散歩
午前の講義と稽古が終わったとき、昼食までに時間の余裕があった。エルダリオンはこれ幸いと地味なマントを抱え、短剣を携えて門へ向かった。かねてより思い描いていた、街への冒険に出るために。しかし——

「エルダリオン様!」
テルコンタール王朝の近衛兵は目敏い。
「お戻りください! ——お前たちは門を固めろ!」
機動力も抜群で素早い。殊に、最上層に人を閉じ込める警備にかけては中つ国一だと思う。それもこれも、即位からどれだけ時が過ぎようと脱走癖がおさまらない、風変わりな国王を戴いた結果らしい。その変わり者が自分の父親、ゴンドールとアルノールの王、エレスサールだ。
父のことは尊敬している。息子の目から見ても、魅力溢れる人物で素晴らしいと思う。が——
「エルダリオン様!」
近衛兵の執念を思わせる追跡ぶりが、父王の所行の結果だとなると、恨み言のひとつも言いたくなる。
「殿下! 逃げ場はありませんぞ!」
なんだって、自分たちを守るはずの近衛兵に、脅しの言葉を投げつけられねばならないのか。理不尽に思いながら、エルダリオンは窓から塔の中に入った。
階段を上がって、隠れられそうな部屋はないか、左右を見ながら通路を走る。下から聞こえてきた近衛兵の声と足音に、ハッと立ち止まったとき、背後から音もなく伸びてきた腕に口を塞がれた。そのまま身体が抱え上げられ、抵抗する間もなく近くの部屋に連れ込まれる。
城内に王家の者を害そうとする人間はいない——はずである。しかし、絶対ではない。幸い、足は固定されていない。エルダリオンは相手の身体を容赦なく蹴った。
「……ッ!」
微かな呻きとともに、身体の拘束が緩む、と同時に腕の中から飛び出した。転ばないよう身を屈めて床に下り、短剣を引き抜いて立ち上がった途端——
「待て、エルダリオン。わたしだ」
呼びかけられた声にエルダリオンはあんぐりと口を開けた。剣を構えた先に立っていたのは、国王である父だった。
◆◇◆◇◆◇◆
父がいたのは書庫のひとつだった。
「父上はここで何を?」
「書庫の整理だ」
それは国王の仕事ではないと思うのだが……。エルダリオンが呆れた顔をすると、父は「お前、わたしがさぼっていると思っているだろう」と笑った。
「ここの書類は大半が百年以上経っている。下の倉庫に移すことになったんだが、最近、司書が代替わりしてな、新人では分類がわからないんだそうだ。わたしはよく出入りしていたから、彼らより詳しい。ま、息抜き代わりの手伝いだ。——で、エルダリオン。お前は何をしていた。近衛兵と追いかけっことは穏やかじゃないな」
青灰色の瞳に覗き込まれ、エルダリオンはおずおずと答えた。
「街へ下りようと思って……」
父がくすりと笑って後ろを振り返った。
「——だそうだ。ファラミア」
聞こえた名前にギョッとした。父の背後に目を遣ると、書架の陰からやわらかな金の髪の執政が現れた。父はともかく、ファラミアに見つかってはおしまいだ。
「困った方々ですね」
ファラミアは言葉とは裏腹の穏やかな笑みを浮かべたが、その笑顔が怖いのだとエルダリオンは思う。父は長年の付き合いの賜物か気にした様子もなく、肩を竦めただけでエルダリオンに向き直った。頭のてっぺんから足下まで、エルダリオンをしげしげと眺めて首を傾げる。
「エルダリオン。街へ下りようというのに、その格好は目立つぞ」
少し屈んで、エルダリオンに視線を合わせる。
「王家の子息だとは思われまいが、どこから見ても良家の子女だ。ミナス・ティリスは王都だから治安は良いほうだが、犯罪がないわけじゃない。いかにも良家の坊ちゃんなお前がふらふら歩いていたら、『金を出せ』と因縁をつけられるのがオチだ。けど、お前、金を持ってないだろう」
どうなると思う? と青灰色の瞳が脅すように迫ってきた。
「良家の子女をさらって、親から金をせしめる事件も起きている。万にひとつ、お前がかどわかされでもしたら、アルウェンにはもちろん、わたしは国民にも顔向けできない」
