Treasure
昼下がり、ファラミアが国王の執務室を訪ねると、部屋の主は長椅子に腰掛け、楽しげな顔で手紙を読んでいた。執務机に目を遣れば、封を切ったばかりの封筒が置いてあった。その封蝋に刻まれた印は、ファラミアにも見覚えのあるものだった。
「メリアドク殿からですか」
持ってきた書類箱を脇机に置きながら、ファラミアは尋ねた。
「ああ。ピピンのところに男の子が生まれたそうだ」
エレスサールが弾んだ声で答えた。
「わたしのところにもペレグリン殿から報せがありましたよ」
「じゃあ、名前のことも書いてあったかな」
青い瞳が書面から離れ、ファラミアに向いた。
「ええ。生まれたご子息に、わたしの名前を付けても良いかと——」
「というか、もう付けてしまったらしいな」
ピピンらしい——と、エレスサールが笑う。
「ええ」
ファラミアも笑いながら頷いた。受け取った手紙には、生まれた子にファラミアと名付けたら、執政に断りを入れるべきだとメリーやサムに意見された——そう書いてあった。
「それで、返事はどうするんだ?」
エレスサールがおもしろそうな表情で訊いた。答えはわかっているだろうに訊くのだから——、
断る
と言ったらどんな顔するのか……。いささか人の悪いことを思いながら、ファラミアは淡く微笑んだ。
「もちろん、喜んでと」
「晴れて、ファラミア・トゥックの誕生となるわけだ」
うれしそうに言いながら、エレスサールは立ち上がった。そのまま茶器の並んだ戸棚へ向かう。それを見てファラミアは暖炉にかけてあった鉄瓶を取った。茶葉を入れたポットが差し出される。そこに湯を注ぎながら、ファラミアは苦笑交じりに呟いた。
「しかし、よろしいのでしょうか。わたしの名前で」
「なぜ?」
茶葉の香りが立ちのぼる中、エレスサールが首を傾げた。
「ぱっとしない次男坊の名前ですよ」
「そんなことはないだろう」
エレスサールの憤然とした声が、ファラミアの言葉を否定した。
「あなたはオスギリアスの激戦を生き延びた。死線をくぐり抜けた勇者の名だ」
確かに自分は生き延びた。黒の息により生ける屍となって……。癒し手の持ち主であるエレスサールが現れなければ、あのまま黄泉路をたどっていただろう。決して自力で生き延びたわけではない。
しかも、あのとき率いていた隊はほとんど全滅した。暗い影が落ちた時代の倣いと言ってしまえばそれまでだが、力及ばず助けられなかった者たちだ。思いを馳せれば、年を経た今も胸の奥にきしむ痛みを感じる。けれど——、
その痛みも、ついに得た主の下、国土を建て直すことで癒されていくのだから、人とはしぶといものだと思う。斃れた者を思いながら、生きている幸せを噛み締めている矛盾。
——しぶとい上に浅ましい。
窓際のテーブルへ茶器を運びながら、もの思い耽っていると、「それに——」という王の言葉が聞こえた。
「確か……ゴンドールの王、オンドヘアの子息の一人がファラミアではなかったか?」
彼の言うとおり、ゴンドール第三十一代の王オンドヘアにはアルタミアとファラミアという王子があった。
「ええ。ですが、馬車族の襲来によって、父王や兄弟とともに討ち死にしています。それから考えても、決して縁起の良い名前とは……」
テーブルに茶器を置き、腰を下ろしながら言うと、ファラミアの向かいで王はパイプを取り出しながら首を傾げた。
「しかし、王家の子息に名付けられたのだから良い名だろう?」
「けれど、意味は定かでありませんよ」
「ファラミアの“mir”は“jewel”や“treasure”、すなわち宝の意味だろう?」
良い意味じゃないかと、エレスサールはパイプを吸った。
「ですが、“fara”の意味ははっきりしていません。アルタミアの“arta”は“exalted(高貴な)”や“lofty(高尚な)”という意味だそうですが」
エルフ語を学び始めた子供の頃、あらゆる名前の意味を調べたことがある。兄の名の意味はすぐわかったが、自分の名前についてはわからないままだった。名付けたのは父だったのだろうが、自分と父の間には尋ねる暇も空気も存在しなかった。
