読み聞かせ
白の山脈の峰が白く染まり出す季節。日に日に寒さが増していくが、それでも晴れた日の午後には暖かな陽射しが降り注ぐ。そんな陽射しに目を細め、ゴンドールの執政ファラミアは城の回廊を歩いていた。
中庭の木々はすっかり葉を落としている。おかげで見通しがいい。冬は隠れる場所が減る——と、盗人のような感想を述べたのは、ファラミアの主君エレスサールだった。
ゴンドールの王には脱走癖がある——とは、城に仕える者の間では暗黙の了解……になってしまった。エレスサールは戴冠するまで野伏だった。野を駆ける半生を過ごしてきた彼は、王になっても身軽に動く習慣が抜けなかった。
即位以降、なんとかその癖を改めてもらえないか、いろいろ手を尽くしてきたが、成果はさっぱり上がっていない。数十年経た今でも、気づけば執務室から姿が消えていることしばしばである。
そんな困った癖を持つエレスサールだが、賢王には違いなく、彼が位に即いて以降、ゴンドールとアルノールの二国には善政が敷かれていた。それに脱走癖も、約束をすっぽかすような事態は引き起こしていない。今も彼の執務室を訪ねる途中だが、空振りすることはないだろう。
これから会う主の顔を思い浮かべて歩いていたファラミアだったが、庭の片隅に小さな姿を捉えて足を止めた。
「どうなさいました? ファラミア様」
随伴の書記が訝しげな顔をする。
「今そこに……」
言いながら、ファラミアは庭に足を踏み出した。灌木の植え込みを回り込めば——、
「エルダリオン様」
そこにいたのは五歳になる王子だった。エレスサールと夕星の王妃アルウェンの子息であり、第一位の王位継承者だ。
「どうなさったのです、こんなところで」
王子が城にいるのは当たり前だが、彼の生活の場は後宮である。政務の場とは隔てられており、特別な用が無い限り、小さな王子が後宮から出ることはない。しかもエルダリオン一人切りである。世話係はどうしたのかと辺りを見まわしたが、誰の姿も見えなかった。
「お一人ですか?」
尋ねると、エルダリオンは頷いた。なぜ一人なのか。
——やはり父と子、血は争えないのか……。
脳裏に脱走癖の抜けない主君の姿がよぎった。が、今はそんなことを考えている場合ではない。小さな王子は胸に何やら厚みのある四角い物——どうやら本のようだ——を抱え、歳に似合わぬ思い詰めた顔をしている。
「どうなさったのです?」
ファラミアは腰を落とし、目の高さを合わせて問いかけながら、王子に向かって手を伸ばした。しかし、ファラミアの手が届く前に、エルダリオンはサッと身を翻し、回廊に向かって駆け出した。だが、小さな子供が大きな物を抱えたまま走るのは危険である。
「エルダリオンさ……」
ファラミアが止める間もなく、王子は庭と回廊の段差につまずき、べちゃりと倒れた。
「大丈夫ですか」
慌てて駆け寄る。エルダリオンは気丈にも泣かずに顔を上げた。
「お怪我は……」
手を取って起こせば、額が赤く腫れていた。手にも擦り傷ができている。けれど、王子は傷の痛みなど感じていないように、落とした本を拾い、しっかりと胸に抱え直した。余程大事な本らしい。
「傷の手当てをしないといけませんね」
王子の服の埃を払いながらファラミアは言った。
「ちょうど陛下をお伺いすることろでしたから、一緒に参りましょう」
「父上のところ?」
エルダリオンがパッと顔を上げた。さっきまで唇を引き結び、硬い表情をしていたが、今その目は期待に輝いている。
「ええ、そうですよ」
ファラミアはエルダリオンに手を差し伸べ、抱き上げようとした。しかし、王子が抱えている本が邪魔である。随伴の書記に持ってもらうことにしよう。
「エルダリオン様、本はこちらで預かりましょう」
だが、ファラミアが本に手を伸ばした途端、
「だめ」
エルダリオンは本を抱える腕に力を込め、後じさった。
「ですが……、重いでしょう?」
「おもくない」
エルダリオンはブンと首を横に振ると、“絶対に渡さない”という決意を示すように、厚くて大きな本を小さな胸にぎゅっと抱き締めた。
「これは父上とよむんだ。だからだめ」
高らかな宣言を聞いて、ファラミアは小さな王子が脱走した目的を知った。
◆◇◆◇◆◇◆
「エルダリオン……、どうしたんだ、お前」
ファラミアに抱えられた状態で執務室に現れた我が子を目にして、エレスサールはぽかんと口を開けた。滅多に物事に動じない王を驚かせるという偉業を成し遂げた小さな王子は、床に足が付くや、「父上!」と駆け出した。茫然としている王に、抱えた本ごと(結局、王子は本を手放さず、ファラミアが本ごと抱いてきた)体当たりするように抱きつく。
「お前……本当にどうしたんだ。額が赤く腫れてるぞ」
