Vernal breeze
三月、山を背にしたゴンドールの首都、ミナス・ティリスに吹く風はまだ冷たい。だが、日ごとに増す陽射しのぬくもりに誰もが春の訪れが近いことを物語っていた。そんな穏やかな昼下がり、白い街の上層部で近衛兵の駆ける足音が響いていた。
「殿下!」
マントを翻して石畳の通路を駆ける近衛兵の先には——
「エルダリオン様!」
十四歳になるこの国の王子の姿があった。
「お待ちください!」
待てと言われて待つ逃亡者はいない。エルダリオンは足を速めた。もっとも、こんな追いかけっこを続けられるのはエルダリオンが王の子息だからだ。そうでなければ矢が飛んで来て、あっという間に捕らえられているだろう。
「殿下っ!」
背後の足音が高まる。追手の人数が増えたのかもしれない。このままでは分が悪くなる一方だ。そうでなくても、自分は今走っている辺りに詳しくない。王家の子息といえど、城内のことに精通しているわけではない。エルダリオンが知っているのは、生活の場である奥向きのほうだけだ。地の利は言うまでもなく近衛兵にある。
「門へまわれ!」
背後でかけられた号令を聞いて、エルダリオンは焦った。
——このままでは逃げ場がなくなる。
走り続けで息も苦しい。エルダリオンは目についた細い小路に逃げ込んだ。道なりに角を曲がったとき、石造りの壁から緑の草が覗いているのが目に入った。壁の一部が崩れて穴が空いているのだ。駆け寄って壁の向こうを覗き込む。
——庭……?
壁の向こう側はこの石造りの都には珍しく草木が生い茂っていた。緑葉の名を持つエルフ——レゴラスが王に贈ったものだろうか。いまはイシリアンの森に暮らすエルフが、王の即位後、ミナス・ティリスに木々を植えた。エルフに贈られた樹木は季節を問わず常緑の葉を繁らせる。それを元に庭園として整備された箇所もある。確か——
王の執務室の周りがそうだ。
「エルダリオン様!」
狭い小路に近衛兵の足音が迫ってくる。エルダリオンは足下にぽっかり開いた穴を見た。
——彼らはここを通り抜けられない。
自分なら可能だ。エルダリオンは素早く壁に空いた空間をくぐった。
◆◇◆◇◆◇◆
緑の生い茂る庭へと逃れたエルダリオンは、それでも用心のため木の陰に隠れるように歩いた。小路を追いかけてきた近衛兵たちは撒いたが、ここにも近衛兵がいるかもしれない。なにしろ王の庭なのだから。
——なんとか自力で奥の宮まで戻らなければ。
下層へ通じる門には既に手がまわっているだろう。当初の目的は諦めるしかない。だからといって、衛兵に連れ戻されるのは嫌だった。馬鹿馬鹿しい意地ではあるが、自分の意思で戻ったことにしたい。
そうこうして歩いているうちに建物の脇に出た。下手に近づくと見つかるかもしれない、と思ったとき……
「エルダリオン?」
頭上から声が降ってきた。顔を上げると木の上に人陰があった。
「どうしたんだ? こんなところで」
——そういうあなたこそ、なぜ木に登っているんだ。
木の枝に腰掛けて、不思議そうな声でエルダリオンに話しかけてきた人物は、緩やかに波打つ濃い色の髪と青灰色の瞳を持つ、アルノールとゴンドールの二国を統べる王——つまりは自分の父親だった。
「迷ったのか?」
呆然と樹上の父親を見上げるエルダリオンに、当の本人は暢気なことを口にする。確かに自分は迷っている、が、いまの状況で問題なのはそこではないような……。
「父上こそ……」
何をしているのか尋ねようとしたとき、前方から近衛兵の声が聞こえた。
