祝典の憂鬱
普段は白の木を守る衛兵が立ち、どこか物々しさが漂う広場に、今日は多くの人々が集まっていた。彼らの王を祝うためである。今日はゴンドールの王エレスサールの誕生日であった。
広場の正面の扉が開き、礼装を纏った王が現れた。羽根を象った銀の冠が、艶やかな黒髪と穏やかな青い瞳によく映える。その凛とした姿に、城塞を埋めつくした人々の口からため息が漏れ、ついで歓声が上がった。祝いの言葉を叫ぶ声があちらこちらから聞こえ、拍手が鳴り響いた。
王の傍らに立つ白の塔の大将ボロミアは広場の光景を眺め、満足そうに微笑んだ。敬愛する主君が民に愛されているのはうれしいものだ。
エレスサール——真名はアラゴルンという——はエレンディルの末裔だが、前身は野伏の長であり、指輪戦争の終盤、名乗りを上げるまでゴンドールでは無名だった。ペレンノールの戦いでミナス・ティリスの陥落を防ぎ、黒門前では軍を率い戦った。その後、人々に認められて戴冠した——が、実際に王として受け入れられていくかはまた別問題だ。戴冠後に人心が離れることもある。
ボロミアはアラゴルンの能力に信頼を置いていたが、彼自身は常に“自分は国にとって最善を為しているか、民の声を聞けているか”と気を配っていたように思う。そうしていなければ、善き王で在り続けることはできないとでも言うように。
だが、そんな彼の心配も、この日に集う人々を目にすれば吹き飛ぶだろう。彼らは強制されて来るのではない。自らの意思で城塞までやって来るのだ。
ほとんどはミナス・ティリスの住人だろうが、中には遠方から足を運んでくる者もいると耳にした。王の生まれた日を祝うために、闇を払った英雄が生まれた日を祝うために、そして——、
彼がゴンドールの王であることを喜び、彼の御世が平らかであることを祈っている。健やかに長く玉座に在らんことを——と。
◆◇◆◇◆◇◆
三日続いた誕生祝いの一連の行事も幕となり、執務室に引き取ったアラゴルンは、毛皮の縁飾りが付いた豪奢なマントを無造作に肩から落とし、「ふう」と息を吐いた。
「まだ慣れないか」
最後の宴席から共に退出してきたボロミアがからかいの声をかけると、青い瞳に軽く睨まれた。戴冠まで野を駆ける身だったアラゴルンは身軽な格好を好み、礼装は苦手としている。ゆったりとした袖と床を引きずる裾の長い衣装は動きづらいと言って、なかなか着たがらない。
彼は衣装だけでなく、式典も堅苦しいと言って好まない。事あるごとに簡略化の提案が出てくる。これまでのところボロミアと、執政を務める弟ファラミアの防戦が功を奏し、王の案が実行に移されたことはない。
「仕方がない。わたしはあんたのように上流育ちじゃないからな。こんな格好……」
ため息交じりに不平を口にし、アラゴルンは衣装の襟元を緩めた。
植物文様を刺した臙脂色のコートが、戦士としては細い主君の身を包んでいる。袖口から覗く金糸を刺した下襲の折り返しは紅玉で飾られ華やかだ。飾り櫛にも紅玉が使われていた。髪は祝宴前に結い直されていたが、今は僅かにほつれてきている。それもまた艶やかだ。
ただし、本人は着ているのが余程不満らしく、今や眉間に縦皺が入っている。似合っているのにもったいないことだ。野伏だったとはいえ、二十歳まではエルフと共に裂け谷で暮らしていたはずである。彼らの衣装は華やかだったと、憩いの館を思い出しながらボロミアは口を開いた。
「二十歳までは裂け谷にいたのだろう? エルフたちの衣装は華やかだったぞ」
「わたしは子供だったから、その手の衣装とは無縁だった。成長してからは狩りに出ることが増えて、動きやすい格好が一番多くなった」
つまり裂け谷で育っても、華やかな衣装を纏うとは限らないと言いたいらしい。
「まあ、そういうことならわからないでもないが……」
呟いたボロミアの脳裏に、いかにも堅物そうな智恵者の顔がよぎった。今は西へと旅立ったアラゴルンの養父だ。
「しかし、あなたは式典も格式張っていて苦手だと言うが、エルフの智恵者の教育は上流階級以上に格式が高いのではないか?」
謹厳を絵に描いたような姿だった。格式を重んじそうなあの彼に育てられて、格式張ったことが苦手というのは解せない。
「それはあんたの思い違いだ。確かに礼儀作法には厳しかったが……それも二十歳までの話だ。あんたも知っているように、わたしは野伏をやっていた時間のほうが長いんだ。それに——」
青い瞳にぎらりと剣呑な光が宿った。
