臣下の肖像[2]
良い匂いを辺りに漂わせている厨房の脇に、暖炉の火が燃え、燭の灯る部屋があった。テーブルには温かな湯気の立ちのぼるパイと、エールの杯が並んでいる。革の胸当てを付けた壮年の男と青年が二人、マッシュポテトで蓋をしたパイを食べていた。胸当てには白の木の意匠が見える。二人ともイシリアンの野伏だ。パイの中身は、壮年の男の手許にあるのが白身魚、青年が食べているのが——おそらくラムの——挽き肉だった。
「やあ——」
アラゴルンはフードを落としてテーブルに近づいた。
「……陛下!」
二人の野伏はぎょっとして立ち上がった。余程驚いたのか、青年はフォークを置くことすら忘れている。握られたフォークの先で、口に運ぶ途中だったパイの挽き肉が、ぽろぽろと器にこぼれ落ちていた。
「座っていいかな?」
アラゴルンは二人に座るよう手振りで示しながら、椅子を引いた。
「どうぞ」
「あ、はい……」
落ち着いた声は壮年の野伏から、上擦った声と頷きは青年から、それぞれ返ってきた。アラゴルンは腰を下ろしたが、二人は立ったままだ。
「料理長に何か頼んできましょう」
壮年の野伏が訊いた。
「いや、いいよ」
アラゴルンは首を振った。
「それより……マイソリオン、だったかな?」
「はい」
マイソリオン——と名を呼ばれ、壮年の野伏の顔に軽い驚きの表情が浮かんだ。それはそうだろう。彼が王に拝謁した回数は片手で足りる。口数の多い者なら「憶えておいででしたか」と続けただろう。だが、マイソリオンの口から応答以上の言葉は出なかった。
「座って食べてくれ」
食事の邪魔をしにきたわけではないと、アラゴルン苦笑しながら、二人に再度座るように促した。突っ立ったままでいた野伏たちは顔を見合わせ、ようやく腰を下ろした。
「閣下なら、接客中のようですが」
腰を下ろしたものの、フォークを取ることもせず、マイソリオンが言った。王が執政館を訪ねてきたのは、当然、執政に用があってのことだと、そういう考えからだろう。
「ああ、それは執事殿から聞いたよ」
アラゴルンは言った。
「客間で待つように言われたんだが、一人で待っているのも味気なくてね。それでここに来た」
だから話し相手になってくれ、という王の言葉に、マイソリオンは僅かに上体を引き、目をしばたたかせた。それは国王の話相手などおそれおおいというより、つくづく変わり者だという呆れの反応だった。しかし、そんな反応を気にする素振りもなく、アラゴルンは笑顔で野伏に話しかけた。
「最近のイシリアンの様子はどうかな?」
「良くなっています。オークの数も減ってきましたし……」
「それはよかった」
青灰色の目が細められた。
「エフェル・ドゥアスの——」
アラゴルンが更に何か問いかけようとしたとき、
「陛下……!」
部屋の戸口で驚きの声が上がった。王と二人の野伏が振り向けば、白衣にエプロンを締めた男が立っていた。
「ああ、料理長。お邪魔してるよ」
アラゴルンが小さく首を傾けて笑いかける。執政館の料理長はテーブルの傍まで来て、頭を下げた。
「お越しとは存じませんで、失礼いたしました」
「いや、こちらこそ、声をかけずに失礼した」
「何かお召し上がりになりますか? ラム肉のパイとシチューがありますが」
料理長の申し出にアラゴルンは屈託のない笑顔で答えた。
「じゃあ、シチューと葡萄酒を頼むよ」
「かしこまりました。葡萄酒はレベンニンの赤でよろしいでしょうか」
「ああ。任せるよ」
料理長は一礼して部屋を出ていった。
「あの……」
今まで黙っていた青年が、恐る恐るといったふうに口を開いた。
「よく……こうしていらっしゃるのですか」
「まあ、そうだな」
アラゴルンは考えるように首を傾げて答えた。
「そんなに頻繁なわけでもないが……、比較的多いかな」
青年の口が呆気にとられたようにぽかんと開く。国王がフラフラと出歩くなんて……と、胸の内で呟いていそうな顔だった。しかし、寛容な人柄で評判のゴンドール王は、青年の態度に気を悪くした様子もなくにこりと笑った。
「——というわけで、これからもよろしく」
骨張った手がスッと青年の前に差し出される。青年はほとんど反射のように王の手を握った。
「まだ名前を聞いてなかったね」
「あ、はい……、ケレブラスと申します」
「“銀の峰”か。いい名だな」
「……あ、ありがとうございます」
国王に至近距離で微笑みかけられて気が昂ぶったのか、青年の頬が朱に染まった。額に汗が噴き出してきている。どう対処していいのか、握った手を放すこともできず、固まった状態でおろおろしている青年――ケレブラスを救ったのは、
