掏摸
太陽がミナス・ティリスの白さを一際輝かせる季節、それが夏だ。夏の強い陽射しはミナス・ティリスの肌をより白く輝かせる。しかし、遠目には美しい景色も、街を歩く者にとっては、目を刺すような強い照り返しになる。ありがたいばかりとは言えない。夏の間、道行く者の多くは日除けのフードをかぶるのが見なれた景色となっていた。
白の塔の大将ボロミアも、その例に漏れずフードを目深にかぶっていた。もっとも、これは日除けというより、微行ゆえに人目を避けるのが主目的だった。隣を歩く野伏がフードをかぶっている理由も同じ……、
——いや……。
彼がフードをかぶっているのは、本当に日除けのためかもしれない。

——照り返しが強いからだけじゃない。あんたは目立つんだ。

城を出る前、彼に言われたことを思い出し、ボロミアはムッと唇を引き結んだ。ただの野伏がゴンドールの総大将であるボロミアを「あんた」呼ばわりはできない。同行の野伏はボロミアが仕える主君、ゴンドールの王エレスサール——アラゴルンの微行姿だった。
このところ多忙な日々が続き、王の執務は深夜にまで及んでいた。一昨日からようやく一息吐ける状態になったため、息が詰まっているであろう主君に気晴らしをさせたいと思い、希望を尋ねたところ、
——街を歩きたい。
一国の王にしてはささやかな、けれど、おいそれと叶えられない返答があった。執政職を務める弟のファラミアとも相談し、「日中、護衛をつけての微行なら」と条件を付けたところ、王はやれやれと肩をすぼめはしたものの「ありがとう」と言った。ただし、王からも条件が出された。
——護衛はボロミア、あんた一人だ。
それはそれで無茶な話ではあるが、
——陛下と兄上が揃えば、戦力という点では申し分ないでしょうね。
苦笑交じりにファラミアが頷き、王と白の塔の大将が昼間から街をそぞろ歩くという、いささか奇異なことが実現した。
そして城を出る際、アラゴルンが言ったのだ。あんたは目立つからフードをかぶっていろと。

——確かにわたしの顔はこの街で知られているが、それなら、あなたも同じであろう。

アラゴルンはエレンディルの末裔だが、アナリオン王朝の血筋ではなく、イシルドゥアの家系から出た北方王国の末裔だ。王家の直系を絶やそうとする冥王から身を守ろうと、人目を避けて暮らしていたせいもあり、指輪をめぐる戦いで名乗りを上げるまで、ゴンドールで顔を知る者はいなかった。
だが、戴冠して数年を経た今では、彼の顔も認識されるようになっている。特に城のお膝元であるミナス・ティリスの住人は、大門を出入りする騎馬姿を度々見ていることもあって、その認知度は高い——はずである。
民が国王のご尊顔を知るのは喜ばしいことだ。顔を知られた王がこっそり街へ下りる牽制にもなる。ますます喜ばしい——と、ボロミアは思っていたが、アラゴルンはあっさりと否定した。

——わたしは顔をさらして歩いてもまずバレない。
——そんなことはなかろう。
——本当だ。ミナス・ティリスの民が知っているのは、装束で飾りつけられた騎馬姿のわたしだ。くたびれた身なりをした野伏のわたしじゃない。同一人物だとは誰も思わないさ。
——わたしはわかるぞ。
——わかって当然だ。あんたは野伏のわたしを知っている。
——おっしゃるとおり、わたしは野伏姿のあなたを知っている。だが、あなたの顔を知っている者なら、身なりがどうであろうとわかるはずだ。
——それは違うな。わたしが薄汚い身なりをしていたら、城の衛兵とて、王だと気づくまいよ。わかるのは近衛や侍従ぐらいだろう。