「わたしは二十歳まで出自を知らなかったんだぞ。あんたのように生まれながらの跡継ぎだと言い聞かせられて育ったわけじゃない。王として育てられたわけじゃないんだ」
寛容と評される彼にしては珍しく、尖った声がボロミアに投げつけられた。
「剣も学問も音楽も……どれも師匠は一流だった。あんたの言うように、上流階級の教育に匹敵するだろう。だが、王の振る舞いだとか式典だとか……、そんなものとは一切無縁で育ったんだ」
怒気のこもった口調で吐き捨てるように言われ、ボロミアは怒りを感じるより面食らった。いつもの彼はここまで感情的にならない。出会った頃は感情の読み取れない静かな表情に戸惑ったぐらいだ。その彼がここまで激するとは、相当機嫌が悪いことになる。
「……どうしたのだ、アラゴルン」
ボロミアは主の顔を覗き込んだ。すると、彼はきまり悪そうに視線を逸らした。
「何か気に障ることでもあったか?」
ボロミアのからかいも気に障ることのひとつだろうが、それだけでアラゴルンがこんなに怒るとは思えない。式典や祝宴の最中に、何かあったのだろうか。
「……なんでもない。少し疲れただけだ。怒鳴って悪かった」
硬い声で言うと、アラゴルンはさっとボロミアに背を向けた。
「休む」
短い言葉を残して、寝室同然となった隣室に歩いていく。ボロミアは慌てて後を追った。アラゴルンは無造作に寝台に腰を下ろした。俯いた顔は暗い。
「具合でも悪いのか?」
尋ねると彼は「大丈夫だ」と首を振った。だが、体調に関するこの人の“大丈夫”は当てにならない。ボロミアは手袋をはずすと膝をつき、アラゴルンの額に触れた。熱はない。疲れているようだが、病ではないらしい。ではいったい、彼の不機嫌の原因は何か?
「アラゴルン」
ボロミアは主君の手を取った。
「正直に話してくれ。何があった?」
アラゴルンが当惑した顔で首を傾げる。
「わたしがからかったのがそんなに気に障ったか?」
問いかけると、即座に「そうじゃない」と否定された。
「ではなんだ?」
「あんたは何も悪くない、さっきのはわたしが悪かった、すまなかった。あんたに落ち度はない」
ボロミアに非がないことを強調するように早口で言った王は、ボロミアの手から逃れるように腰を浮かしながらぽつりと低い声を落とした。
「あんたが心配することは何もない」
「そんなはずはないだろう!」
ボロミアは腰を浮かしかけていたアラゴルンの腕をつかんだ。
「あなたが——主君が落ち込んでいるのだぞ。臣下が心配するのは当然ではないか」
青い目が大きく見開かれ、しばしの沈黙の後、アラゴルンは背中からぱたりと寝台に倒れ込んだ。
「……参った」
「アラゴルン?」
予想外の主の反応にボロミアは戸惑い、寝台に膝をつき脇から彼の顔を覗いた。目が合うと、アラゴルンは苦笑した。
「なあ、ボロミア。わたしにそんな価値があるだろうか」
何を問われたのか意味がわからず、ボロミアは眉を顰めた。
「落ち込んでいたら心配されて当然だという——」
アラゴルンがゆっくりと言い直す。
「その立場にいられる価値だよ」
「アラゴルン!」
意味がわかった瞬間、ボロミアは叫んでいた。
「あなたはまたそうやってご自分のことを……!」
低く見るのか——と続くはずだった言葉は、アラゴルンの指がそっと唇に当てられたため、音にならなかった。
「悪い、ボロミア。けれど、ときどき不安になるんだ」
アラゴルンの手がボロミアの頬に触れた。
「わたしは皆の期待に応えられているのかと」
「そのような心配、今回城塞に集まった人々を見れば無用だとおわかりだろう」
広場に集まった民の誰もがアラゴルン——王を祝福していた。民は正直だ。彼らにとって善き王だからこそ、祝福のために城塞まで足を運んでくるのだ。もしアラゴルンが愚かな悪しき王なら——そんなことは起こり得ないが——誰も集まらない……いや、歓声の代わりに石つぶてが飛んでくるだろう。
「そうだな」
アラゴルンは頷いた。けれど、納得した表情ではなかった。
「しかし、それは今の話だ。来年も再来年も……ずっとその先まで、わたしは彼らの望む王でいられるのか、期待に応え続けていけるのか……」
小さく消えていく語尾は王の不安を表しているようだった。それを払拭するように、ボロミアはきっぱりと言った。
「もちろん、できる。あなたは善き王のまま変わらない」
「ボロミア……」
「わたしはあなたが変わらないと知っている」
ボロミアは力強く言った。
「……あんたの、その自信の根拠は何なんだ」
呆れ半ばの調子でアラゴルンが訊いた。
