すまじきもの
直属の将の用向きのため、ソロンギルは白の塔の大将の執務室を訪ねた。書記官は使いにでも出ているのか留守で、執政の公子デネソールが一人、顰め面で書類の積まれた机に向かっていた。長居は無用である。
ソロンギルは礼を失しない程度の淡々とした態度と口調で決裁依頼の書類を渡し、早々に辞去しようとした。しかし、部屋を出るまであと二、三歩の距離となったところで、「ソロンギル」と呼び止められた。
「はい」
ソロンギルは応答の返事だけをして振り返った。ここで「なんでしょう」や「何かご用でしょうか」と返してはいけない。「用があるから呼んだのだ」——つまり、そんな当たり前のことを訊くなという嫌みが返ってくるだけだ。
では、「ご用件はなんでしょう」と応じれば良いかと言うと、それも違う。「用件がなければ呼べぬのか」となり、「それなら用をつくってやろう」とありがたくない用を命ぜられる羽目になる。余計なことは言わぬほうが身のためだ。
足を止めた位置で突っ立っていると、公子は書類に目を落としたまま、指だけでソロンギルを招いた。仕方なく執務机に歩み寄る。
「昨日、新酒が届いた」
公子は依然として顔を上げず、口だけ利いた。しかし、いきなり新酒が届いたと言われても……。
確かに今は葡萄酒の新酒が出まわる時季である。だが、場所は執務室で、新酒につながる前置きも脈絡もない。意図をつかみかねて困惑したが、間違っても「それがどうかしましたか」と訊いてはならないことだけはわかっていた。災いが降りかかるだけである。ソロンギルはただ応答を返した。
「はい」
「片づけに来い」
「……は?」
この人物相手に間抜けな声を発するのは危険だと重々承知しているが、予想をはるかに超える要請に対処できなかった。
「聞こえなかったか。館に新酒が届いた。だから片づけに来いと言ったのだ」
書面から顔を上げた公子は、眉間の皺を深くし、苛々した調子で言った。片づけに来い——察するところ、飲みに来いという意味なのだろうが……。
「あの……なぜ、わたしが……」
「昨年、好みだと申しておったではないか」
——そんなこと言ったか???
ソロンギルは僅かに首を傾げ、必死に記憶を遡った。しかし、大将閣下を相手に自分の好みをしゃべった憶えがない。それを正直に言うべきか……。思案していると、デネソールが言葉を付け足した。
「新酒ならではの味わいが好みだと」
あ、と口が開く。言われて思い出した。
——確かに……言った。
昨年、将軍が縁者から贈られてきた新酒の一瓶を分けてくれたのだ。それを手に帰宅する途中、公子と行き会い、そのまま彼の館へ連行された。そのとき、この御仁はのたまったのだ。
——葡萄酒は熟成させてこそ味が増すものだ。醸造家が出来の善し悪しを計るために新酒を飲むのはわかるが、若い葡萄酒をありがたがって飲むなど莫迦げている。それとも、そうやって飲んで醸造家を気取るつもりか。
痛烈な皮肉に呆れ半ば苦笑しつつ、ソロンギルは当たり障りのない返事をした。
——葡萄酒は熟成させるものだという公子のご意見には賛成です。けれど、新酒ならではの味わいも、また良いものだと思います。好みは別れるでしょうが、わたしは好きですよ。
確かに好きだと言ったが、新酒の味もまた良いものというだけのことで、社交辞令と同じである。しかも一年も前のやり取りだ。どうして今年「飲みに来い」という話になるのか、まったく持って思考のつながりのわからない人である(わかりたいとも思わないが)。
本人の言葉から公子が新酒を好まないことは明白だが、毎年恒例で館に贈られてくるらしい。あのときもソロンギルが携えていた瓶はそのままに、大将閣下の館へ届いた新酒に付き合わされた。デネソールは莫迦げているとまで言ったが、ソロンギルより量を空けていた。好みでなくとも飲めるのだ。
「確かに好みだと申しましたが、それなりの良さがあるというだけで、格別新酒が好きなわけではありません」
じろりと、暗い灰色の目がこちらに向く。後退りしたいのを堪えて、ソロンギルは言った。
「そもそも、大将閣下へ贈られた新酒を、わたしごときが口にしては贈り主に申し訳が立ちません。公子がお召し上がりになってこそ、喜ばれましょう」
遠回しに断りの言葉を述べ踵を返そうとしたが、デネソールが立ち上がるほうが早かった。
「物は言いようだな」
薄い唇にふっと冷笑が浮かぶ。表情の九割は不機嫌そうな無表情か顰め面、それか眉間に縦皺が入っている男だが、時折こうして笑みが浮かぶ。ただし、冷然や冷徹といった言葉で形容したくなるような冷笑の類いばかりだ。
「だがな、ソロンギル。贈られた物であっても、受け取った時点で所有者は白の塔の大将——すなわち、わたしとなる。わたしが館に誰を招こうと、誰に何を振舞おうと構わぬことではないか」
机をまわったデネソールが近づいてくる。その言葉にごもっともと頷きながら、ソロンギルの足はじりじりと後退っていた。
「第一、人の好みも確かめず物を贈り、それで良いと考える軽薄な輩を喜ばせてやる趣味はない」
さようでございますか。ですが、わたしもよそのお宅へお邪魔してまで飲みたいとは思いませんので、失礼——と、逃げようとしたが、一歩引いたところ、背が書棚に突き当たった。
——しまった。
横へずれようとしたが、時既に遅し。デネソールの両腕が、ソロンギルを挟むように書棚へ伸びた。
「ソロンギル」
間近に迫った灰色の瞳が、獲物を追い詰めた獣の如くぎらりと光った。
「今夜の予定は空いているはずだ」
既知の情報なのだろう、質問ではなく確認の口調で言われた。頷くしかない。
「はい……」
「だったら、いいな」
お断りします——と言ってもいいが、言ったらこの場で何をされるかわからない。逃れるにはのしてしまうしかないが、少なくとも現時点ではできない。自分はまだこの国に用がある。
「……はい」
了解の返事をすると、デネソールの口許がにたりとゆがんだ。冷たい指先がそろりとソロンギルの頬を撫でる。
「鷲も素直なのが一番だ」
そう言うと、男は書棚から手を放し、あっさりと机へ戻っていった。ほっと息を吐き、今度こそ部屋を出るべく、ソロンギルは踵を返した。
「感謝しろ。しばらくうまい酒を飲ませてやる」
早足で戸口へ向かう背に尚も言葉が追いかけてくる。どうやら、しばらく苦い酒席に付き合わされるらしい。宮仕えとは斯くも上司に振り回されるものなのか。己の意思で決めたことではあるが——、
すまじきものと、ソロンギルの口からため息がこぼれた。
END