Start in life
ノックの音とともに入ってきたのは、昨年、白の塔の大将になったエルボロンだった。
「失礼します。陛下。エルダリオン様はおいでではありませんか」
「エルダリオン? いや、見ていないが」
「さようですか」
エルボロンは頷いたが、その目はしっかり室内を観察している。事が脱走となると、誰よりも信頼のないアラゴルンだった。
「抜け出したのか? 控えるように言っておいたんだが……」
「近衛兵が中庭を横切る殿下を見ております。陛下もお見かけしましたら、すぐお報せを」
「わかった。——ところで、エルボロン」
話しながら、アラゴルンは手許の紙にペンを走らせた。
「エオウィンの具合はどうだ?」
風邪をこじらせて長く寝ついているという話だった。先日、見舞いに行ったアルウェンと娘たちからは、容態は落ち着いてきていると聞いたが。
「おかげさまで、よくなりました。今朝届いた報せでは、いつまでも寝ていたくないと、周囲の者を困らせているとか」
エルボロンは嬉しそうに笑った。
「それはよかった。見舞いに行ってもいいかな」
「恐れ入ります。母も喜ぶでしょう。父と相談の上、手配させていただきます」
「ありがとう。けど、あまり仰々しいことはしないでくれ」
アラゴルンは苦笑しながら、ペンを走らせた紙を差し出した。エルボロンが怪訝そうに紙片を受け取る。
「かしこまりました。陛下も、お一人でお出かけになりませんよう」
走り書きに目を通して、にこりと笑った。こういうところはファラミアそっくりだ。
「わかってる」
「では。失礼します」
扉が閉じられ、元から静かだった足音が気配とともに消えた。アラゴルンは立ち上がると、露台へ顔を出した。
「行ったぞ」
「気づいてたんだ」
露台に置かれた植物の鉢の陰から、エルダリオンが顔を覗かせた。大国の王子とは思えない情けない姿である。
——まったく、誰に似たのやら……。
と、思っても口にしてはいけない。先日、ファラミアとエルボロンの前で、うっかり漏らして災難に遭ったばかりだ。
——陛下でございましょう。
二人は呼吸ぴったりの見事な和音を奏でてくれた。さすが親子である。その後、嫌みと皮肉が降り注いだのが癪にさわって、つい余計なことまで言ってしまった。
——わたしに似たのなら、見つからずに抜け出せるはずだろう。
結果、凍気を纏って笑みを浮かべた執政と、怒気を孕み額に血管を浮かせた大将に、容赦のない説教を食らった。
その上、「殿下の模範となるように」と微行はもちろん、城内を勝手に歩くことも禁止されてしまった。伴をつけることだけは勘弁してもらったので、侍従か近衛に断りを入れれば、後の行動までは制約されずに済んでいる。それだけが唯一の救いだ。
「少し控えろと言ったはずだぞ。外に出たいなら、伴を連れていけ。それなら周囲も咎めないだろう」
長年、野をさすらった自分は、何かあっても大抵のことには対処できるが、エルダリオンは違う。王都とはいえ、独り歩きをさせる気はアラゴルンにもなかった。
「そうでもないよ。第六環状区に下りるのだって、理由をつけて止められるんだ」
だから最初から独りなんだと、好奇心旺盛な王子は不満そうに言った。
第六環状区は療病院や馬屋、高官の公邸などが多く、半ば城内同然の場所だ。外出には武官の護衛を義務づけているが、第六環状区までなら伴も文官でいいと許可している。とはいえ、周囲の者はアラゴルンほど気楽な考えにはなれないらしい。実のところ、第七環状区内なら独り歩きさせてもいいと思っているが、そうはいかないのが自分たちの立場だ。
「それなら、せめて見つからないようにしろ。こう度重なっては追いかける近衛兵が気の毒だ」
「そうしたいけど、絶対見つかる。さすが、白の都の衛兵は優秀だ」
投げやりに言う。近衛兵の追跡能力を高めてしまったのは、元を辿ればアラゴルンの脱走癖だ。今まで、それでエルダリオンに文句は言われたことはなかったが、ちらりとこちらを見た目には皮肉げな光があった。独り歩きもままならない現状には苛立ちを感じるのだろう。
「エルダリオン。窮屈か?」
「そういうわけじゃ……」
ずばりと訊くと、俯いて言い淀んだ。たとえ本心から窮屈だと感じていても、衣食住に不自由することなく暮らせる立場で不満を口にするのはわがままだ——と、それくらいの分別は持ち合わせているようだ。
数年前までは、高官や教師連中が口を揃えて「真面目で素直」と誉める“聞き分けの良い子”だった。それが、一昨年あたりから脱走未遂が頻発するようになり、「さすがは陛下のお子でいらっしゃる」という、誉めているのか貶しているのかわからない評価に変わった。
