Vintage year
一昨日から、ハロンドールの一領主がミナス・ティリスに滞在していた。南イシリアンと接する土地に領を持っている。父親はロスサールナッハの近くの一領主だった。そちらは兄が継ぎ、弟である彼は四、五年前、アンドゥインの東岸に新しい領主として移り住んだ。年齢は四十半ば、ファラミアと同じくらいである。
指輪をめぐる戦いから十年余りが過ぎたが、ハロンドールは未だ不安定な要素が残る。エミン・アルネンの周辺は人も増えたが、戦争後もモルドールの残党との小競り合いが幾度か起こったハロンドールは、比較的人口も少ない。条件の良い土地とは言えないが、彼は領を得ることに意欲的だった。
——このまま家に残っても、兄の世話になるだけですから。
そう言った男の瞳は、兄の下で終わりたくないという野心で満ちていた。事実、彼は四、五年で“有能なれど油断ならない野心家で”という人物評を確立した。その領主に相談があると言われ、ファラミアは彼を夕食の席に招いた。
「そういえば、南イシリアンでは葡萄酒もつくられるようになったとか」
赤葡萄酒を口にした男が、思い出したように言った。
「ええ、まだ量は少ないですが」
鹿肉のソテーにナイフを入れながら、ファラミアはにこやかに答えた。
南イシリアンで葡萄栽培に取り組み始めたのは、戦争が終結した翌年からだが、実りを収穫できるようになったのは五年程前からである。葡萄酒を商品として出荷できるようになったのは、ここ二、三年の話だ。それも規模の小さな葡萄園に過ぎない。
「けれど、出来の良い葡萄酒だとの評判、羨ましい限りです」
「葡萄園の努力の賜物でしょう」
ファラミアは自領への賞讃を受け流した。野心溢れる人物が讃辞を口にするときは要注意だ。こういう手合いは只では誉めない。企みのある証である。
「我が領でも葡萄栽培を手がけようと思うのですよ。西岸より乾燥した気候は葡萄に適している。問題は水が足りないことでしたが、この度、影の山脈の麓で湧き水が見つかりまして——」
なんでもない話し方ながら、男の声は熱を帯びてきていた。どうやら、その湧き水が相談事の核心らしい。
「そこでご相談というのが——」
カトラリーを握り締めた男が、“相談”という名の“無心”を口にした。
◆◇◆◇◆◇◆
「二階でお客様がお待ちでございます」
ハロンドールの領主を見送ったところへ、執事が——この男にしては珍しく——複雑な表情で近づいてきた。
「誰だ?」
来客の予定はなかった。急用なら夕食の席でも伝えるよう頼んである。
「エレスサール様です」
執事は静かに国王の名を告げ、階段の方を一瞥した。
「いつから?」
「半刻ほど前からかと……。厨房の者が報せにきたのがそれくらいでした」
要するに今回は厨房から入り込んだのだ。あの主ときたら……。否応なくファラミアの片眉が吊り上がる。それを察知した執事は静かに一歩退いた。
「突き当たりの客間にお通ししておきました」
執事の慇懃な声を背中に聞きながら、ファラミアは階段を駆け上がった。
◆◇◆◇◆◇◆
ファラミアと入れ違いに、客間から料理長が退出していった。テーブルの上に酒肴らしき品が並んでいる。
「陛下。わざわざお運びいただかなくても、お呼びくだされば臣がお伺いいたしますものを」
ファラミアは王の傍らに跪き、にこやかに慇懃な言葉を述べた。ちょっとした嫌がらせだ。
「そう言うな。ここの料理長の料理が恋しくなったんだ」
エレスサールは苦笑し肩をすぼめた。
「お申しつけくだされば、いつでもお運びいたしますよ」
跪いたまま笑顔で返すと、エレスサールは不満げに顔を顰めた。
「それでは料理が冷めてしまう」
とにかく座れというように、彼は長椅子を指した。
「ここでものんびりしていられない。しゃべっている内に冷めてしまう。——ファラミア、いつまでそうしているつもりだ」
再度、座るように促され、ファラミアは仕方ないという態度を装って腰を下ろした。