「意味がはっきりしないのは、わたしの名も同じだ」
エレスサールは軽く笑った。
「知ってのとおり“ara”は王を意味するが、“gorn”の意味は定かじゃない。村の長老たちには“valour(勇敢、剛勇)”を意味するシンダリン、“caun”や“gon”の変化形だと言われたが、それが確かなのか、実のところ不明だ。一度、片端から古書を調べてみたが、わからなかった」
彼は真名である“アラゴルン”をそう説明し、ふっと煙を吐き出した。
「ですが、アルセダインの長に陛下と同じ名の方がいらっしゃったのでは?」
兄が公式記録ではボロミア二世とされるように、主君もアラゴルン二世になる。同じ名前の先祖がいるのだ。
「ああ。だが、オンドヘアの子ファラミアと同じく、名前の意味までは伝わっていない。長老たちの意見はあくまでも推測なんだ。裂け谷の義父なら知っていたかもしれないが——」
なんとなく聞きそびれてしまってね、と王は笑った。
「長老たちと同じように“fara”の意味も推測することはできる。——たとえば、そうだな……」
エレスサールは考えるように言って、パイプを消した。ファラミアは席を立ち、ポットを取り上げた。部屋に佳い香りが漂い、ほど良い色の茶が白磁を満たしていく。
「“phar”の変化形なら“suffice(十分である、満足させる)”、“faras”の変化形だとすれば“hunting(狩猟、追跡)”だ」
白磁に茶を注ぐ中、エレスサールが推測を口にした。
「“hunting”ですか……」
意外な言葉に、思わずファラミアは呟いていた。子供の頃、意味がわからずに終わって以来、自分の名について考えるのは止めていた。それだけに主君の推測は新鮮だった。
「“suffice”は合っていると思うぞ。国政の場で十分な働きをしてくれるのだから」
ファラミアの呟きをどう受け取ったのか、主君は“suffice”を推す発言をした。けれど——、
「もったいないお言葉ですが、わたしは“hunting”のほうがいいですね」
ファラミアは微笑して茶器に口を付けた。おや、というようにエレスサールが首を傾げる。
「宝をつかむ立場のほうが性に合っていそうです」
「……意外だな」
向かいの席で青灰色の目が見開かれた。
「あなたは宝物の類には興味がないかと思っていた」
この人は自分をいったいどんな聖人君子だと思っているのか。そんな勘違いをさせる覚えはないのだが……。主君の呟きにファラミアは小さく笑んだ。
「宝といっても、宝玉や貴金属を指すとは限りませんよ」
「そうだが……、とすると——」
考えるように茶を口にしたエレスサールは、何かを思いついたように顔を上げた。
「ああ、エオウィン殿か」
当たりだろ? というように、青い瞳を輝かせている姿はなんとも微笑ましい。
「確かに、彼女は宝に喩えるに匹敵する存在ですね」
ファラミアはただ笑った。
「その答え方は“違う”という意味か」
「さあ、どうでしょうか」
はぐらかして茶を口にすれば、恨めしげな眼差しが向けられた。
「——わたしには教えられないというわけだ」
「陛下に害を及ぼすものではございませんよ」
にこやかに言うと、「そんなことは疑っていないが……」と拗ねた声が返ってきた。
「執政殿の宝を紹介してほしかったな」
ぼそりと呟くと、くいっと茶を飲み干し、主君は窓の外に視線を逸らしてしまった。その姿に吹き出しそうになるのを堪え、ファラミアは茶器を取り上げた。そっぽを向いた顔をこちらに向けるのは簡単だ。宝が何か申し上げますと言えばいい。けれど、それを伝えたら、
——あなたはきっと困った顔をなさる。
だから言ってはならない。ファラミアが黙ってしまったせいか、つまらなさそうに頬杖をつく横顔が様子を窺うように一瞥をくれた。
「もう一杯、召し上がりますか?」
ファラミアはにこやかに、至宝の存在であるその人に微笑んだ。
END