Winter song
暗くなった窓の外、はらりはらりと白いものが幾つか横切った。ファラミアは書類を繰っていた手を止め、窓を開けた。予想どおり、幾つもの白い破片が舞い落ちてきた。
「降ってきましたな」
軽いノックとともに、穏やかな声がかかった。振り返ると、書類箱を手にした壮年の男が立っていた。
「これはこれは、将軍閣下が使い走りとは」
ファラミアは窓を閉め、書類箱を受け取った。
「なに、副官と書記を夜番の隊へ走らせたら、残っているのはわたしだけになった——それだけのことですよ」
男は屈託なく笑った。
「雪に警戒するよう申し付けました。積もらずとも、主道が凍れば問題ですからな」
「さすが、手回しがいい」
白の塔の大将の地位は空いたままだが、事実上、彼がこの都を守護する将となっていた。温厚な人物だが、かの戦いを生き抜いた剛の者でもある。
「いいえ。昨年、怪我人を出しましたからな」
昨年、珍しく雪が積もった折り、登城した領主が凍りついた坂道で足を滑らせ、手首の骨を折った。彼はそのとき生まれて初めて雪を見た、ゴンドールでも南の地の出身だった。
「しかし、あの件は貴殿の責任ではないだろう」
「まあ、そうですが……、目の前で起きた事故でしたので」
実直な将軍は苦笑い浮かべたが、不意にその笑みが穏やかなものに変わった。
「けれど、あのとき何より驚いたのは、近くで除雪を手伝っていた男が陛下だったことですよ」
それを聞いて、ファラミアは苦笑した。負傷者を目の前にして隠れてはいられないと、正体を露にした生真面目な主君には、その後、側近たちからの説教が待っていた。
——わたしは雪に慣れているから、少しは役に立つだろうと思って……。
国王陛下は首をすぼめて傾げ、上目遣いでぼそりとのたまってくださった。そのお心は大変尊いものだが、それで本当に兵士や街の者に交じって雪かきに励まれては、仕えるほうはたまったものではない。
「今夜は……、おとなしくなさっていればいいのだが……」
ファラミアは窓の外、はらはらと音もなく降る白いものに目を遣った。
「さて、どうでしょうな」
将軍が眉をひょいと上げて口許を緩めた。
「困ったお方だ」
ファラミアがため息を吐くと、彼は同情の笑みを浮かべて情報を教えてくれた。
「先程会った近衛隊長から、今のところ、お部屋においでだと聞きましたぞ」
「ありがとう。後でお訪ねしてみよう」
将軍は微笑して頷き、退出していった。
◆◇◆◇◆◇◆
雪の降る夜は回廊も冷える。マントを羽織って王の執務室を訪ねたファラミアは、立哨の近衛兵から主の在室を聞き、ほっと胸を撫で下ろした。しかし、部屋に入った途端、その安堵感は消し飛んだ。
部屋に風が吹き込んでいるのだ。主のいない机で、燭の灯が頼りなげに揺れている。眉を顰めて風の流れを追うと、露台に通じる扉が僅かに開いていた。冷たい風に乗って、微かな歌声が聞こえてくる。
「陛下?」
露台の扉を開けると、雪の舞う中、パイプ片手に手すりに腰掛けているエレスサールの姿があった。マントも羽織らず、足下にいたっては裸足という寒々しい姿で——。
「風邪を召します。中へお入りください」
思わず声がきつくなる。けれど、エレスサールは気にした様子もなく、白い息を吐きながらのんびりと笑った。
「大丈夫だよ。これくらい。寒いのは平気なんだ」
彼が北方の出身で、自分たちより寒さに強いのは知っている。だが、これは度が過ぎているだろう。
「万が一ということがございます。中へお入りを」
譲らない姿勢を見せると、主君はいつもの癖を披露してくださった。小首を傾げて上目遣いで人を見るという、本人にとっては無意識の仕草だ。小さな子供が「だめ?」とねだるのと大差ないのだが、その効果たるや、目にした多くの者が心をぐらつかせるという、凄まじい威力があった。
しかし、これであっさりぐらついていては、この王の執政は務まらない。自分が“多くの者”と同じでなかったことに感謝しながら、ファラミアは主に向かって手を差し出した。
