ミズガラシ
季節が春から夏へと移る頃、珍しく激しい雨が降り続いた。こうした天候の異変も冥王の力が及ぼすひずみなのか——そんなことを考えていると、見まわりでエミン・ウィアルを通ってきた若手から、ある斜面で地すべりが起きていたと報告があった。
野伏の村には直接被害のない自然の営みだが、地形の変化は知っておきたい。ハルバラドは人の配置を調整し、留守居役の自分が視察できるように計らった。
——視察なら、他の奴に任せればいいじゃろうに。
——若い奴が頼りないなら、わしらの誰かが付いてくぞ。
留守を頼んだ長老たちが口々に言った。
——自分の目で見ておきたいんですよ。
——そりゃ殊勝な心がけ……と言いたいところじゃが、単に出かけたいだけじゃろう。
長老の一人にズバリと指摘され、ハルバラドは肩をすぼめて苦笑した。
——ま、出かけたくもなるわな。
それが野伏ってもんだ。わかってる、行ってこい——と、快く送り出してもらえる段取りを調えたところへ、たまたま帰村した族長のアラゴルンが同行すると言い出した。
——そんな、お帰りになったばかりではありませんか。
——ゆっくり休まれては……。
長老たちは必死に族長を引き留めようとした。彼らの多くは、裂け谷にいた頃のアラゴルンを知っているという(遠目に眺めるだけだったそうだが)。それゆえ、ひとかどに成長した今のアラゴルンの姿には、「あのお小さかった方がこんなに立派におなりになった」という感慨があるようだ。
そのせいか、“立派な長におなり遊ばした”アラゴルンの姿を見るのが何よりの楽しみになっているらしく、族長が帰る度、皆で取り囲みにかかる。そんな彼らが、帰村したばかりの族長がすぐ出かけてしまう事態を快く思うわけがない。阻止に動くのは当然の流れだった。
とはいっても、一度「こう」と決めたアラゴルンの意思を覆すのは難しい。我が長には年寄りに負けない頑固な面がある。
長を説得できないとなると、長老たちの矛先はハルバラドに向いた。曰く「視察を延期しろ」「いっそ止めてしまえ」と。しかし、そんな彼らの思惑も、
——ハルバラドが視察を取り止めても、わたしは行く。
アラゴルンのひと言で無に帰した。ハルバラドがどうしようと関係なく族長が出かけるとなれば、長老たちに打つ手はない。結局、この村で族長の意向に逆らえる者はいないのだ。長老たちがそろって肩を落とした翌朝、ハルバラドとアラゴルンの二人は村を発った。
◆◇◆◇◆◇◆
「——ここか」
新緑が丘陵地を覆う中、そこだけはぎ取られたように地肌が露出した斜面を見上げて、アラゴルンが言った。
「そのようですね」
ハルバラドは土砂がすべり落ちていった下方を見遣った。二人が立っているのは野伏が歩いてできた道——いや、以前は道だった場所だ。今はすっかり土砂に埋まっている。斜面の下には小さな川が流れている。土砂の末端はそこで止まっているが、流れは堰き止められていないようだ。
「川は埋まっていないようですが」
「そうだな」
アラゴルンも下方を覗き込んだ。
「だが、これ以上崩れないという保障はない。次に崩れれば流れを堰き止めるかもしれない。堰き止めるだけで済めばいいが……」
アラゴルンが気がかりそうに呟いた。流れが堰き止められれば、新たな池か沼が生まれる。それだけならいいが、堰き止めている土砂が崩れることもある。そうなれば大水が下流を襲う。幸い近くに人家はないが、歩きまわっている仲間が巻き込まれる可能性はゼロではない。
「注意するよう言っておきますよ」
長の懸念を払うように、ハルバラドは言った。
「この道も使わないよう言っておいたほうがいいな。また崩れそうだ」
「そうですね」
そう話している間にも、土くれが斜面をすべり落ちていった。
「行こうか。今にも崩れそうだ」
アラゴルンが歩き出す。それに「ええ」と頷いて、後を追おうとしたとき——、
ズッ……。
厭な響きを立てて、ハルバラドの足下が動いた。
「うおっ!」
とっさに地を蹴ったが、崩落からは逃れられなかった。着地した先で土砂に足を取られ、体勢を立て直すことができず、ハルバラドは宙に放り出された。見ている景色がひっくり返ったかと思うと、体に強い衝撃が走り、視界が暗転した。周囲の音が急速に遠ざかっていく中、地鳴りのような音だけがやたらと大きくなり、ゴウという響きに交じって、
「——ハルバラドッ!」
悲痛な叫び声が聞こえた。
◆◇◆◇◆◇◆
冷たいものが顔にかかる感触があった。額や頬にぱしゃぱしゃと水がかけられ、誰かの手が拭っていく。と思っていたら、口の中に指を突っ込まれた。
「……ウゲッ」
指を吐き出しながら目を開けると、視界いっぱいにアラゴルンの顔が飛び込んできた。何やら必死の形相をしている。
「大丈夫か?」
硬い響きの問いかけに頷きながら起き上がると、水の入った革袋を渡された。
「口をすすげ」
革袋を受け取ってのろのろと辺りを見まわす。せせらぎの音が近いと思ったら、川が近くに流れていた。なぜ、川に……と思った瞬間、何があったかを思い出した。
——そうだ。足下が崩れて……。