軽く笑うアラゴルンに再びムッとしたボロミアだったが、出かけてみれば彼の言うとおりになった。フードをかぶっていても、各層の門番はボロミアに気づいたが、隣に立っている野伏の正体に気づく者はいなかった。
謁見の広間では玉座に相応しい威厳を示し、優雅な所作で諸官諸侯にため息を吐かせるというのに、今ボロミアの隣を歩いている男からそんな気配はまったく感じられない。どこから見ても野伏だ。ゴンドールの王は望むままに、気配を変えられるというわけだ。
——さすがだな。
だが、常々、脱走に手を焼いている身としては、感心ばかりもしていられない。
——これは問題だ。
野伏の身なりをしていれば、衛兵の目も誤魔化せるのだ。これでは、アラゴルンの脱走の牽制にすらならない。顔が知られるようになれば、少しは悪癖が減るかと思ったが、まったくの期待はずれだった。
——どうしたものか……。
考え込んでいると、
どんっ、
身体に軽い衝撃が走った。ハッと目を見開けば、
「すんません!」
元気な声とともに、小柄な少年がすぐ脇を駆け抜けていった。考えごとをしていて彼にぶつかったらしい。質素な衣服を纏っているとはいえ、剣を帯びている人物にぶつかるのは危険だ。無礼だと折檻されかねない。相手によっては、剣で斬りかかられることさえある。
もちろん、ボロミアは少年を咎めようとは思わなかった。男の子である。元気があっていい。目を細めて小路へ曲がっていく後ろ姿を見送った。すると——、
「ボロミア、あんたのだろう?」
隣から、革袋が差し出された。ボロミアが懐に入れていた金の入った革袋——つまりは財布を、なぜかアラゴルンが持っている。
「そうだが……なぜ、あなたが……?」
わけがわからないと思いながら、受け取った財布をしまっていると、アラゴルンは少年の駆け去った方向を一瞥し、くすりと笑った。
「今の子だ」
今の少年がなんだと言うのだ? わけがわからず、ボロミアは首を傾げた。
「掏摸だよ」
「……なに?」
ボロミアは目を剥いて、子供が駆け去った方向を見遣った。
「あの子がか?!」
「人にわざとぶつかって懐を探る——掏摸の常套手段だ」
なんでもないことのように、アラゴルンが言う。
「あんな短い時間でか……」
茫然とボロミアは呟いた。
「なかなか腕がいい」
アラゴルンはおもしろそうにフフッと笑った。
「何しろ、大将閣下の財布を抜いたんだから」
ぽん、とボロミアが財布をおさめたところを叩く。腹立たしいが、これはからかわれても仕方がない。自分は見破れなかったのだ。懐を探られても気づかなかった。考えごとをしていたとはいえ、剣士として恥ずべき失態だ。
「あなたは——」
ボロミアは掏摸を見破った男に向き直った。
「他人が掏られたことまでわかるのか?」
隣にいたとはいえ、自分の懐を探られたわけでもないのによく気づくものだ。けれど——、
「わたしも少々心得があるからね。手口はわかるさ」
波瀾万丈の半生を送ってきた主は事もなげに言った。
「心得とは……まさか、掏摸のか?」
「あまり上手くはないが、手口を見破るぐらいならできる」
ケロリと言われて、ボロミアは目眩を覚えた。
「念のために訊くが、今までに掏摸の技を使ったことはあるのか?」
「……さあな」
とぼけた返事に、ボロミアは眉根を寄せた。
「さあな……て、おい、アラゴルン」
「心配するな。即位してからは使ってない」
ということは、以前はやっていたというわけだ。いや、掏摸を生業にしていたとは、ボロミアも思わない。しかし、野伏の探索に役立てたことはあったのだろう。まったくこの主には驚かされる。ふぅ、と息を吐いていると、「ボロミア」と改まった声で呼ばれた。
「掏摸や空き巣が増えていると聞いたが、ああいう子が増えているということか? 掏摸で生計を立てているような子が」
気遣わしげな青い瞳に覗き込まれ、ボロミアはついと目を逸らした。
「まあ、そうですな……」
答えがよそよそしくなる。
「一時期ほど増えてはおりませんが……」
特に減っていないとも聞いた。指輪をめぐる戦いでミナス・ティリスは大きな被害を受けた。だが、帰還せし王を迎え、名実ともに王都となったため、修復作業に力が入り、他地域に比べて復興は早かった。まだ修復されていない施設はあるが、庶民の生活に支障がない程度には復旧している。しかし——、
失った命は戻らない。先程の少年のように人の懐を狙い、かすめ取る掏摸の多くは戦災で親を失い、行き場を無くした子供たちだ。ゆえに、不憫に思って見逃してやる衛兵もいるらしい。それに、子供たちを束ね、背後で操っている大人がいるらしく、そいつを押さえない限り、新たな子供の掏摸が増えるだけという指摘もある。
「ああいった子供たちの親は、モルドールとの戦いで亡くなった兵士だろう?」
核心に触れることを言われ、ボロミアは答えに詰まった。
「なんとかならないものか?」
「……取り締まりの強化はしております」
「そうではない。ボロミア」
王は嘆かわしそうに首を振り、足を止めた。
「悪事を働いた者を罰するのはいい。特に、一人前に育ってもろくに働かず、楽に稼ごうと他者の財を奪うような者は厳罰に処すべきだ。だが、彼らは違う」
憂いを帯びた淡い青色の瞳が影の山脈の方へ向けられる。
「年端もいかぬうちに親を失って、どこにも行き場がないんだ。働こうにも子供では勤め口がない。ああやって盗む以外生きる手段がないんだ。取り締まりも必要だが、彼らにはまだ保護が必要だ」
「しかし……」
保護はいいが、一旦悪事に手を染めた者を立ち直らせるのは並大抵ではない。特にああいう子供は大人を信用しなくなっている。篤志家が引き取った例もあるが、大半が金目の物を売り飛ばされたり、持ち逃げされたりしている。中には悪い仲間を手引きされ、財産をごっそり攫われた挙げ句、家の者が惨殺された事件もあった。
誰でも命は惜しい。骨董品の一つや二つならともかく、親切心で引き取ったのに殺されては堪らない。事件の話が広まるにつれ、篤志家たちも手をこまねくようになってきた。
「わたしも彼らと同じだよ、ボロミア」
ボロミアが黙り込んでいると、思わぬことをアラゴルンが言った。驚いて見つめると、彼は自嘲気味の笑みを浮かべた。
「わたしも二歳で父を亡くした」
ぽつりと落とされた言葉にハッとした。
「父は亡くなったが、わたしには母がいた。それに、わたしは王家の血を引いていた。だから裂け谷の保護を受けられた。支えてくれる眷属もいた。だが、もし、ゴンドールの一介の兵士の子供だったら、生き延びられたかわからない」
「アラゴルン……」
「裂け谷のような保護は無理でも、似たような施設をつくりたい。そこにいれば少なくとも飢えることはなく、生きる術を身に付けられる、そういう施設を」
「それは……」
理想論に過ぎない。現実はそんなに甘くない──そう笑われるのがオチの提案だった。けれど、この主は真剣だ。誰に何と言われようと、大真面目に今の言葉を繰り返すだろう。寛容と評される人物だが、こうと決めたときの意志は固い。それに……。