腰をかがめて我が子を抱きとめた王は、その額にできた真新しい痣を見て目を見張った。驚きと困惑が入りまじった表情で、そっと王子の額に触れる。しかし、小さな王子は自身の額の痣も父王の胸中も気にせず、「父上、これ」と抱えてきた本を押し付けるように差し出した。
「これって……本がどうかしたのか?」
ますます訳がわからないといった顔で、エレスサールは首を傾げた。そんな父親の様子を不満に思ったのか、エルダリオンは抗議するように強い口調で言った。
「いっしょによむって、やくそくした」
「……ああ、そうだったな。しかし、なんでここに……」
本を読む約束には頷いたエレスサールだったが、それとこの場にエルダリオンがいることとがどう結びつくのか、測りかねる様子で黙り込んでしまった。主君の謎解きを助けるべく、ファラミアは口を開いた。
「どうやら、その本を陛下に読んで欲しいと後宮を出てらっしゃったようです」
青灰色の眼差しがファラミア、エルダリオン、そして胸元に押し付けられた本の間を二、三度往復した。やがて、王は呻くように言った。
「一人で……か?」
「おそらくは……。わたしも詳しいことは存じません。お一人で回廊にいらっしゃるのを見かけただけですから」
ファラミアはエルダリオンを見つけた状況を説明し、王子発見の報を伝えるよう、後宮へ使いを出したことを付け加えた。
後宮はちょっとした騒ぎになっているだろう。夕星の王妃はエルフ出身のためか、人の子と感覚が違い、何事もおっとりと構えている。第一王位継承者である我が子の姿が少々見えなくても「隠れんぼでもしているのかしら」と微笑んでいそうだが、女官長や世話係は青くなっているに違いない。見つかったと聞けば落ち着くだろう。
「しばらくすれば返事があるでしょう」
「そうか。世話をかけたな。すまない」
ようやく安堵の表情を浮かべた王に、「父上、本よも!」と甲高い声が要求した。
◆◇◆◇◆◇◆
「あるところに小さな女の子が住んでいました」
煖炉の前から、深みのあるやさしい声が聞こえてくる。エレスサールがエルダリオンに本を読んでいるのだ。 小さな脱走者は傷の手当ての後、望みどおり父親に本を読ませることに成功した。ただし、以後は黙って一人で後宮を出ないという条件付きだ。王子は「わかった」と元気よく答えていたが、果たして本当にわかったのかは謎である。
「その女の子にはお母さんがいませんでした——」
昔話によくある設定だ。ファラミアも子供の頃、似た話を聞いた。もっとも、ファラミアに読み聞かせてくれたのは父親ではなく、守り役だった。
ちなみに、ファラミア自身が息子に対してどうだったかと言えば、エルボロンに読み聞かせたことはある。僅かな回数だったことは否めないが。
——この手の話はだいたい“継母がやってくる”のだったか。
遠い記憶を掘り起こしながら、聞くともなしに聞いていると、不意に幼い声が割り込んできた。
「どうしてお母さんがいないの?」
「ん? う〜ん……」
素朴な問いかけにエレスサールが唸った。ファラミアが訊かれても、言葉に詰まっただろう。“お母さんがいない”という昔話のくだりに「どうして」なんて訊く子供がいるとは、寡聞にして今まで聞いたことがない。
「そうだなぁ、病気か事故で亡くなったんだろう、たぶん」
考えるようにエレスサールが言った。子供の問いに「そういう話だ」と切り捨てず、大真面目に答えるあたりが彼らしい。
「かわいそう……」
エルダリオンが同情するように呟く。それに「そうだな」と同意し、エレスサールは話の続きを読み出した。
「やがて、お父さんは新しいお母さんを迎えました。女の子の家には、新しいお母さんと一緒に、お姉さんも二人やってきました」
そこでページをめくる音が入った。
「父上も……」
エレスサールが次のページを読み出す前に、再びエルダリオンが何事か問いかける声を発した。
「ん?」
「父上も、母上がなくなったら、あたらしい母上をむかえるの?」
ぎょっとさせられる質問だった。書類を整理していたファラミアも思わず手を止めて、主君父子二人をまじまじと見つめてしまった。質問を受けた本人はファラミアよりも衝撃が大きかっただろう。瞠目して我が子を凝視している。
「お前ね……」と呆れた声を発し、しばし固まっていたエレスサールだったが、やがて思案顔で口を開いた。
「もしそうなったら、お前は新しい母上が欲しいか? エルダリオン」
エルダリオンの問いが問いなら、エレスサールの返しも返しである。子供に尋ねることではない。青い目をしばたたかせてエレスサールの顔を見ていたエルダリオンだったが、父王の態度から幼いながらも何かまずいことを訊いたと感じたらしく、不安げに顔を曇らせた。
「どうだ? エルダリオン」
父親に答えを促された王子は俯くと首を小さく振った。
「……ほしくない」