「殿下。エルダリオン様! お戻りください!」
庭にも捜索の手が入ったのだ。エルダリオンはどこへ逃げようかと辺りを見回した。すると目の前にロープが垂らされた。
「つかまれ」
見上げれば父親が枝にロープをかけ、軽く頷く姿があった。エルダリオンはロープを手にし、木の幹に足をかけた。途端にぐいっと体が引き上げられる。
「手を貸せ」
父親に引き上げられて、エルダリオンも樹上の人となった。
「エルダリオン様!」
近衛兵たちの声が近づいてくる。
「幹に体を寄せてろ。動くなよ」
父に言われるまま、エルダリオンは身を屈め、木の幹に寄り添い息を潜めた。近衛兵の一団がすぐ下を通っていく。
「お前たちは向こうへまわれ。残りはこのまま引き返すぞ」
石の壁に行き止まった兵たちは二手に別れ、去っていった。エルダリオンはほっと息を吐き出す。同時に隣でくすりと笑う気配があった。振り向けば、思ったとおり父親が面白そうな表情でこっちを見ている。だが、彼は何も言わず、エルダリオンの背後を指した。振り返るとすぐ近くに露台があった。父は枝に立つと、ひらりと露台へ飛び移り、エルダリオンにも飛び移るように合図した。
◆◇◆◇◆◇◆
「珍しいな。お前がさぼりとは」
“エルフの石”の名を持つ王は、城の衛兵に追いかけられていた不届きな息子を叱るどころか、いたって面白そうに眺めた。
「わたしはよく説教されるぞ。『エルダリオン様は勉強も剣の稽古も、それは真面目にこなしてらっしゃいます。少しはご子息を見習ってください』と」
楽しげに笑った父は、水差しから杯に水を注ぎ「喉が渇いているだろう」と渡してくれた。エルダリオンは水を飲むと、まず父親のことから質問した。
「父上は……木の上で何を?」
二人が木の枝から移ったのは王の執務室の露台で……。つまり、父は木の枝には露台から飛び移ったのだろうが、王の政務に木の枝に飛び移らなければこなせないもの——なんて無いはずだ。
「息抜きだ」
「ロープを持って?」
「備えあれば憂いなし、だろ?」
父はウインクしていたずらっぽい笑みを浮かべた。いったい何に対しての“備え”なのか、近衛隊長や侍従なら問い質してみたくなるだろう。エルダリオンは、先程まで自分を追っていた近衛兵の執拗な追跡ぶりを思い出した。あれはこの父の脱走癖が原因かもしれない。
最近、数は減ったらしいが、野伏の前歴を持つ王は何度も王宮を抜け出し、近衛兵の面目を潰している。近衛兵たちには、本来の任務から考えるとちぐはぐな「いつか王を捕らえよう」という隠された目標がある——そんな噂がまことしやかに囁かれるほどだ。結果として、父の脱走が近衛兵の質を向上させた……のかもしれない。
「お前のほうこそどうしたんだ? エルダリオン。こっちに用でもあったか?」
城を抜け出す数は減ったものの、執務室を抜けることは未だ日常茶飯事らしい王が、幾分真面目な顔をして言った。
「確かこの時間だと……剣術の稽古じゃなかったか? お前は——他のものもそうだが——特に剣には熱心だと聞いていたが、どうした? 何か問題でもあったか?」
エルダリオンは困った。問題は……ないのだ。なにしろ自分のわがままなのだから……。
「答えたくないことか」
父は少し困ったような微笑みを浮かべた。この父親は王宮を抜け出して臣下を困らせる風変わりな君主だが、対人関係においては誠実で、それは自分の子供に対しても徹底していた。子供の言い分にもきちんと耳を傾け、頭ごなしに叱ることはしない。しかし、決して甘い親ではない。