「それで、ご用件は?」
厨房を訪ね、実際に酒肴を運ばせていることから「料理が恋しくなった」のは嘘ではあるまいが(国王が物乞いのように臣下の館の厨房に入り込む、という問題点はこの際置いておく)、それだけではないだろう。
「南イシリアンから届いた、今年初めての葡萄酒だ」
エレスサールがテーブルの瓶を取り上げた。
「イシリアン公と一緒に空けたくてね。そっちにも届いていると思うが、今夜はこっちに付き合ってくれ」
グラスに赤葡萄酒を注ぎながら目を細める。こういうとき、彼は実に幸せそうな顔になる。自分が如何な言葉を紡ごうと、如何なことを為そうと、この笑顔は出てこない。酒精や酒肴が妬ましくなる。
「これは鱒と貝のシチューにチーズをまぶして、パイ生地に包んで焼いたものだそうだ。こっちは鹿肉を潰して団子にし、野菜とともに煮込んだと聞いた」
エレスサールが酒肴の皿を指し、料理長からの受け売りを説明してくれた。どちらも夕食の食材の残りを使っている。おそらく賄い食だろう。
「執政閣下の夕食は鹿肉の……ロースト? それとも……」
考えるように言って、エレスサールが首を傾げた。
「ソテーでした」
ファラミアは苦笑して答えた。こうしていつもペースを崩される。この人には敵わない。
「鱒はマリネ、貝はスープに入っていましたよ」
彼は「マリネはうまそうだな」とのんきに笑った。今度は厨房にマリネを所望しに来るかもしれない。
「執政館の料理が気に入ったなどと、城の料理長に漏らさないでくださいよ。わたしが睨まれてしまいます」
「……と言われても、困ったな。彼はもう知っているぞ」
「陛下……」
ファラミアは額を押さえた。城の厨房を預かる料理人たちは、主君がときどき街に下りて、庶民的な料理に舌鼓を打っているという事実に、複雑な感情を抱いているのだ。そのうえ、臣下の館で度々料理を所望していると知れては、彼らの矜持を挫いてしまうことになる。
「心配するな。彼はそんなことで執政殿に苦情を言ったりしない。ときどき恨み言を言われるが、その都度宥めているから大丈夫だ。——それより、ほら、乾杯しよう」
目の前に赤葡萄酒のグラスが差し出された。グラスを受け取り、主君に倣って眼前にかざす。
「今年も、南イシリアンの葡萄酒を味わえる幸せを祝って」
「乾杯」
キンッと心地良い音が鳴った。香りを確かめるようにグラスをかざせば、黒苺を思わせる香りがふわっと漂った。口に含むとそれに混じって、少しスパイシーな香りも感じた。舌の上にやわらかな味が広がる。まろい口当たりを楽しみながら、ゆっくりと飲み干した。
「いい出来だな。昨年もなかなかだったが、今年は当たり年だ」
グラスを置いたエレスサールが満足げな笑みを浮かべた。ファラミアも笑顔で頷く。
「ええ。葡萄園の者も、今年は出来がいいと喜んでいましたよ」
新酒ゆえ、今は軽い味わいだが、熟成させれば深みのある味になるだろう。数年先が楽しみである。
「これだけのものが出来るようになれば、南イシリアンの葡萄園も安泰だな」
エレスサールはうれしそうな笑みをこぼし、鱒と貝のパイを取り上げた。ファラミアも勧められたが、夕食を済ませたばかりである。さすがに食べる気は起こらない。
「わたしは夕食を済ませたばかりですから。どうぞ召し上がってください」
「では、遠慮なく」
エレスサールはそう言うと、勢い良くパイにかぶりついた。けっこうな食べっぷりである。
「ご夕食は召し上がらなかったので?」
「食べたよ。立て込んでいたから軽くだったが」
彼はなんでもないように答えたが、この人の言う“軽く”が、たとえばスープだけ、シチューだけ、パンとチーズ一片ずつ……、とにかく料理一品だけということは珍しくない。ファラミアは僅かに眉を顰めた。
「そんなに急ぎの書類がありましたか」
「書庫で文献を漁っていたら時間が過ぎてしまったんだ」
