陽光の抱擁
白き都に眩しい陽射しが降り注ぐ。季節は春から夏へと変わろうとしていた。今頃、ホビット庄では色とりどりの花が開いているだろう。故郷を思いながら、フロド・バギンズは塔のそびえる空を見上げた。
「フロドー。今日のお菓子はサムの力作だよぉ!」
露台の下から明るい声が呼んだ。ピピンだ。フロドは手すりから少し身を乗り出し、手を振って応えた。
「もう少しで支度ができるから、待っててくれ」
茶器を手にしたメリーが叫ぶ。フロドが笑って頷くと、二人は顔を見合わせ、回廊から中庭へ出ていった。四阿へ向かったのだろう。小さな姿はすぐに樹木の陰に隠れ、見えなくなった。
指輪棄却の旅を終えたホビットたちは、ゴンドールの王——旅の仲間でもあったアラゴルン——の客人として、ミナス・ティリスの王宮で時を過ごしている。
階層を為す美しい石造りの都。最上層に広がる壮麗な王宮。威容を誇る白き塔。
何もかもがホビット庄と違った。ホビットが暮らすのは、緑あふれる丘に穴を掘り進めて整えた住居だ。畑を耕し、羊や豚や鶏を飼い、庭に四季折々の花を育て、秋には栗や茸など森の恵みを享受する。そうやって土に馴染んだ暮らしをしてきた。それはこれからも変わらないだろう。
この都は確かに美しい。荘厳で、陽の光に燦然と輝く姿は息を呑むほどだ。けれど、住みたいとは思わなかった。土や草の香りとともに育った自分は、ずっとここでは暮らせない。
——あの人はどうなんだろう。
フロドの脳裏にすらりとした“大きい人”の姿がよぎった。これまでの人生の大半を野山で過ごし、草や木のことは庭師であるサムより詳しいぐらいの彼は——。
「フロド」
物思いに耽っていると、背後から穏やかな声がかかった。少し掠れた温かな声。
振り返ると思ったとおり、やわらかな笑みを浮かべた人が立っていた。ゴンドールの王、エレスサール。共に旅をしたアラゴルン、馳夫さんだ。
「やあ、具合はどうだい?」
彼はごく自然に屈み、フロドの前に膝を付いた。
「大丈夫ですよ」
もう体の調子はすっかりいい。サムに言わせると、まだ痩せていることになるらしいが、これは徐々に戻るだろう。
「今朝はパンをたくさん食べて、給仕の人を驚かせてしまいました」
フロドは笑い、指を失った手をそっと後ろに隠した。彼の顔を曇らせないために。
「会う度に国王陛下を跪かせていたら、執政殿に怒られますね」
冗談めかして言うと、彼はいたずらっぽく片目を瞑った。
「相手がフロド・バギンズなら、ファラミアも何も言わないさ」
「そうならいいですけど……」
フロドは声を潜めて厳しい表情をつくり、しかつめらしく言ってみた。
「守るもののためなら、容赦しないお人とお見受けしましたから」
この国で第二位の顕職を務めることになったあの彼が、今、守るものといえば、フロドの目の前にいる人だろう。新生ゴンドールの象徴、中興王。
その王自身は、そんなことはないだろうと言いたげに首を傾げたが、やがて府に落ちた顔で「ああ、そうか」と頷いた。
「君とサムは、イシリアンの森でファラミアたちに捕まったんだったね。彼から話を聞いたよ。切迫していたこともあって、余裕のない対応をしてしまったと……。すまないことをしたと言っていた。許してやって……」
「あ、待ってください」
謝罪の言葉を持ち出されてフロドは慌てた。
「責めているわけじゃないんです。あの状況では仕方なかったと……それは僕らもわかってますから。最後は僕たちを信じて解放してくれましたから、感謝しています。部下の人が命令に背いたら死刑になると言ったけれど、それでも構わないと……。ただ、別れ際、ゴラム……スメアゴルの首をこう——」
フロドはぱっと手を開いて、
「ぐゎしっと……」
素早く物をつかむように握った。
「ものすごい勢いで、片手でつかんで締め上げたんですよ。僕たち、サムと二人で、剣まで抜いてやっと取り押さえたんです。そんな相手を手ひとつでつかんだんですから、体の大きさの違いを考えてもすごいな、と」
「片手で?」
青灰色の目がしばたたき、大きく見開かれた。
「ええ。右手だけで」
「それは……すごいな」
茫然とした呟きが、アラゴルンの口から漏れる。
「わたしなど、噛みつかれたというのに……」
「それで、キリス・ウンゴルへ連れていくのは罠じゃないかと……、まあ、僕たちの身を案じてくれたんですけど、容赦がないなと……」
「……そうだな、確かに容赦がないが——」
アラゴルンは思案するように呟いたが、すぐに表情を緩めた。
「やはり、それだけ必死だったんだろう。ボロミアを喪って軍をまとめる立場であったのだし、当時の情勢を考えれば無理もない。彼の取った行動は止む得ないものだと思う。だから、あまり悪く思わないでやってくれ」
「もちろん」
フロドは力強く答えた。ああいったことがあったからといって、ファラミアを嫌ってはいない。