剣術を教わり始めてしばらくした頃、エルダリオンは短剣を『自分の剣』として持つことを許された。与えられた短剣は美しく、初めて『自分の剣』を手にした嬉しさもあって、エルダリオンは場所を問わずに振り回していた。結果、手を滑らせて剣を飛ばしてしまい、近くで見ていた妹にもう少しで怪我を負わせるところだった。あのときは、これが日頃温厚な父親かと思うほど厳しく叱られた。ただし、剣を取り上げることはしなかった。武器の扱いについて再三注意した後、今後はしないと言ったエルダリオンの言葉に微笑って頷き、その件は締め括られた。
「お前が少々さぼってみたかったと言ったところで、わたしは叱るつもりはない。いつも執務室を抜け出しているわたしでは叱る立場にないからな」
そう言って父は笑うが、繰り返される主君の脱走を、周囲に仕える者たちが「困った方だ」で済ませているのは、政務に深刻な影響を与えていないからだ。いかな父でも仕事を放り出して脱走を謀ったりはしない。面会の約束も、苦手だという式典への出席も、すっぽかしたことはなかった。エルダリオンのわがままとは訳が違う。
——理由を聞いても、父の笑みは浮かんでいるだろうか……。
そんな息子の心中を知ってか知らずか、鷹揚に笑った父は「長い話なら座って聞こう」と椅子を勧めた。
——こうなっては……
話すまではここから出してもらえそうにない、ことは十四歳の子供にもわかった。
——仕方ない。
エルダリオンは覚悟を決めた。
「つまらなくなったんだ」
「……剣の稽古が?」
意外だったのだろう、きょとんとした表情で父は首を傾げた。
「うん、まあ……」
「熱心だと聞いていたが……、急にどうした?」
首を傾けた角度を保ち、きょとんとした表情のまま、父が身を屈めた。上目遣いになった青灰色の瞳がエルダリオンを見つめる。この仕草は父の癖だ。なぜだか、これをやられると逆らう気が削がれてしまう。ただし、王の威厳は微塵も感じられなくなるので、この癖が政務の場で出ていなければいいと密かに心配もしている。逆らえなくなる効果は威厳並みに強力かもしれないが……。
「急にというか……、その、ずっと同じ型の繰り返しなんだ。それが二ヶ月以上経つから……」
「飽きたか」
笑いを噛み殺すような顔をして父は言った。
「まあ、そうだけど」
「それでさぼってみたくなった?」
「練兵場に行こうとしてたんだ」
「練兵場? お前、兵士の相手が出来るほど腕が上がったのか?」
「そうじゃない。見学だよ」
父はなるほど、というように頷いた。訓練や試合といえど、エルダリオンが激しく打ち合う剣技を目にする機会は少ない。
「それで、抜け出すのに失敗したか。——近衛を甘く見たな」
父はにやりと笑った。
「今度は上手くやるよ」
「それは困るな。お前まで日常的に抜け出すようになったら、わたしが説教される種が増える。ファラミアが何と言うか……」
執政を兼ねるイシリアン公の名前を引き合いに出して、国王たる父は肩を竦めた。
「この国で一番強い人間の男は、王ではなく執政だからな」
冗談とも本気ともつかない表情で呟いてから、父は真面目な顔をしてエルダリオンに向き直った。
「エルダリオン。基本型の繰り返しばかりでは飽きるという気持ちはわかるが、剣術はその基本が大切だ」
「わかってるよ」
「だろうな。だが、剣の稽古をすっぽかしたことは事実だ。師匠にはきちんと詫びておけ。先方はお前のために時間を割いている。何より、王位継承者が約束を反古にするなどと噂が立つのは良いことではないからな」