視界が暗転する直前の、ひっくり返った景色が脳裏をよぎり、ぶるっと肩が震えた。乾いた口の中がざらつく。土砂が口の中に入ったのだろうか。アラゴルンが口に指を突っ込んだのも、土を掻き出すためだろう。
実際には口がざらつく程度で、そんなに土は入っていないが、これは不幸中の幸いだろう。ハルバラドは水を口に含み、ぺっと吐き出した。
「……大丈夫か?」
青灰色の瞳が心配そうに覗き込む。
「ええ、まあ……」
「痛むところはないか?」
問われて、確かめるように首や腕を動かしてみた。
「大丈夫そうです」
「本当か? 斜面を転がり落ちたんだ。あちこちぶつけただろう?」
そう言って、アラゴルンがハルバラドの髪やマントについた土を払い落とす。俯いた顔が心なしか青い。ハルバラドは我が身の迂闊さに腹が立った。長を補佐する立場なのに、心配させてどうするのだ。役立たずにも程がある。
「大丈夫ですよ」
アラゴルンの不安を打ち消けそうとハルバラドは笑った。
「まあ、打ち身はあるでしょうが……」
しゃべりながら膝に力を入れ、立ち上がる。
「ほら、ちゃんと立てます」
心配いらないと手を広げてみせたが、青灰色の瞳から不安の色は消えなかった。
「大丈夫ですよ。泥だらけになったぐらいのものです」
大丈夫と繰り返し、明るい声で笑ってみせる。
「それならいいが……」
ようやく納得の言葉を引き出したが、その声には憂いた響きが残っていた。
——まったく……。
心配性にも程がある。自分のことには無頓着なくせに……。
ハルバラドはそっと息を落とし、自身が転がり落ちてきたであろう斜面を見上げた……はずが、仰いだ視線の先に崩れた山肌はなかった。周囲を見まわせば、下流の岸に堆積した土砂が見えた。その上に続く地肌のむき出しになった丘が、地すべりの起きた斜面だった。
「——族長」
ハルバラドはアラゴルンを振り返った。
「ここまで運んでくださったんですか」
どう滑り落ちようと、こんなに離れたところにたどり着くわけがない。しかも滑落地点より上流だ。川に流されたのなら下流に流れ着く。川上に流れ着くことはない。
「ああ、真下にいたままじゃ危険過ぎるからな。またいつ崩れてくるかわからない」
ぼそりとアラゴルンが言った。
「ずいぶんご面倒をおかけしたようで……」
ドジを踏んだ部下のために斜面を下り、そいつを土砂から掘り出して運んだとなれば、相当手間がかかっただろう。けれど、お人好しの長は軽く首を振った。
「別に面倒とは思ってない。幸い、崩れた土砂の量が少なかった。だからすぐ見つかった。でなかったら、捜し出せたかどうか……」
フーッと大きく息を吐く。
「よかった」
アラゴルンの腕が伸び、ハルバラドの首にまわった。
「本当によかった。無事で……」
がっちりと抱き締められる。その力の強さで、ハルバラドはこの人にどれだけ心配させたかを悟った。
「……ご心配をおかけしました」
そう言うのがやっとで、あとは目の脇で揺れている黒髪をくしゃりと撫でた。
「いいさ」
アラゴルンが顔を上げた。
「いつもお前に心配をかけている。たまにはわたしが心配するのも悪くない」
青灰色の目が細められる。
「本当に“たまに”にして欲しいが……」
語尾にくすっとした息が交じり、白い歯が覗いた。ああ、やっと笑ったと思った。
「ええ、“たまに”させていただきます」
ハルバラドも笑って答えた。
「そうしてくれ」
アラゴルンの手がハルバラドの頬を包む。左頬に手袋の感触があって、それが彼に触れられている確かな証のようでうれしかった。眼前できれいな笑みが広る。見慣れたはずの笑顔だが、やはり見惚れてしまう。けれど、幸福感に浸る時間はなかった。ハルバラドの頬を包んでいたアラゴルンの手はさっと離れ、彼はくるりと踵を返した。
「さて、行こうか」
もう少し余韻に浸っていたかったが、地滑りのあった近くでの長居は危険だ。ハルバラドはそばに転がっていた荷物——おそらくアラゴルンが運んでくれたのだろう——を肩に引っかけた。空を見上げれば、太陽の位置が西へ傾きはじめている。
「族長——」
先を行く背に声をかける。
「ずいぶん時間を無駄にしたでしょう」
「いや——」
アラゴルンは足を止めて振り返った。
「無駄とは言えないさ。見てみろ」
言われて、視線を追うと、水辺に明るい緑色が繁っているのが見えた。
「ミズガラシだ。たくさんある」
食用となる野草だ。爽やかな辛みと芳香がある。繁殖力が強く、水辺のあちらこちらで目にする。特に珍しい植物ではない。が、野を駆ける身にとって、食用可能な野草の自生地は知っておいて損のない情報だった。
「少し摘んでいこう。兎か山鳩が獲れるといいな」
青々とした草を折り取り、アラゴルンが笑った。ミズガラシは肉とよく合う。
「わたしが獲りましょう。時間を食ったお詫びに」
「それは頼もしい」
川の水に浸した布で摘んだミズガラシの茎を巻きながら、アラゴルンは言った。
「夕飯がこれのサラダだけ、なんてことにならないよう頼むぞ」
「もちろんです」
顔を見合わせ二人で笑う。折り取られたミズガラシの茎から独特の香気が漂ってきた。しばらくの間、ミズガラシの香りを嗅ぐ度、今日のことを思い出すだろう。青灰色の瞳の人と過ごした貴重な時間を——。
END