正論である。エルダリオンは何も言えず俯いた。自分は連れ戻されるのだ。そう思うと落胆は大きい。そこへ、さらに跪くように屈んだ父が真面目くさった口調で言った。
「というわけで、護衛をお連れになりませんか。殿下」
青灰色の瞳には楽しげな光が浮かんでいるが、エルダリオンは意図を読めない。どういうことか訊こうとしたとき、執政の厳しい声がかかった。
「なりませんよ。陛下」
瞬間、父は振り向きざま素早く立ち上がり、傍らの椅子にかかっていたローブを投げた。ローブは広がって執政の頭をすっぽり覆う。
「陛下!」
執政のくぐもった怒りの声に構わず、父はエルダリオンの腕をつかんで部屋を飛び出した。ご丁寧に扉の錠を下ろす。
「そんなことして大丈夫?」
「怪我はさせてない。呼べば助けも来る」
そういうことではなく執政の報復を心配したのだが、脱走の名人はエルダリオンの腕を引っ張り、躊躇うことなく走り出した。塔から出ると一直線に門へ向かう。
「兵が固めてる」
目前に迫った門には、鎧姿の兵士が数人、道を塞いで立っていた。
「強硬突破だ」
「無理だよ」
「扉は閉まっていないから大丈夫だ。エルダリオン」
「なに?」
「投げるから、自力で着地しろ」
——え?
問い返す間もなく、エルダリオンは空中に放り出された。門を固める兵士の頭上を飛び越えたところで、半ば転がりながら着地する。
「殿下ァ!」
兵士の口から悲鳴にも似た叫び声が上がっている。当たり前だ。まさか、王が子息を放り投げるとは思うまい。
「ご無事ですか!」
心配してくれるのはありがたいが、捕まっては放り投げられた意味がない。エルダリオンはそそくさと駆け出した。
「陛下ァ!」
後ろで新たな叫び声が上がった。振り返ると、なぎ倒された兵士の間から、父が駆け出してきた。
「父上……あれ、怪我してるよ」
「あれくらいなら訓練の範疇だ」
近衛兵が気の毒になった。
「心配するな。体当たりと足払いだ。鎧を着けてないわたしのほうが痛いくらいだぞ。ほら、のんびりしていると捕まる。始めたことはやり通すものだ。行くぞ」
父は足を速めた。第六環状区へ出るトンネルを抜ける。そのまま第五環状区へ抜ける門に向かった。
「父上、どこへ?」
「第五環状区、北のドゥネダインの館」
◆◇◆◇◆◇◆
北のドゥネダインの館は、当初、北方の野伏たちとの連絡所として設置された。時代が下り、アルノールの高官が使用する館は別に用意されたが、今でも北方の騎士の宿泊所として使われている。
その多くは野伏の血筋であり、館を管理しているのも野伏の血を引く者だ。エレスサールは彼らの族長だった。そのため、彼らの国王への忠誠心は殊の外厚い。その心は国ではなく国王個人に捧げられているようなところがある。近衛兵の追跡を逃れるには良い避難場所だった。
「衛兵たちが騒がしくなったと思ったら、あなたでしたか」
館を預かっている壮年の男は、窓から入り込んだ国王と王子を前にしても慌てることなく、微笑んで二人を迎え入れてくれた。
「それで、何をなさって逃げてらっしゃったんです? 誤魔化さずにお答えください。事と次第によっては衛兵に引き渡しますので、そのおつもりで」
「厳しいな」
「北と南で争いは起こしたくありませんから。あなたはこんな騒ぎを起こさずとも抜け出せるはずだ。どんな理由かはお訊きせねば」
「理由は“これ”だ」
父がエルダリオンの頭に手を乗せた。
「殿下?」
「既にこいつが見つかってたからな。警戒が厳しくて。ぼやぼやしてたらどこからも出られなくなりそうだった」
「それで正面を強行突破ですか。人騒がせなお方だ」
男が苦笑した。
「面倒をかけてすまない」
「まあ、良しとしましょう。それでご用件は?」
「着替えと剣を貸してくれ。あと金も頼む」
「おでかけで?」
「こちらの殿下は街の散策をご所望でな。わたしはその護衛役だ」
◆◇◆◇◆◇◆
街を初めて自分の足で歩いた。たまに、国王の公務に付いて城の外に出ることはあるが、それとて馬の背に揺られて通過するだけ。白の都は、エルダリオンにとって身近にありながら、いつも眺めるだけのものだった。