「あのときも、僕たちの道行きを心配してくれてのことですから、悪くは思ってません」
ただ、容赦のない人柄だと感じた自分の直感は正しいと思う。あのときはゴンドールの、そして中つ国の行く末を思っての行動だったのだろうが、今は何よりアラゴルンの身の上に関して、そうした容赦のなさが表れるのではないだろうか。
自分の大切な人——それも主が、ある特定の者に会う度、膝を付いていたら、あまり良い気持ちはしないだろう。たとえ、それが指輪を運んだ者だったとしても。その懸念を伝えたら、目の前の人はなんと言うだろう。
ファラミアはそんな料簡の狭い男ではない——だろうか。
確かに料簡は狭くないだろう。自分たちホビット四人の王宮滞在もあっさり頷いてくれたし、ピピンがお茶の席へ誘いに行くと——手が空いていればだが——快く招待に応じてくれる。驕ったところのない穏やかな人柄だ。けれど……。
「——陛下」
落ち着いた声とともに、やわらかな金の髪の“大きい人”が戸口に現れた。
「お話し中のところ失礼いたします」
ゆったりとした足取りで近づいてくる。彼が現執政のファラミア公だ。
「どうした?」
アラゴルンが立ち上がる。
「侍従が探しておりましたよ。衣装係が待ちぼうけになっていると」
傍に来た執政の顔には、少々含むものがあるような笑みが浮かんでいた。しかし、そんな笑みを向けられた相手は、嫌みも揶揄も通じていないのか、きょとんと首を傾けるだけだった。
「衣装?」
「衣装を合わせるご予定でしたでしょう」
やはり忘れているとでも言いたげに、賢明なる官吏は笑った。
「そうだったか……?」
考え込むようにアラゴルンは眉を寄せた。物覚えの良い人だけに「うっかり忘れていた」なんて事態は起こりそうにないのだが、時にスコンと抜かしてしまうことがあるらしい。多忙さゆえのことと誰もが思うが、実は違うというのが切れ者の執政が出した答えだった。
——どうやら、ご自分が内心で不要と判断なさったことは、予定から外してしまうようです。
アラゴルンの前身は単独行の多い野伏だ。大まかな予定は決まっていても、あとは状況に応じて要・不要を判断し、予定を変えてきた、その癖が残っているのではないか——と、まあ、そういう話らしい。
「いや……しかし、衣装合わせは先日終わったはずだが」
考え込んでいたアラゴルンが、やはり違うだろうと言いたげに口を開いた。
「あれは式典用でございます」
主の不審を執政は言葉ひとつで退ける。
「本日のは宴へお出ましになるときのご衣装ですよ」
「……たくさんあるんだな」
思わずといったふうに、アラゴルンの口からため息が漏れた。
「それはもちろん」
「式典用と同じもので済ます、というわけにはいかないのか?」
「ええ、そうは参りません」
口許を綻ばせながら、執政はきっぱりと言った。
「係が待っておりますから、お早く願います」
「わかった。——じゃあ、フロド。また」
アラゴルンはフロドの肩に軽く手を置いてから踵を返した。
「はい」
それを笑って見送る。本当はもっと話していたかったけれど仕方がない。
「すまない、フロド。話し相手をお借りするよ」
執政がにこやかに言葉を添える。
「どうぞ」
ファラミアは軽く頷いてアラゴルンの後を追っていったが、戸口で一瞬、足を止め、こちらを振り返った。その顔に浮かんだのは、先程までと同じにこやかな笑みだった。けれど——、
眼差しに、僅かながら絡みつくものを感じた。
嫉妬や敵愾心ほど烈しくない、僅差の優位を得た表情。ひょっとしたら、彼自身、自覚していないかもしれない、穏やかで曖昧な優越の感情。
——仕方ないか。
フロドは小さく苦笑し、肩をすぼめた。彼の気持ちはわかる。あの人の信頼を得て傍らに控えられるのなら、それは誇る歓びだろう。
できれば、自分もそばにいたいと、いてほしいと思った。偉大なる王としてではなく、野を駆けるただの野伏として。一緒に森を歩き、袋小路屋敷のお茶に招いて、夜はエールを楽しむ。元どおりの生活に彼が加われば、どんなに楽しいだろう。
でも、それをアラゴルンは望んでいない。彼は玉座に昇ることを選んだ。ならば、自分は彼の選択を尊重しよう。かつて、彼が自分の意を汲み取って、送り出してくれたように。
——モルドールの火口まで一緒に行きたかった。
指輪ごと包んでくれた大きな手の温もりがよみがえる。
——そう一緒に……。
けれど、これは決して口にしてはならない望みだ。なぜなら、
——彼が大切な人だから。
だから黙ってこの地を去ろう。
「フロドォ、支度ができたよぉ」
庭から弾んだ声が呼ぶ。
「今、行くよ」
フロドは手を振り、庭へ下りるため、部屋を出た。戸口でファラミアのように振り返ってみる。つい今まで立っていた露台には、輝きを増した白い光が溢れていた。
END