この二、三年でずいぶん背が伸びた。剣の腕も上がっている。エネルギーを持て余しているのだろう。本格的に政務を手伝わせるのはもう少し先と思っていたが、子供の成長は親の思惑より早いのかもしれない。
「外に出てみるか」
「え?」
ぱっと顔が上がった。
「今度、フォルノストに人を遣る。お前も行ってくるといい」
「父上……」
絶句した表情は驚いてはいるものの、期待に満ちた喜びがあった。
「あちらは、ここ十数年で急に人口が増えた。おかげで治めるほうの手が足りない。お前は経験がないから、文官でも武官でも、まずは見習いからだが、ここで近衛兵に追いかけられているよりいいだろう。いわば、お前の初仕事だ。というわけで——」
アラゴルンは扉に向かって呼びかけた。
「エルボロン」
名前を聞いてエルダリオンがぎょっとなった。逃げるように露台へ後退る。その襟首をつかんだところへ、白の大将が姿を現した。エルダリオンが露台に潜んでいるのを悟って、「控えの間に待機していてくれ」と紙に書いた。察しのいい彼はにこりと笑って請け負ってくれたのだ。
「あとは、アルノールの連絡役と相談して決めてくれ」
「かしこまりました」
二人が立ち去ると、アラゴルンは露台に出てパイプを取り出した。手すりにもたれ、ひと口吸って息を吐き出す。午後の光に包まれた白い街は眩しいほどで、アラゴルンはわずかに目を細めた。
◆◇◆◇◆◇◆
一日の執務を終え、太陽の光があらゆるものを朱に染める時刻、ファラミアは国王の執務室を訪ねた。エレスサールは露台の手すりに腰を下ろし、背を柱に預けてぼんやりと外を眺めていた。ファラミアが近づくと、彼は軽く手を挙げた。
「陛下。執務も済んだことですし、襟元を緩めるくらいは構いませんが、裸足というのはいただけませんね」
「固いことを言わないでくれ」
エレスサールは振り向きもせずに言った。ファラミアも指摘はしたが、靴を履かせることはせず、ただ笑った。彼に仕えるようになってから、似たようなやり取りを何十回、何百回と繰り返してきた。今では挨拶代わりだ。
「エオウィンを見舞ってくださる件ですが、三日後、わたしが帰館する際、ご一緒にということでよろしいでしょうか」
「ああ、構わないよ」
返事はあったが、相変わらず青灰色の瞳は外を向いている。
「聞きましたよ。エルダリオン様のこと」
ファラミアも手すりに近寄り、城壁の外に目を遣った。
「あちらの野伏の見習いを希望してらっしゃるようで」
「らしいな」
「よろしかったのですか?」
横顔に問いかけると、主君はため息を落とした。
「やはり、まずかったかな」
顎に手を添え、困ったような低い声で唸る。
「野伏の知識なんぞ学んだら、更に近衛兵を煩わせそうだからな……」
その様子にファラミアは小さく笑った。
「陛下に比べればマシだと思いますが——」
近衛兵の誰もが嘆いている。
——エルダリオン様の脱走は阻止できますが、陛下のほうは阻止どころか、お戻りすらわからぬことがございます。
彼らが本当に困っている相手は、抜け出したことすら悟らせない(執務室を訪ねた者が初めて不在に気づく)国王である。ただし、今、ファラミアが尋ねたのはそういう意味ではない。
「……そういうことではなくてですね。務めに就けば、殿下は一年はお戻りになりませんでしょう」
「そうだな」
「さみしそうなお顔をなさってますよ」
エレスサールがようやく振り向いた。
「あなたはどうだった? エルボロンのとき」
「そうですね……」
ファラミアは数十年前の記憶を辿る。緊張と喜びと不安と——さまざまな感情が入り交じった息子の顔が思い出される。そして、その姿を見つめていた自分もまた……
「誇らしくもあり、寂しくもあり、うれしくもあり……、いろいろでしたね。最近でも、まだまだ青いと思うこともありますし」
「それは手厳しい」
エレスサールは、ファラミアが付け足した一言に喉の奥で笑ってから、やわらかな表情で目を伏せた。
「わたしも、思うことはいろいろだ。しかし……、こちらが思うより早く成長するものだな。最近は娘たちも大人びてきたし……」
声に一抹のさみしさが滲む。
「やはり、おさみしいのでしょう」
「少し、ね」
エレスサールは肩を竦め、片目を瞑った。
「慰めて差し上げましょうか」
にこりと笑って言えば、彼は小さく吹き出した。
「そういう台詞は久しぶりだな。——じゃあ、酒の相手を頼もうか」
言うが早いか、主は身軽に手すりから降り、グラスの収められている棚の扉を開けた。ファラミアは、部屋の一隅につくられた室(むろ)から葡萄酒の瓶を引き出す。露台のテーブルの上で栓を抜いた。
「殿下の門出を祝して」
「乾杯」
合わさったグラスが冴えた音を立てる。夕陽を映した紅い酒が宝玉のように煌めいた。
END