、勝手に行方をくらますでは仕えているほうの身が持たない。執務に多大な影響が出ていないからと、甘い顔はしていられない。その効果がようやく出てきたのだろうか。
「それで、陛下はどちらへ?」
「息抜きに少し歩いてくるとだけ……。すぐお戻りになると仰せでした」
行き先を確認できていないのは片手落ちだが、すぐ戻ると告げたなら、言葉どおり戻ってくるだろう。何より、伴を連れていったのだから城を出ることはあるまい。もっとも、いざとなったら、伴を撒くぐらい簡単にやってのける人だから油断はならないが。
「なら、控えの間で待たせてもらおう」
そう話しているうちに、廊下を歩いてくる人影が目に留まった。黒い髪を揺らし、すらりとした痩身が近づいてくる。見間違えることのない主君の姿だ。
「お戻りになりました」
近衛兵の言葉にファラミアは頷く。黒髪の貴人は軽く片手を挙げると、足早に駆け寄ってきた。
「ファラミア。ちょうどよかった。呼びに行こうと思ってたんだ」
「何かご用でしたか」
「ああ、サムがシチューのレシピを送ってきたんだ。それで——」
エレスサールは後ろを振り返った。武官が一人、ワゴンを押してやってくる。彼が付いていった伴なのかもしれない。
「ありがとう」
エレスサールは武官に礼を言って、ワゴンを執務室に運び入れた。
「陛下。サムワイズ殿のレシピがどうしたんです?」
「この前、メリーとピピンが来たとき、ハラド渡りの香辛料を持たせただろう?」
話しながらエレスサールはワゴンから布を取り上げ、いそいそとテーブルに広げている。
「ええ……」
テーブルクロスを敷くのを手伝いながら、ファラミアは僅かに眉を顰めた。こういうことは侍従なり給仕の者なりを呼べばいいとか、執務室で食事をするのは感心しないとか、言うべきことはあるのだが、なにより話の展開が見えないのが不安だった。
「サムが喜んで、いろいろ料理に使ってくれたらしい。で、お勧めだというレシピを送ってくれたんだ。これがそのひとつ」
エレスサールはワゴンの上にある銀食器の蓋を取った。刺激的な匂いが立ち昇る。器には黄金色のシチューが入っていた。香辛料の色で染まっているのだろう。
「なかなかうまく出来たと思うんだ。食べてみてくれ」
テーブルに食器を移しながら、うれしそうに笑う。
「まさかと思いますが……」
ファラミアは眉を顰めた。
「陛下がおつくりになったのですか?」
「ああ。昨夜、厨房を拝借した。一晩寝かせたほうがいいらしいから、さっき仕上げに火を入れてきた」
エレスサールは頷きながら手を休めず、テーブルに燭台を置いた。
「陛下。サムワイズ殿がレシピを送ってくださったのはわかりました。が——」
ファラミアは咳払いをした。
「陛下がご自身でおつくりになる必要がどこにあるんです」
ここは厳しい態度で接しなければならない。しかし、眉を吊り上げて迫った臣下に、王はきょとんとした顔を上げた。
「どこにって……。料理の名人が惜しげもなくレシピを伝授してくれたんだ。試してみたくなるじゃないか」
試したいなら、厨房の者に任せればいいだろう。
「どうだ。おいしそうだろ」
エレスサールはにっこり笑って銀食器を持ち上げた。
——確かにおいしそうではある、が……
ファラミアはため息を吐いた。
「どうした。ファラミア」
エレスサールは軽く首を傾げたが、すぐに納得したように笑った。
「そうか、わたしがつくったものは不安か」
「そういうことでは……」
妻の手料理以上に不安を覚える対象ではない。イシリアン公妃が厨房の仕事をすることは稀なため実害は少ないが、初めてお目にかかったときはどう処理しようか悩んだものだ。本人が努力家ゆえ、改善傾向にある点が救いである。メリーとピピンがエミン・アルネンを訪ねる度、率直なアドバイスをしてくれるおかげだ——なんてことはこの際どうでもいい。今、問題なのはそんなことではない。
玉座に在る者が厨房で調理に励むという奇天烈さを、この王にどうやって理解させるか、ということである。言えば「わかっている」と答えるだろうが、その実、まったくわかっていないに違いない。わかっていたらこんなことをするはずがないのだ。
「安心しろ。ちゃんと料理長に味見してもらったから大丈夫だ。ほら——」
黙り込んだ臣下の胸中をどう解釈したのか、主君はシチューをひとすくいし、その匙をファラミアの口許に突き出した。食欲をそそる匂いが鼻先をかすめる。
「陛下。そういう……うぐっ……」
叱責の言葉は途中で止まった。止めざる得なかった。匙を口に突っ込まれたのだ。香辛料の風味が口の中に広がる。
「どうだ。うまいだろ?」
仕方なくシチューを飲み込んでいる臣下の姿を、目の前の主君は楽しそうに笑って見ている。王というより、いたずら小僧だ。
——まったく……。
「ほら、腰を下ろして食べてくれ」
食べさせてしまえばこっちのものという感じで、エレスサールはファラミアの手に匙を握らせた。味は悪くない……いや、美味だと言っていい。しかし、このまま流されてはいけない。
「陛下。わたしは食べるとは……」
「なんだ。口に合わなかったか?」
「いいえ。そんなことは……」
味は申し分ないのだから、タチが悪い。
「じゃあ、いいだろう。せっかくつくったのに、食べてくれる人がいないのでは寂しい。わがままなのはわかっている。変わり者の主に仕えたのが身の不運、そう思って諦めてくれ」
エレスサールは申し訳なさそうな笑みを浮かべ、首を傾げた。
「ファラミア。頼む」
上目遣いにこちらを窺う青灰色の潤んだ瞳——何人もの人間を譲歩させてきた眼差しだ。
「……わかりました」
ファラミアが腰かけると、エレスサールは葡萄酒をグラスに注いだ。主君の手料理を口にする執政は、ゴンドール史上初めてだろう。ファラミアは匙を取った。舌先にピリッとした辛みを感じる。だが、厭な辛さではない。
日常の中、こうして一風変わった時を過ごすのも、また良しか……。穏やかに細められた青灰色の目を見ながら、ファラミアはシチューを口に運んだ。
END