「まずは腹ごしらえだな」
父は慣れた足取りで下層まで歩き、細い路地にある小さな宿屋へ入った。一階はカウンターと幾つかのテーブルがあり、食事が出来るようになっている。数人の客がエールを飲み、肉にかぶりついていた。
「親父。エールを頼む。それと、林檎の搾ったのはあるか」
父はカウンターに歩み寄り、フードを取って声をかけた。さすがというか、ずいぶんと慣れている。カウンターの中で小太りの男が振り返った。
「へいっ……と、ああ、旦那。久しぶりですね」
「ああ、元気そうだな。エールと果汁、あと適当に食べる物を見繕ってくれ」
「はい。承知。——と、珍しい。今日はお一人じゃないんで」
「ああ。連れだ」
「こちらさんは……」
男はカウンター越しに、フードを被ったままのエルダリオンを覗き込んだ。しげしげと眺められ、居たたまれない気分になる。相手も複雑な表情になった。
やはり、自分はこういう場所では浮いてしまうのだろう。身元がばれなければいいが、と不安に思っていると、男はカウンターに身を乗り出し、声をひそめて父に訊いた。
「旦那。かどわかしでもしてきなすったんで? やっかいごとはごめんですよ」
今度は父が複雑な表情になった。無理もない。実の息子を連れていて人さらいに間違われては、父親としての立場がない。だが、それは父がこの場に馴染んでいるという証でもある。街に出てからの父は、城に居るときと雰囲気も違う。誰も国王だとは思うまい。
「莫迦を言うな。息子だ」
父は苦笑を漏らし、フードの上からエルダリオンの頭を撫でた。
「旦那の?」
「そうだ。似てないか?」
宿の主人は再びしげしげとエルダリオンを眺めた。
「そう言われれば……。けど、旦那。確か、独り身だと言ってなすったんじゃ……」
「そうだったな」
父は思い出したように呟き、決まりの悪い笑みを浮かべた。
「そんな大きなお子さんがいて独り身だと吹聴なさるのは、ちょっとどうかと思いますぜ」
「同感だが、わたしも知らなかったからな」
「へ?」
宿の主人と大差のない声が、エルダリオンの心でも上がった。
「先日、初めて知った」
あっさりと言われて、エルダリオンはギョッなった。
——生まれたときから知ってるだろう!
だが、宿の主人に自分の心の声が聞こえるわけもない。彼はまじまじと二人を見比べて呟いた。
「……て、ことは隠し子ですかい」
隠し子呼ばわりする彼を責められない。父の言葉を信じれば、行き着く結論はそうなる。が、悪ノリする父親はそこで収まらなかった。
「隠し子というのは、子がいることを隠しているのを言うんだろう。わたしは知らなかったんだ。子のほうが隠れていたわけだから……この場合は隠れ子とでも言うのかな」
うんうんと、したり顔で頷いている。ファラミアをはじめとする城の人間が、「陛下は何事においても型破り」と評する理由が改めてわかった気がした。ここまでくると呆れてしまう。
「どっちにしたって、どうかと思う話ですぜ。旦那」
「違いない」
父は鷹揚に笑い、エールのジョッキと果汁のグラスを受け取ると、エルダリオンに片眼を瞑ってみせた。
◆◇◆◇◆◇◆
二人は店の奥にあるテーブルに座った。店の一番人気だという鳩のローストは、城で食べるのとはひと味違い新鮮だった。主人の自慢だという鹿肉と野菜のシチューもおいしい。エルダリオンはシチューを口に運びながら、父と店の主人とのやり取りで、少々気になったことを訊くことにした。
「父上」
「なんだ」
「その……実は僕の知らない兄姉がいるってこと、あるわけ?」
「ぅぐっ……」
ジョッキに口をつけていた父の喉で異音がした。
「ぐぇほっ……ごほっごほ……」
手で口を押さえ、激しく噎せ返っている。吹き出されたら自分に飛沫がかかっただろうから、おさえてくれた父に感謝しよう。
「……お前、親を疑うのか」
ようやく咳がおさまった父の、青灰色の瞳がじろりとエルダリオンを見た。国の頂点に立つ者だけあって、こういうときの一瞥は凄みがある。エルダリオンは俯いた。