「さあ、どうか中へ」
けれど、妙なところで頑な主君は、それでおとなしく部屋に入ってはくれなかった。ファラミアの手を避けるようにじりじりと後退り、再び首を傾げた。
「ファラミア、もう少しだけ……」
今度は潤んだ瞳に、哀しげな声まで付いてきた。いささか計算が入っているのかもしれない。ファラミアは舌打ちしそうになった。老獪さを合わせ持つ駄々は始末に負えない。
「そんなお顔とお声をなさっても駄目です」
ぐらつく心を叱咤しながら、きっぱり言うと、エレスサールは苦笑した。
「そんな顔と声って……」
いったいどんな顔と声だと言うのだ、とでも言いたげな笑みに、ファラミアはにっこりと笑って答えた。
「そうですね。寝台でご披露していただければ、歓迎いたしますよ。少しと言わず、存分に応えさせていただきます」
エレスサールの口から深いため息が漏れた。白い息が露台を漂う。
「……気高く聡明だと評判の執政殿から、そんな品のない言葉が出ると知ったら、民は嘆くだろうな」
「世評が良いのは喜ばしいことですが、そのとおりに生きなければならぬ義理はありますまい」
しらっと答えると、エレスサールはやれやれといったふうに笑い、「わかったよ」とファラミアの手を取った。その冷えきった手に、ぴくりと片眉が上がる。何が寒さに慣れている、平気なものかと。
「何か温かなものでも運ばせ……」
そう言いながらエレスサールを振り返ると、彼はひたすら降りしきる雪を眺めていた。その名残惜しそうな表情といったら……。
——まったく……。
ファラミアはひっそりとため息を吐いた。
——本当にタチの悪い。
そして、自分も甘い。
「陛下」
ファラミアは主君の冷えた身体を、自身のマントに包み込んだ。
「ファラミア……?」
腕の中から不思議そうな声が上がる。
「こうしていれば暖かいでしょう」
「それはそうだが……」
「裸足というのはいただけませんが、もう少しだけなら良しとしましょう」
「……ありがとう」
意図を悟ったのだろう、耳許で礼を囁くエレスサールの声が聞こえた。その黒髪の雪を払いながら、ファラミアはふと彼が歌っていたことを思い出した。
「先程、歌ってらっしゃったのは、北の地の歌ですか」
「ああ」
「聴かせていただけませんか」
「この体勢でか?」
エレスサールがおかしそうにくすくすと笑った。歌いにくいということらしい。
「では、こうしましょう」
ファラミアは彼の身体を反転させ、並んで手すりにもたれた。
「本来は女性の歌うものらしいが……」
そう前置いて、エレスサールはゆったりとした旋律を歌い始めた。出かけた切り帰らぬ人を想う詩が、もの悲しい調べに乗って、雪の空へ消えていく。
冬も春も、次の夏も……そうして一年が過ぎ去っても、ずっと待っている。そんな——女なのだろう、たぶん——身の上を歌った歌だった。生あるうちに会えぬなら、安らぎの世界で会いましょう、愛しい人——そう締めくくり、歌は終わった。
「彼女は……会えたのでしょうか、恋人に」
「さあ、歌ではわからないが……」
エレスサールは静かに目を伏せ、やさしい声で言った。
「きっと、会えたさ」
「そうですね。——もう一曲お願いしても?」
おや、とエレスサールは怪訝な顔をした。それはそうだろう。さっきまで執拗に部屋へ入れと勧めていた男が、真逆のことを言うのだから。しかし、彼はそのことに言及せず、ただにこりと笑った。
「では、執政閣下のご所望に応えて、もう一曲——」
エレスサールの歌声が再び露台に流れた。今宵に相応しく、雪降る夜の情景を歌うものだった。穏やかな調べが雪の夜空に吸い込まれていく。
最愛の主君が自分だけのために歌ってくれる贅沢なひととき——もう少しだけこうしていたいのは、果たしてどちらだろう……。甘く掠れた歌声を間近に聴きながら、ファラミアはうっとりと目を閉じた。
END