けろりと言われて、ファラミアは嘆息した。
「また、そのようなことをなさって……。きちんと召し上がっていただかねば困ります」
エレスサールは「聞かなかったことにしてくれ」と片目を瞑った。
「城の料理長が嘆きますよ」
「明日はちゃんと食べるよ」
エレスサールは申し訳なさそうに肩を竦めた。それでも、しっかりパイを片づけ、鹿肉団子の煮込みに取りかかっている。この食べっぷりを見せられては、あまり強いことも言えなくなってしまう。
——食欲があるなら良しとするか。
こう思ってしまうあたり、結局、自分も主君に甘いのかもしれない。
「ところで、客が来ていたようだが」
空けたグラスに葡萄酒を注いでいると、エレスサールが思い出したように訊いた。
「ハロンドールの、一番北の領主です。四、五年前に移り住んだ——」
「ああ、彼か」
エレスサールは合点したように頷いた。
「野心家の領主と切れ者の執政閣下が夕食を共にするとは……、怖いな。いったい、どんな企てが進行しているのやら」
からかうように言って、ファラミアの顔を覗き込む。
「とんでもない」
ファラミアはきっぱりと否定した。有能だとは思うが、あのような人物と組んで事に当たりたくない。
「しかし、夕食に招いたのだろう?」
主君は首を傾げた。気に入らない人物を館の食卓に招いたのかと、訝しげである。
「野心と自尊心溢れる人間は、適度に持ち上げておいたほうが扱いやすくなりますから。執政館の夕食に招かれたことで、良い気分で領地に帰れると思いますよ」
ファラミアの言葉にエレスサールは瞠目し、軽く首を振って息を吐いた。
「相変わらず怖いな。執政殿は」
ファラミアは心外だという表情をつくる。
「ご近所付き合いというものですよ。彼の領地はイシリアンの隣。何かあったときに無理を聞いてもらうためにも、日頃が大切なのです」
エレスサールは「怖い、怖い」と呟いて首を竦めた。もっとも、その口許は笑っているから、言うほど気にしているわけではあるまい。
「それで、肝心の話はなんだったんだ?」
鹿肉団子の煮込みを空にし、グラスを手にしたエレスサールが訊いた。
「工事費用の無心ですよ」
ファラミアがあっさりと結論を口にすると、エレスサールはやれやれといった感じで苦笑した。
「それはまた身も蓋もない……」
身も蓋もないと言われようと、実際そうなのだから仕方あるまい。
影の山脈の麓で見つかった湧き水を農地に引きたい。しかし、大がかりな工事になるのは必至で、大金が必要。ゆえに、僅かなりとも国庫からの援助を乞いたい。その口添えを執政に——、というのが彼の“相談”だった。
「湧き水か……。アンドゥインかポロス川から引いたほうが良くないか?」
話を聞いた主君がもっともな論を口にした。
「湧き水のほうが近いのだそうです。彼の話を信じれば、ですが」
「将来に渡って畑を賄えるほど豊富ならいいが」
葡萄酒を飲みながら、エレスサールが言った。考えるような口振りだが、彼がこう言うときは心を動かされている証だ。湧き水が豊富なら、援助しても良いと考えているのだ。
「その辺りのことは調べてみませんと……」
ファラミアは慎重に答えた。
「そうだな」
エレスサールは軽く頷き、葡萄酒を飲み干した。ファラミアのグラスも空になったのを見て、瓶を手に取ろうとする。ファラミアは笑顔でそれを押し止め、自分が瓶を取り上げた。
「執政殿の言うとおり、無心には違いないが、彼の言うことにも一理ある。農作物に水は不可欠だ。必要なら水路でも水道橋でも、整えばなるまい」
注がれる深紅色の液体を眺めながら、予測どおりの言葉を主君は口にした。
「では、水路を引く方向で?」
少しばかり不安になって尋ねれば、彼は緩やかに首を振った。
「それは調べてからだ。彼の領地で他に葡萄栽培に適した土地があれば、まずはそっちを耕してもらう。なければ……懐具合と相談だな」
現実的な返事にファラミアは微笑み、頷いた。