「はい」
「よし。では、今日はわたしが相手になろう」
「え? 父上が?」
エルダリオンは驚いた。父が稽古や訓練で誰かを相手にすることはまずない。城内で試合が行われても自ら剣を振るうことは滅多にない。その理由は「陛下が強過ぎて誰も相手にならないからだ」というのが巷間の噂で、「わたしの剣は訓練や試合向きじゃない」というのが国王自身の言葉だった。
「わたしの剣は実戦で鍛えられたものだ。基本からはみ出ているから教えるのには不向きだが、お前が基本の型を身についけているなら刺激になっていいだろう。それとも、わたしが相手では不満か?」
「とんでもない。喜んで」
人の稽古の相手を滅多にしない父親が、どういう気まぐれからか名乗りをあげてくれた。エルダリオンにとっては願ってもない機会だ。
「では、決まりだ」
楽しげに言って父は立ち上がり、壁に掛かっている数本の剣の前に立った。
「——と、ここの剣は真剣ばかりだったな」
父は少し戸惑った顔になった。熟練者は稽古にも真剣を使うが、初心者や子供の稽古には事故を防ぐため、木刀や模造の剣が使われる。エルダリオンも普段の稽古には模造の剣を使っていた。だが、数か月前から、打ち合いをしない型の稽古には真剣を使うようになった。
「最近は真剣も使ってるから平気だよ」
せっかくの父との稽古の機会を逃したくない。エルダリオンは事実を誇張して言った。
「そうか。それなら……」
父は一本の剣を手に取り、重さと重心を見るように振った。それを眺めていたエルダリオンは、ふと執務机の後ろに掛けられた堂々とした剣に目を惹かれた。
——アンドゥリル。
使いたいと思ったわけではなく、目を惹かれただけだが、エルダリオンの視線に気づいた父が呆れた顔をして振り返った。
「エルダリオン。アンドゥリルを使いたいのか?」
「まさか」
エルダリオンは慌てて否定した。アンドゥリルは、父が腰に提げても引きずりかねないほど大きな剣だ。背の高さも腕力も、父に及ばないエルダリオンに扱える代物ではない。
「いくらなんでも無理だぞ」
エルダリオンはわかってると頷いた。大きさだけではない、なんといっても王の証たる剣だ。下手をすれば、息子といえども剣を欲した時点で不敬罪に問われかねない。だが、父が真面目くさって口にした言葉は——
「そんなものをここで振り回したら部屋が滅茶苦茶になる」
——問題にするところが違います、父上……。
「これでどうだ?」
父が小振りな剣を投げて寄越した。重さもちょうどいい。自分にも扱えるとエルダリオンは頷く。
「始めよう」
ゴンドールの王が白刃を鞘走らせた。
◆◇◆◇◆◇◆
キン、カンッ……。
金属のぶつかり合う硬質な音が執務室内に響く。もう何合、打ち合ったのか、エルダリオンはさすがに息が上がり始めた。一方、父親は息も乱さず涼しい顔だ。仕掛けるのはエルダリオンのほうなのに、たちまち劣勢になる。そんなことの繰り返しだった。
敵うはずもないとはわかっていたけれど、これでは相手にすらなっていない。どう打ち込んでもエルダリオンの剣は止められ、躱され、封じられてしまう。
カン、キィン……。
けれど、せめて、父が仕掛けに転じるくらいには持っていきたい。エルダリオンは積極的に打ち込んでいった。
キィン。
父が僅かに身を引いた。ほんの一瞬、隙が生じる。
——今だ。
エルダリオンは一気に剣を突き出した。途端、父の剣がまるで生き物が巻きつくような動きで、エルダリオンの剣に絡みついた。
ガッ……!