「お待たせいたしました」
料理長の声だった。アラゴルンの手がごく自然に青年の手から放れる。シチューがテーブルに置かれ、酒杯に芳香を放つ暗紅色の液体が注がれた。アラゴルンの目配せで、二人の野伏にも同じものが供される。
「ありがとう」
アラゴルンが香りを確かめるように杯を鼻先で揺らした。
「いい香りだ」
おもむろに口を付け、味を噛み締めるように静かに飲み干していく。
「味もいいな。まろやかだ」
「業者が“とっておき”だと申しておりました。——どうぞごゆっくり」
料理長は微笑を浮かべて一礼すると、部屋を出ていった。
「うまいぞ」
アラゴルンが二人の野伏に飲むよう促す。思わぬところで国王の相伴に預かることになった二人は、戸惑いながら酒杯を手にした。若いケレブレスは飲んでしまってもいいものか、不安げに年長のマイソリオンを窺っている。
「陛下のお心遣いだ。いただいておくといい」
そう言って、マイソリオンは自ら杯に口を付けた。年長者を見習うように、ケレブレスも葡萄酒を口に含んだ。
「どうだ?」
アラゴルンがケレブレスに尋ねる。
「はい。あの……」
首を捻りながら、ケレブレスが口を開いた。
「良い酒なんでしょうけど……俺、いえ、わたしにはよくわかりません」
銘品に馴染みの薄い若者の率直な感想だった。
「あ、あの、すみません! 決してまずいわけでは……」
失言を取り繕おうと慌てて言葉を続けたケレブレスだったが——、
ドカッ!
「ぐっ……!」
テーブルの下で低い音が響いた直後、若い野伏は顔を歪め、背を丸めて突っ伏した。
「失礼いたしました。見習いから上がったばかりで、口の利き方を知らぬものですから」
マイソリオンが硬い声で目下の非礼を詫びた。
「いや、構わないが……」
アラゴルンは、目に涙を浮かべて脛をさすっているケレブレスを眺め、声を潜めてマイソリオンに訊いた。
「大丈夫なのか? 彼は」
アラゴルンからは見えなかったが、テーブルの下で響いた低い音と若者の反応から察するに、マイソリオンがケレブレスの足を蹴ったのは間違いない。大の男が声を詰まらせて突っ伏し、涙を浮かべるほどだから、強烈な一撃だったに違いない。しかし、マイソリオンは涼しい顔だった。
「気になさることはございません」
「……そ、そうか」
執政の切り返しにも似た返事に、アラゴルンはそれ以上口を挟むことができず、おもむろに葡萄酒に口を付けた。仕える者はその主に似ていくと聞くが……、
イシリアンの野伏を長年勤めていると、イシリアン公のようになるのかもしれない。
それはちょっと厭だな——とでも言いたげな顔で葡萄酒を飲みながら、アラゴルンは被害者に目を遣った。ケレブレスはまだ足をさすっている。
「あー、ケレブレス——」
アラゴルンは気の毒になって声をかけた。
「痛みが酷いなら冷やしたほうがいいぞ」
「陛下のおっしゃるとおりだ。手当てしてこい」
マイソリオンの声が重なった。蹴飛ばした当人がいけしゃあしゃあとよく言えたものだが、「そんなに痛むはずがなかろう」と我慢させる上官もいる軍の中では、まだマシななほうかもしれない。
「失礼します」
ケレブレスは立ち上がってひとつ頭を下げると、そそくさと部屋を出ていった。片足を僅かに引きずっていたのは大袈裟ではなく、本当に痛むからだろう。
「本当に大丈夫なのか?」
体術を会得した者の蹴りだ。やりようによっては骨を折ることもできる。さすがに骨折はしていないだろうが、単なる打撲で済む程度なのか……。アラゴルンは心配になって再びマイソリオンに尋ねた——が、
「大丈夫ですよ。明日は休みですし」
彼は相変わらず涼しい顔だった。
「今は痛むでしょうが、あとは少々痣になる程度のこと。勤めに障りが出るようなことはしておりません」
「ならいいが……」
淡白な口調ながら障りはないと言われ、アラゴルンはふっと息を吐いた。
「厳しいんだな。イシリアンの野伏は」
苦笑しつつ、正直な感想を述べる。けれど、マイソリオンはとんでもないというふうに、軽く首を振った。
「あの程度で済んで、彼は幸運ですよ。閣下がこの場にいたら、あれぐらいじゃ済みません」
千年来の空位を経て王朝を興したエレスサールのために、執政ファラミアが王権強化に取り組んでいることは、配下の間では周知の事実だ。ゆえに、王への不敬は厳に慎むよう暗黙の了解ができている。執政の前で不敬を働こうものなら、モルドールに常駐しろと命じられかねない。
けれど、前職が野伏だった国王は自身の身分に頓着しないタチだ。だからこそ、今こうして厨房の脇でシチューを頬張っているわけだが。