——陛下が具体的な提案をおっしゃるときは、調査してみると実現可能なことが多いのですよ。相応の努力は強いられますが。

切れ者の弟の言葉を思い出した。今こうして口にしたということは、アラゴルンなりの勝算があるのだろう。
「施設運営に見込みがあると……?」
「わたしはそう考えている」
ひねくれた挙げ句、人の道を踏み外してしまった者の心を開かせるのは簡単ではない。だが、不可能ではない。何より王の望みだ。唯一と跪いた主君の望みなら、叶えるよう努力するのが臣下の務めだ。そして叶えられたなら、それはボロミアの喜びにもなる。
「では、検討いたしましょう。ファラミアも交えて」
実務はファラミアの仕事になる。仕事が増えることに苦笑するだろうが、反対はしないだろう。
「そうしてくれるか?」
「もちろん」
「ありがとう。ボロミア」
にこりと笑ったアラゴルンの身がボロミアに寄り添った。その背にそっと腕をまわす。
「わかってくれてうれしい」
間近で囁かれ、鼓動が高鳴った。なぜ、この人はこんな場所でこんな声を出せるのか。卑怯だとすら思う。こんな閨で囁くような声を出すのは……。
「今日付き合ってくれたことにも改めて礼を言う」
「いえ、そんな……」
どぎまぎしてロクに反応できないでいるうちに、想い人はすっとその身をボロミアから離した。二歩進んでくるりと振り返る。
「あそこで一杯やって帰ろうか」
青灰色の眼差しが通りの一角を指す。樽と麦の穂を象った看板が見えた。
「大将殿のおごりで」
いたずらっぽい笑みを浮かべたアラゴルンの手には、なぜか先程しまったはずのボロミアの財布が握られていた。
END