重い音とともに右腕に衝撃が走った。剣はエルダリオンの手から弾かれ、弧を描いて飛んだ。呆然と立ち尽くすエルダリオンに、父が慌てたように覆い被さる。何事かと思った瞬間、折れた剣の切っ先が二人をかすめるように飛んできて石の床を跳ねた。弾き飛ばされた剣が石造りの天井に当たって折れたのだ。
「怪我はないか?」
自分はただ突っ立っていることしかできなかった。父は弾き飛ばした相手の剣が折れて落ちてくるのを知るや、その相手を庇う余裕も持っていた。圧倒的な力量の差……。
「手は大丈夫か?」
父は剣を鞘に納めると、そっとエルダリオンの右手を取った。
「痛みは?」
「痺れてるけど、大丈夫。時間が経てば引くと思う」
エルダリオンは父親を安心させるように笑みを浮かべた。
真剣を使った稽古だ。無傷でいるほうが珍しい。模造の剣でも痣やかすり傷は当たり前なのだ。しかし、妙なところで心配性の父は沈痛な面持ちをしている。
「そうか……。すまなかった」
「大丈夫だよ」
エルダリオンは父の目の前でひらひらと右手を振り、掌を開いたり閉じたりと動かして見せた。
「たいしたことがなくて良かった」
父が安堵の笑みを浮かべる。
「加減するつもりだったが、うまくいかなかった。すまない」
そう言って、くしゃりとエルダリオンの頭に手を置いた。髪をくしゃくしゃと掻き混ぜるように撫でる父を、くすぐったい気持ちで眺めていたエルダリオンだが、父の左腕に目を遣ってはっとした。
「——父上」
「なんだ?」
「腕に怪我を……」
肘の下あたり、上衣の袖が切れて血が滲んでいる。おそらく剣の切っ先が落ちてきたときに切れたのだろう。
「たいしたことはない」
父はエルダリオンの肩をポンと叩く。
「手当てしないと」
「あとでするさ」
ふわりと笑うと、父は剣の掛かっていた壁に歩み寄った。
「エルダリオン。さっきの動きは見えたか?」
持っていた剣を壁に掛けながら父が聞いた。
「見えたよ。剣が巻きつくようだった。どうやるの?」
「あれは基本の突きを変化させたものだ。腕の返しと手首の捻りを効かせている」
振り返った父は妙にやさしい微笑みを浮かべていた。
「だが、お前が覚えるのはまだ早い。お前はしばしば型が崩れる。型が付く前に変化のある技を学ぶのは危険だ」
鋭い指摘にエルダリオンは俯く。
「基本をしっかり身に付けたほうがいい。自然に体が動くまでな。そうでないと応用の技も難しい」
父は近づいてくると、エルダリオンの視線に合わせるように身を屈めた。間近でやさしい声が響く。
「型は繰り返さないと身に付かない。つまらなくても辛抱するんだな」
「……はい」
エルダリオンは悄然と肩を落とした。確かに自分はつまらないと言った。しかし、剣術が嫌いなわけではない。もっと多くの技を学んで早く上達したいという気持ちのほうが強い。だから、いつまでも同じ型をさらう稽古に飽きてしまった。だが、それを上手く説明できない。
——わかっていたことだ。
自分の剣の腕など、まだまだ未熟だ。それで剣の稽古がつまらないと言うのは——特に父のような比類なき腕の持ち主から見れば——生意気な子供のわがままでしかない。ただ、その指摘を他の誰でもない父にされるのは辛かった。父の手がエルダリオンの肩に置かれた。慰めの言葉などかけて欲しくはないと情けなく思ったが……
「そう落ち込むな。別に剣のスジが悪いと言っているわけじゃない。最後の突きには少々焦った」
思わぬ言葉にエルダリオンは顔を上げた。
「お前に踏み込ませようと、わざと引いたんだが……思ったより強烈だった。おかげで加減ができなかったんだ」
青灰色の目が細められる。
「それに、他人の試合を見るのも実戦的な手合わせをするのも悪いことではない。だから、これからときどき、お前の稽古に行こうと思うが、どうだ?」
「父上が……稽古を?」
「毎日は無理だが、出来るだけ顔を出すようにする。頻繁にお前に脱走されるようになるのは困るからな」
父はにこっと笑って立ち上がり、床に落ちている折れた剣を拾おうと膝をつき……、不意に表情を曇らせた。素早く扉に駆け寄る。小さく開けた隙間から控えの間を覗くや身を翻し、エルダリオンを半ば抱えるように引っ張った。