「そういうわけじゃ……ただ、父上は放浪生活が長かったと聞いたから。それにさっきのやり取りが……」
「ああ、気に障ったか。悪気はなかったが……、すまない」
「それは気にしてないけど……」
事の成り行きで隠し子だか隠れ子だかにされても、父親の愛情を疑うほど莫迦ではない。ただ、先程のやり取りがあまりにも堂に入っていたので気になったのだ。
「心配するな。お前の知らない兄も姉もいない。そんなものがいたら、わたしはエルロンド卿に勘当されて、アルウェンとの結婚もできなかったよ」
父は屈託なく笑った。
「エルロンドって、エルフの祖父さま?」
「ああ、そうだ。わたしを育ててくれた智恵者でもある」
「厳しかった?」
裂け谷の領主であったエルロンド卿は、父が王となってしばらく後、海を渡っていったと聞いている。今も中つ国に留まっている卿の双子の子息——エルダリオンの伯父にあたる——エルロヒアとエルラダンからも話を聞いたことがあるが、厳めしいというイメージが強かった。
「厳しくもあったが、やさしい方だったよ」
父は懐かしそうに微笑んだ。
「そう」
「わたしだけでなく、北のドゥネダインは、卿の存在なくては生き残ってこられなかっただろう。王笏や折れた剣の預かり手となり、代々の長の養育も担ってくれたのだから」
そう言って静かに目を伏せた父の顔には、単に昔を懐かしむだけではない笑みが浮かんでいた。見たことがないくらいやさしい表情。父にこんな顔をさせるなんて、なんというか……
——羨ましい。
俄然、興味が湧いた。知恵者と呼ばれたエルフに。
「会ってみたかったな」
「そうか」
「ドゥナダンのアラソルンにも」
ドゥナダンの祖父は戦いの最中、目を射抜かれ、ヌメノールの血を引く者としては早くに亡くなったと聞いている。そのため、今では知っている人が少ない。母はエルフだが、当時は裂け谷にいなかったとかで、会ったことがないと言っていた。伯父たちの言葉では「やっぱり、エステルはよく似ているよ」ということらしい。とすると、祖父もこんな常識外れの人物だったのだろうか。
「そうだな。そっちはわたしも会いたいな」
祖父が亡くなったのは、父が二歳のときで顔も憶えていないと聞いた。会えるものなら会いたいだろう、と思ったが——
「会って文句を言ってやる」
ジョッキを握りしめた父の言葉に、エルダリオンは仰け反った。
「ち、父上?」
「早死にするものだから、わたしはやることが山積みだったんだ。生きていれば玉座も押しつけてやれた」
青灰色の瞳にぎらりと物騒な光がよぎった。これでは、たとえ会えるとしても祖父は会いに来ないだろう。
「えぇと……その、父上は……王になりたくなかったわけ?」
仮に祖父に玉座を押しつけても、次は父の番だろうと思うのだが……。
「エルダリオン。お前、王になりたいか?」
問い返されてエルダリオンは返事に窮した。エルダリオンにとって『王』というのは、「なりたい・なりたくない」ではなく「いずれ継ぐもの」である。そして、自分が継承するときは、目の前の父がいなくなるときだ……たぶん。
「……父上、長生きしてください」
父は笑って、テーブルの向こうからエルダリオンの頭を、くしゃくしゃと掻き混ぜた。
「父も、長生きしたかっただろうな」
ふっと、父の口許が緩んだ。
「歳若い妻と、言葉も覚束ない二歳の子供を残していったんだ。さぞ心残りだっただろう」
青灰色の瞳が遠い場所を見るように揺れた。だが、それも一瞬のことで「などと、感傷に浸っている時間はないな」。
父はにこりと笑い、立ち上がってエルダリオンに手を差し伸べた。
「さっそく街をご案内しましょう。殿下」
エルダリオンも笑って、その手を取った。
「よろしく頼む。騎士殿」
「お任せあれ」
国王と王子は光に彩られた白の街を歩き出した。
——あと何度、こうして父と歩けるだろうか。
隣を窺いながら、エルダリオンは次の『散歩』をいつにしようかと考えていた。
END