「そうですね。まずは調査を進めます」
「ああ、頼む」
穏やかに笑った主君がグラスを傾けた。その笑顔を眺めながら、昨年も、彼とこうして新酒の出来を祝ったことを思い出す。
あのときは城の執務室だった。資料の整理で残っていたら、瓶を提げたエレスサールが訪ねてきた。その後すぐに料理長が酒肴を運んできたのだ。料理長に「付き合わないか」と、声をかけたのはエレスサールだった。畏れ多いと恐縮する料理長を二人で強引に引き留め、一杯だけ付き合ってもらった。
——近い内に、今度はベルファラス辺りの葡萄酒で、城の料理長に付き合ってもらおうか。
そんな企みを思いつく。そうすれば、執政館の料理人への嫉妬もおさまるだろう。
「どうした? ファラミア」
主君の声に、ふと我に返った。
「何か?」
「口許が笑っていた。何か良からぬことでも、考えていたのではないかと思ってね」
エレスサールが微笑しつつも、含みのある眼差しでこちらを見ていた。
「良からぬこととは、ずいぶんなおっしゃりようですね」
幾分、傷ついたふうを装って言うと、主君はそんな態度には騙されないとばかりに、にやりと笑った。
「執政殿の企みは怖いからな」
「企みなどと人聞きの悪い」
非難の響きを込めても、彼は取り合わず笑ったままだ。もっとも、ファラミアも笑っているから、主を責められない。短くない付き合いの中、会話に交じるようになった遊びだ。
「来年もこうして新酒の出来を祝いたいと、そう思っていたのですよ」
たった今そう思っていたわけではないが、偽りない気持ちだった。そのせいか、彼もからかうことなく、穏やかに目を細めた。
「そうだな。来年もこうしてうまい酒が飲めるといい」
「ええ。来年も当たり年を迎えたいと思います」
ファラミアが頷くと、エレスサールは苦笑いを浮かべた。
「来年も当たり年とは……執政殿は欲張りだな」
「ええ。わたしは欲張りなのですよ」
ご存知ありませんでしたか、と微笑むと、彼はまた苦笑いして首を傾げた。
「葡萄だけでなく、陛下の御代を毎年、当たり年にしたいと考えておりますから」
十年の歳月を経て、王が統治する基盤は整った。戦で疲弊した国土も、多くは復興してきている。だが、まだまだこれからだ。これくらいでは満足していられない。自分が唯一と認めた主君の世ならば、更なる繁栄が必要だ。
「それは……難しいな。執政殿に多大なご助力を願わないと」
エレスサールは困惑気味に目を逸らした。会話の先行きが不安なのか、手許でグラスを弄んでいる。
「もちろん、惜しみませんとも。ですが、陛下もよりいっそうのお働きを」
にこりと笑って要求すると、彼はグラスを持ったまま固まってしまった。どれだけコキ使われるんだろう——と、そんなぼやきが聞こえてきそうだ。骨惜しみはしない人だが、行動を制約されることが堪える性分のため、今以上に予定を詰められるのは勘弁というところだろう。
「……お手やわらかに願いたいな」
ようやく、といった感じの呟きが聞こえた。
「ご心配なく、心得ております。——改めて乾杯しましょうか」
「何に?」
「実り多き陛下の治世が続くことに」
「いや、しかし……」
エレスサールが戸惑い口ごもった。約束できないことを軽々しく、任せておけと口にしないのがいいところではあるが、漂泊の半生を過ごした割にハッタリの利かない人だと思う。
「陛下。こういうことは心意気が大切です」
「心意気ね……。執政殿には敵わないな」
彼は小さく笑って、グラスを掲げた。
「では、当たり年を多く迎えられるよう——」
「乾杯」
部屋に澄んだ音が響いた。グラスをゆっくりと傾ける主君を見つめ、ファラミアは胸の中で静かに呟く。
——来る年をみな当たり年に。
そのためにすべてを捧げよう。自身の心はもとより、他者の野心も企みも……、すべてを主の治世のために——。
暖炉の炎を映した赤い酒が、一際鮮やかな色に照り返った。
END