臣下の肖像[1]
秋の短い陽が白の山脈より伸びる稜線に沈んでから数刻、影の山脈がそびえる東の空に月が昇った。さやかな光が白い石で築かれた城塞都市、ミナス・ティリスを闇の中に浮かび上がらせる。下層では灯火の下、庶民が杯を片手に賑やかな笑い声を響かせる街も、上層はひっそりと静まりかえっていた。
静寂に包まれた環状区の一角、ゴンドールの執政ファラミア卿の館の庭に、人目を忍ぶように動く黒い影があった。マントを羽織った細身の影は、ナラの木の枝に軽くその身を持ち上げると、躊躇うことなく枝をしならせ、間近な露台の手すりに飛びついた。音も立てずに窓辺に歩み寄る。
曲者——と誰もが判じる姿だ。しかし、フードの下に覗く青灰色の瞳と、緩やかにうねる黒髪を目にすれば、執政館の住人たちは、その顔に驚愕と僅かな諦めの表情を浮かべて膝を折るだろう。露台の窓から館の中を窺っている不審者はゴンドールとアルノールを統べる王、テルコンタール王朝を開いたエレスサール——真名をアラゴルンという——その人だった。
露台から内部の様子を窺っていた王はそこから入れないことを悟ったのか、諦めたように息を吐くと、すいと踵を返し、壁際から手すりを乗り越えた。外壁の装飾に手足をかけ、横這いになって壁をつたっていく。この館の主である執政が目撃したら血相を変えて止めただろう。
だが、この場に執政はおらず、夜の庭には人の気配もなかった。月が照らす庭は、時折そよぐ風に木々が梢を揺らすだけだ。壁を這う王は誰の目を憚ることなく踊り場の窓縁に辿り着き、開いていた二段窓から館の中へ長身を滑り込ませた。軽い身ごなしで踊り場に降り立った王は、さっと辺りを見まわしてから二階へ上がっていった。
蝋燭の灯に照らされた廊下に人の姿はなかった。アラゴルンは書斎の扉に耳を近づけてみた。扉の向こうに人の気配は窺えない。寝室にも行ってみたが、やはり無人だった。アラゴルンは肩を竦め、上がってきたのとは反対側の階段から一階へ下りた。
二階まで吹き抜けになったホールを抜け、辺りを窺いながら廊下へと進む。厨房へ行こうと回廊に向かって角を曲がったところ、壮年の男と行き合った。
「……陛下」
相手はこの館の執事だった。執政館という彼にとっては職場にあたる場所で、何の前触れもなく正面から国王と出くわした執事は目を剥いている。
執政とイシリアンの領主を兼ねるファラミアが主人であるため、この館に賓客を迎えることは珍しくない。だが、それらの多くは前々から予定が入っているものであり、また客のほうも案内なしに勝手にうろついたりはしないものだ。そもそも窓から入って来ること自体、普通ではない。
しかし、ゴンドールの王が執政館を訪ねる場合、正面玄関から入るより、普通でない方法のほうが確実に多かった。前例が多数なため、執事は叫び声を上げて取り乱すような醜態を晒さずに済んだのである。もっともそんなことはありがたいことでも何でもない。彼にしてみれば、日常の職務中、いきなり玉体と出くわす危険はできればゼロにしてほしかった。
執事の思いは館の主である執政はもちろん、側近一同の思いでもあった。国王が夜間、護衛もなく城を空けるなどと、そんな破天荒な行動を容認する臣下はいない。事が露見する度、誰もが渋い顔をするが、王の悪癖が止むことはなかった。
思いついたときに身軽に訪ねたい——が王の主張であり、元・野伏で隠密行動に長けている彼は、城の衛兵の目をかいくぐって自身の主張を実現させるだけの技量を持っていた。
「こんばんは、執事殿」
アラゴルンはフードを肩に落として、執事に軽く手を挙げてみせた。
「勝手にお邪魔しているよ」
二の句が告げなくなっている相手を刺激しないよう、穏やかに話しかける。
「ここの主はどこかな? 書斎に姿がなかったが……」
「おそれながら、陛下——」
職場での王との遭遇に少々慣れてきた執事は、なんとか自失から復調し、硬い声で王の言葉を遮った。
「ん?」
アラゴルンがこくりと首を傾げる。
「常々申し上げておりますが、露台や窓からではなく、玄関からおいで願います。それに、わたくしどもは日暮れに二階の部屋の戸締まりをいたしました。窓はすべて閉まっていたはずですが……」
どこから入ったのだと、鋼の色をした執事の瞳が訝しげに光った。
「ああ……」
そのことか、というようにアラゴルンは微笑んだ。
「あなたの言うとおり、二階の窓は開いていなかった。だから踊り場の窓から入ったんだ」
「……さようでございますか」
御年九十になろうという人の無邪気な切り返しに、執事の肩が小さく落ちた。
「それで執事殿、ファラミアは?」
相手の小さな落胆を気にする様子もなく、普通でない王はにこにこと己の用件を尋ねた。
「閣下はただいま接客中でございます」
「……そうか」
少々つまらなさそうにアラゴルンは頷いた。
「こんな夜分遅くに来客とは……。誰だ?」
自身も夜遅くに——先触れもなく窓から入るという破天荒な方法で——訪ねてきていることは棚に上げ、王は問いかけた。
「モルソンド川の西の方です」
執事は曖昧に答えた。モルソンド——黒根谷の領主はドゥインヒアだが、そこから下流の西岸の領主となると……。
アラゴルンの頭に二、三名の顔が浮かんだ。どの御仁とも、このところ、アラゴルンはあまり折り合いがよろしくない。アラゴルンにとっても彼らの用件は懸念材料だが、それは向こうも同じだろう。それで執政にねじ込みに来たのだろうか? だとしても——、
彼を頷かせるほうが難しいと思うのだが……。
「いらっしゃったのは二刻程前になります」
執事が思わせぶりに付け加えた。思ったとおりというべきか、揉めているようである。長引いているなら帰ったほうが無難か——アラゴルンが思案顔になったとき、執事が言った。
「閣下に陛下のお越しを報せて参ります。客間へご案内いたしますので、そちらでお待ちになってくださいませ」
執事としては、国王にこのまま姿を消されたほうが職務上困るのだ。引き留めておかねば、意に染まぬ客を迎えて下降したファラミア卿の機嫌が、更に下降することになる。それで仕える者たちに当たるような主人ではないが、やはり機嫌良く過ごしてもらいたい。
「ああ、ありがとう」
執事の胸の内を知ってか知らずでか、アラゴルンは好意を受けるように頷いた。
「案内はいいよ。わかっているから。それと——」
言葉どおり勝手知ったるといった感じで、アラゴルンは手を振り、踵を返した。
「わたしのほうは急ぎの用じゃないんだ。向こうの用件を優先させるよう伝えてくれ」
身軽な王はそそくさと来た道を引き返していく。それを執事は慇懃に見送り、主人が客と対面している居間へと歩いていった。しかし——、
執事が立ち去った後、どこに隠れていたものか、アラゴルンが姿を現した。フードをかぶり直した彼は、回廊の向こうと中庭を見透かすように目を凝らしていたが、人の気配がないことを確認すると、足早に回廊を渡っていった。
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