「……う〜ん、ケレブレスがどうこうの前に、ファラミアがこの場にいたら、わたしはのんきにシチューを食べていられないと思うが」
見つかった途端、眉を吊り上げた笑顔に叱られると、アラゴルンはシチューをすくいながら言った。
「そうかもしれませんね」
マイソリオンが思わずといった感じで小さく笑った。アラゴルンは「だろ?」と言うように、いたずらっぽい笑顔で片目を瞑り、声を潜めて囁いた。
「だから、執政閣下には内密に頼む」
「それは難しいご相談ですな」
マイソリオンがしかつめらしい態度をつくって返す。それにアラゴルンが「冷たいな」と拗ねたようにこぼしたところで、どちらともなく二人は笑った。
「陛下は実に気さくなお方ですな」
ひとしきり笑ってから、マイソリオンが感心したように言った。王の人柄を漏れ聞いてはいたが、予想以上だったのだろう。
「まあな。前職は貴殿と同業だ」
軽く応じてから、アラゴルンはやや表情を改めて口を開いた。
「そういえば、先程オークの数は減ってきたと聞いたが」
「はい」
「その代わりのように、山賊がエフェル・ドゥアスに住み着きはじめたと耳にした。様子はどうだ?」
「ええ」
職務に係わることを問われたためか、マイソリオンの表情も引き締まった。
「おっしゃるとおり、山に隠れた賊が麓を襲う事件は起きています。けれど、それらにはわたしども野伏以外に警備隊が対処しており、徐々にではございますが、被害は減ってきております」
淀みない声で模範的な回答が語られる。
「また、住民たちも相手が闇の生物ではなく人間ならばと、自警団を組織して対抗しております。今のところ、大事にはいたっておりません」
それは初耳だというふうにアラゴルンの目が見開いた。
「自警団とは頼もしいな。だが、張り切り過ぎた住民たちが、先走らぬよう気をつけてくれ」
「ええ、その点は連絡を密にして注意しております」
心得ているというようにマイソリオンは頷いた。
「一度視察に行きたいと思っているのだが……」
現場の様子はどんなものか、視察が受け入れられる状況か——探りを入れる王の問いに、
「そういうことでしたら、閣下にお尋ねください」
権限がございませんと、マイソリオンは神妙な顔で返した。
「そうするよ。断られると思うが」
さらりと流され、アラゴルンは苦笑した。執政の配下は手強い——そう言いたげな顔だった。
「ところで、貴殿はファラミアとの付き合いは……その、如何ほどになる?」
「そうですね。五、六年になります」
「そうか……。ひとつ訊くが——」
アラゴルンがやや声を潜めて切り出した。
「はい」
「ファラミアは昔から、あんな感じなのかな」
「あんなとは?」
マイソリオンが怪訝な顔で首を傾げる。
「えぇっと、つまり、その……融通が利かないというか、厳しいというか……」
歯切れの悪い口調でアラゴルンが言う。
「規律には厳しい方ですが、それは軍ならば当然のことですし——」
「まあ、そうだな」
「融通の利かないお人柄だと感じたことはございませんが」
「……そうか」
どことなく腑に落ちないといった顔で、アラゴルンは息を吐いた。
「じゃあ、以前と変わったと思うところはあるか? イシリアンの野伏の長をしていた頃と今と」
「あまりございませんが……、そうですね、敢えて申し上げれば——」
マイソリオンは考えるように言葉を途切らせ、おもむろに口を開いた。
「思い切りがよくなられた、とでも申しましょうか。明るくなられましたし、何やら吹っ切れられたような気がいたします。以前は、ご父君や兄君の陰に留まってらしたような印象が強かったですから」
「ご尊父とあまりそりが合わなかったようだと聞いたが……」
ファラミア卿が、父である前の執政デネソールから冷遇されていたという話は、宮廷内で周知の事実として語られている。表立って話す者はいないが、イシリアン公配下の者には不快なことに違いない。マイソリオンの瞳に警戒の色が浮かんだ。
「失礼ながら——」
緊張を孕んだ声がテーブルに落ちる。
「それは閣下がおっしゃったことですか?」
「いや」
アラゴルンは首を振った。
「方々から耳にしたことだ。ガンダルフ——ミスランディアからも似たような話を聞いた」
ミスランディアという単語に、マイソリオンは僅かに渋い表情をした。智恵多き者として敬われる一方、禍の先触れとも言われた放浪のイスタリに対し、複雑な思いを抱いているのかもしれない。
「他人の目にはそう映ることもあったかもしれませんが、当時、この国を統べていたご一家の、その内奥はご家族以外窺い知れないものでございます」