「そうか。わたしもお前と一緒だ。そんなことは考えられない。第一、今アルウェンは元気でいるんだ。“亡くなったら”なんて言うもんじゃない。いいな」
小さな王子の肩を軽く叩きながら、諭すようにエレスサールが言った。
「うん、わかった」
こくりと頷いた王子の頭を撫でると、エレスサールは続きを読みはじめた。
「新しいお母さんと二人のお姉さんは——」
ファラミアもほっと息を吐き、整理していた書類をまとめた。それを文箱に入れ、穏やかな朗読の声を聞きながら、執務室を出た。控えの間で待機していた書記に文箱を渡し、彼を伴って歩き出す。
——それにしても……。
文章ごとに王子から質問が入っていた主君の読み聞かせを思い、ファラミアはひっそりと笑みを浮かべた。あれでは読み終わるまで、ずいぶん時間がかかるだろう。
——父上と読む、か。
エルダリオンが言っていたことを、ファラミアは思い出した。王子は「父上によんでもらう」とは言わず、「父上とよむ」と言った。なるほど、確かに「父上“と”読む」である。
——夕方までには読み終わっているだろうか。
ファラミアは書記の手にある文箱を一瞥し、王の執務室を再訪する時間を考えた。
◆◇◆◇◆◇◆
日の暮れた後、ファラミアは再び国王の執務室を訪ねた。王子の姿はなく、エレスサールは長椅子にその身を横たえていた。と言っても、眠っていたわけではなさそうで、ファラミアを見ると軽く手を挙げた。執務机に目を遣れば、処理済みの書類が積んである。昼間、小さな乱入者によって中断した遅れは、既に取り戻したようだ。
「エルダリオン様はお帰りになったようですね」
ファラミアが声をかけると、エレスサールは「ああ」と答え、上体を起こした。
「読み聞かせているうちに眠ってしまって、迎えにきた侍従が抱えて運んでいった」
身体の筋を伸ばすように手を組んだ腕を頭上にぐいとあげ、「人騒がせな息子だ」とエレスサールは苦笑をこぼした。
「あなたにも世話をかけたな。見つけてくれてありがとう」
「偶然ですよ」
主君の謝意にファラミアは微笑して答えた。
「わたしも驚かされたよ」
そう言って、エレスサールは立ち上がった。その足が壁際の戸棚へ向かう。
「『さすが陛下の御子であらせられる』とも思いましたが」
ファラミアが付け加えると、戸棚を開けていたエレスサールが振り返った。
「あなたの嫌みの種がひとつ増えたわけか」
やれやれと肩をすぼめる。
「それにしても——」
戸棚から火酒の瓶と杯を取り出したエレスサールは軽く首を振って言った。
「本を読んで欲しいだけで出てくるとは、子供は思い切ったことをするな」
確かに思い切った行動だ。エルダリオンも幼いなりに一大決心をしたであろう。それだけ父王に懐き、慕っているということでもある。
後宮の女官たちの言によれば、実際、エルダリオンはエレスサールのことを「大好き」だと言っているらしい。好きだからそばにいたいという気持ちは、わからないでもない。もっとも、ファラミアが抱く感情は、エルダリオンの親を慕う情とは程遠い劣情だが。
「殿下のお気持ちも少しわかる気はいたします」
「ほう。やはり子育ての経験があると違うな」
エレスサールが感心したように言った。例によって、ファラミアの言葉の裏にある意味をまったく感知していないらしい。
「ああいう突飛な行動を取る心理がわかるとは……」
火酒と杯をテーブルに置き、ファラミアに座るよう目顔で促しながら、エレスサールは自嘲めいた微苦笑を漏らした。
「執政殿に比べたら、わたしは父親としてまだまだ未熟だな」
陛下の行動も時に突飛でございます——とは言わず、「そういう意味ではございませんよ」と、主君の勘違いをやんわり否定しながら、ファラミアは長椅子に腰を下ろした。
「わたしも陛下が読んでくださるなら、何をおいても優先したいと思いますから」
「わたしが読まなくても、あなたは自分で読めるだろう」
エレスサールは不可解そうに小さく首を傾げた。
「確か、クウェンヤも読めるのではなかったか?」
主の指摘どおり、ファラミアは西方語だけでなく、エルフの言葉であるシンダリンやクウェンヤもある程度読むことができる。だが、要点はそこではない。
「陛下のお声で読み上げていただく点が重要なのです」
ファラミアは外せない要点をあげた。
「わたしの声で?」
「はい」
「なんだかよくわからないが……」
言葉どおり、エレスサールはさっぱり意味がわからないといった様子で首を傾げたが、
「あなたがそんなに望むなら、朗読ぐらい構わないが」
わからないこそなのだろう、軽く承諾の言葉を口にした。
「本当に聞きたいのか?」
訝しげに念押す主君の問いに、「はい」と答えたファラミアの頭には、早くも朗読候補の題名が並びはじめた。幾つもの夜を楽しめそうである。芳香を放つ火酒の杯を前にして、ファラミアの唇は緩い弧を描いた。
END