「何? どうしたの?」
「ファラミアだ」
「え?」
「取り次ぎの声がした」
野伏上がりの国王は人の気配に敏感だ。……が、己の右腕ともいうべき執政に、これほど警戒する王はまずいないだろう。父はエルダリオンを部屋の隅に引っ張ってきて、ようやく手を離した。そこには天窓まで伸びる細い階段があった。窓の開閉や掃除にでも使うのだろうか……。
「天窓から屋根に出ろ。渡りの屋根伝いに隣の棟へ移れる。その先に塔があるから、窓から中に入るか外階段を使え」
慌ただしい説明だったが、切羽詰まった父親の顔にエルダリオンは余計な質問をせず頷いた。幅の狭い階段に足をかける。
「エルダリオン。見つかっても引き返すな。上手く叱られておくのもお前の役目だ」
妙に実感のこもった言葉をかけられる。だが、言葉の真意はわかる。臣下が諌めることさえしなくなった君主など、遅かれ早かれ滅びの道を辿るだけだ。
「わかった。——父上、今日はありがとう」
エルダリオンは二段ばかり上がったところで、父親のこめかみに手を添え、額に軽く口付けを落とした。父はふわっと柔かな笑みを浮かべると、その唇をエルダリオンの頬に触れさせた。それから急かすように、ぽんっと背中を押す。
「行け。落ちるなよ」
エルダリオンは目で頷くと階段を全速力で上った。天窓へ辿り着き屋根に身を乗り出したとき、執務室の中から話し声が聞こえてきた。石造りの建物は声がよく響く。
「いかがなさいました、陛下。剣を折って腕に怪我をなさるほど激しいご政務がおありで?」
「……ファラミア」
「エルダリオン様はどちらにおいでです?」
「耳が早いな」
「近衛たちが大騒ぎですよ。結局、撒かれてしまったと悔しがっていました。さすがテルコンタール王家の方々。御名に相応しく足が速くていらっしゃる」
面白そうにファラミアが笑う声が聞こえた。
「そうそう、なんでも見失ったのはこの近くの庭だとか」
「執政殿のご明察どおりだ。さっきまでここにいた」
父が諦めと安堵の入り混じった声で言った。
「国王陛下に剣の稽古をつけてもらえるなら、わたしも執務をさぼろうかと思いますよ。室内というのはいただけませんが」
「ファラミア。さぼったことはともかくとして、ここで剣を振るったことであれを叱るな。わたしが誘ったんだ」
「ご心配なさらずとも、エルダリオン様を叱るつもりはございません。わたしも反省しております」
「反省?」
「ええ。わたしは日頃、良き指導者の姿として『殿下には良き手本となるお父上がいらっしゃる』と申し上げてきました。しかし、その手本が“これ”では……」
嘆かわしいと言わんばかりの深いため息が天窓まで聞こえてきた。
「わたしは間違ったことをお教えしてしまいました」
“これ”呼ばわりされた王は二の句が継げないらしい。声がしなくなってしまった。これが上手く叱られる見本かどうかは謎だが、「この国で一番強い人間の男は、王ではなく執政」なのは本当のようだ。エルダリオンは肩をすぼめ、見つからない内にと天窓から離れた。
屋根からの眺望は目を見張るほど美しいものだった。さすが最上層にある建物の屋根の上。ミナス・ティリスの白い街並が一望できる。エルダリオンは姿勢を低く保って歩きながらも、幾度か美しい眺めに足を止めた。頭上には穏やかな青空。晴れた日ならば進んで屋根に登りたいくらいだ。今はまだ風が冷たいけれど。
——父上はときどきここに登っているんだろうか。
なにしろ、咄嗟に天窓から塔へのルートを自分に指示できるくらいだ。使ったことがあるのは一度や二度ではないだろう。脱走はともかく屋根の上での息抜きだったら、自分も誘ってほしいと勝手なことを思う。王と王子が並んで屋根に登ったら、近衛隊長は頭を抱え、侍従にいたっては卒倒するかもしれないが……。
——もう少し暖かくなったら父上を誘ってみよう。
一緒にこの景色を眺めたいと思った。普段は何かと離れている親子なのだ。たまには独り占めしたくなる。自分と似た、けれどどこか不思議な光を宿したあの青灰色の瞳がこの景色を映したとき、彼の表情はどう変化するのだろう。
——楽しみだ。
エルダリオンは微笑み、塔に向かって足を速めた。春の訪れが近いことを感じて——。
END