「わたしはあなたを知っている、それだけだ。それだけだが、わたしにとっては十分だ」
そう、ボロミアはアラゴルンを知っている。彼は迷うこともある、躊躇うこともある。しかし判断は誤らない。ましてや無闇に他者を傷つけたり、我を通すために他者を排除したり、そうした愚かな行為は絶対にしない。
「……よくわからないな」
アラゴルンが苦笑交じりに言った。
「だが、これだけ信頼されているからには、応えていかねばならないな」
「あなたは応えてくれる。それに、わたしやファラミアも手を貸す」
「ありがとう」
曇りのない青い目がまっすぐにボロミアを見た。
「それにしてもアラゴルン——」
「なんだ?」
「あなたはいつも、先程のような辛気くさいことを考えて玉座にいるのか?」
普段は穏やかな表情で、どこか飄々とした面も見せる主君の内実が、あのように鬱々としたものだとしたら哀しい。
「いつもじゃない。ときどきだ」
アラゴルンが心配するなというように、ボロミアの腕に手を置いた。
「その“ときどき”が誕生祝いというめでたき日に当たったわけか」
「ああ、ちょっと声が聞こえたものだから」
「声?」
何のことだとボロミアが首を傾げると、アラゴルンは小さく頷いた。
「歩いているとき耳にしたんだ。『今は着飾って立派に見えるが、普段の態度を見れば、集った民もがっかりしただろう』と」
「なんだと!」
ボロミアは顔を強張らせた。アラゴルンが式典や宴席以外で礼装を纏うことがないのは事実だが、普段着とて簡素なだけで、見る者を落胆させるほど酷い格好をしているわけではない。暖炉の前でだらしなく寝そべることはあるが、私的な時間内のことで何も問題はない。
「誰がそのような……!」
「さあ? 他にも聞こえたぞ。『務めを投げ出し、街で遊び呆けていると知れたら、石くれが飛んできたに違いない』だったかな」
ボロミアの奥歯がギリと動いた。アラゴルンは確かに執務室や、ときには城からも抜け出すが、公務に穴を空けたことはない。王の脱走癖は誉められたものではないが、尾ひれを付けた中傷を口にする者は許せなかった。
「アラゴルン。あなたは耳がいい。本当は誰が言ったかわかっているのだろう?」
元・野伏の彼は足音を聞き分ける耳を持つ。「さあ?」ととぼけていたが、それは口にした者をかばってのことだろう。王を中傷したとおおやけになれば罰せられる。だが、アラゴルンは「いや」と首を振った。
「残念ながら“誰”とまではわからなかった。聞き覚えのない声だったから。声の聞こえてきた方向はわかったが、振り返る気にはならなかった」
本当か? とアラゴルンの顔を凝視したボロミアだったが、真偽は判断できなかった。なにしろ相手は幾多の危機をくぐり抜け、九十年近く生きている人物だ。こういうときの嘘の吐き方はうまい。ボロミアは無礼者の名前を聞き出すのを諦め、「まあいい」と息を吐くと、改めて主に向き直った。
「とにかくだな、そんな揶揄を気にして落ち込むことはない」
「まあ、そうなんだが……」
アラゴルンが自嘲するように苦笑いを浮かべた。
「あんたやファラミアも手を焼いている事柄だから、内心は似たような気持ちなのかと……」
「わたしもファラミアも、あなたを中傷したことはないぞ」
「わかっている」
アラゴルンの手がなだめるようにぽんぽんと、ボロミアの腕を軽く叩いた。
「だがわかった、あなたが声を荒げた理由が。やはり、わたしが『まだ慣れないか』とからかったせいだな」
先に中傷を耳にしていたなら気に障るのも無理はない。そうでなくとも祝典の準備期間中、異口同音に同様のことを言われてきたのだ。それを知っていたのに軽い気持ちで言葉をぶつけ、主君の心をささくれさせてしまった。
「迂闊だった。すまない」
「ボロミア、気にするな」
アラゴルンが上体を起こした。
「あんたに悪意がないことはわかっている。わたしの八つ当たりだ。疲れたからつい……、あんたは悪くない」
疲労のにじんだ顔で、彼は微笑んだ。祝典前は準備だけでなく、公務の前倒しもあって忙殺されていた。野伏だったアラゴルンはその辺りの兵士よりずっと頑健だが、書類仕事や典礼ごとの連続は消耗させられるらしい。本人曰く「オーク狩りのほうが疲れない」そうだ。
「お疲れなら、今夜はゆっくり休まれるといい」
ボロミアが言うと、アラゴルンは頷き横になった。
「礼装は解いたほうがよいと思うが……」
指摘すると、愛しい想い人はいたずらっぽい笑みを浮かべ、肩をすぼめた。どうやら機嫌は完全に直ったらしい。安堵したボロミアの口許は自然に綻んだ。
END