紋切り型の返答を聞き、アラゴルンは自嘲めいた笑みを浮かべた。
「そうだな。すまない。つまらぬことを訊いた」
「いえ……」
「しかし、貴殿も、以前のファラミアは人の陰に留まっている印象を受けていたわけだ」
「そうした印象ばかりではありませんが……」
かつての長の好ましくない評価を繕おうとするマイソリオンの言を、アラゴルンはわかっているというふうに手を振って遮った。すぐ後にやさしい声が続く。
「それが明るくなったか」
「はい」
マイソリオンが胸を張った。
「閣下だけでなく、この街の人々も明るくなったように思います。もちろん、イシリアンを歩く我々も」
「モルドールの影が払われたおかげだな」
アラゴルンが穏やかな顔で目を細めた。
「ファラミアに限って言えば、エオウィン姫を妃に迎えたことも一因かな」
「そうですね。それに、やはり、玉座に陛下を迎えられたことが大きいと思います」
自身が玉座に就いたことを一因に挙げられ、青灰色の目がぱちぱちと忙しなくまたたいた。
「彼が明るくなったことに……わたしの即位が?」
「ええ」
「そんな大きな影響はないと思うが……」
思い違いではないのかと言うように、アラゴルンの首が傾いた。
「いいえ」
マイソリオンはきっぱりと否定した。
「陛下のことを語る閣下は実に活き活きとした表情をなさいます。それに、閣下は常々『善き王を迎えることができて幸せだ』とおっしゃっています」
己の居ぬ場での評価が意外に高いことを耳にし、アラゴルンは照れくさそうに笑った。
「わたしこそ、彼のような有能な人物が執政で、大いに助かっているよ」
イシリアン公を評価されたマイソリオンがうれしそうに頷く。それを微笑ましげに見遣ったアラゴルンが相談を持ちかけるように言った。
「できれば、もう少し、わたしの行動に関して融通を利かせてくれると、更にありがたいんだが……」
「先程申し上げたとおり、閣下は規律に厳しい方ですので」
「う〜ん……、規律に厳しいというより、こわ……」
酒杯に口を付けながら、アラゴルンが言葉を継ごうとしたとき、部屋の入り口から声がかかった。
「何やら楽しそうなお話ですね」
王と野伏が振り返れば、いつ来たのか、戸口に話題の人——執政ファラミアが立っていた。野伏が立ち上がって礼を取る。それに頷き返し、座るように手振りで示しながら、ファラミアはテーブルの脇に来た。
「わたしも仲間に加えていただいても?」
笑みを形づくる口許とは裏腹に、執政の碧い瞳には鋭い光が宿っている。けれど、それに怯む様子もなく王は平然と言った。
「残念ながら、仲間にはなれないな」
「おや、冷たいことをおっしゃいますね」
「執政殿にはいろんな顔があると、そう話していたんだ。話題の当人を仲間に加えるわけにはいかないだろう?」
しれっとアラゴルンは言った。
「なるほど。それは確かにそうですね」
似た者主従と言うべきか、執政もまたしれっとした顔で頷いた。しかし、それで終わらないのがゴンドールの執政だ。
「ところで、陛下はなぜこちらにいらっしゃるのです? 執事には客間に向かうと仰せになったそうですが」
笑みの浮かぶ口から、更なる問いかけがあった。
「気が変わったんだ」
「さようでございますか」
ファラミアは納得したように頷いた。しかし、やさしげに微笑しながら、その瞳は先程と同じく笑っていない。
「まあ、人の気が変わることは珍しいことではございません。ですが、一国の王ともなりますと、お気持ちのまま行動がお変わりになりますと周囲の者が混乱いたします。なので、あまり頻繁にご予定を変えませぬようお願い申し上げます」
執政は主に向かって慇懃に述べると、野伏に向き直った。
「マイソリオン。お前も、陛下には相応しい場へおいでになるよう……」
「待ってくれ、ファラミア」
野伏への叱責を王の慌てた声が遮った。
「彼はわたしが無理を言って引き留めたんだ。話相手になってくれるようにと。だから叱らないでくれ」
自分が注意を受けているときは黙って聞いていたアラゴルンが、執政の腕をつかんで立ち上がっている。ファラミアの口から呆れたような吐息が漏れた。
「……わかりました。とにかく客間へ参りましょう」
「ああ」
アラゴルンは素直に頷き、促されるまま歩き出した。その足が戸口で止まる。
「——マイソリオン。付き合わせてすまなかった。ケレブレスにもよろしく」
野伏は丁寧に頭を下げ、王と執政を見送った。
◆◇◆◇◆◇◆
「——それで、わたしの何をお聞きになっていたのです?」
マントを外して客間の長椅子に腰掛けた王に、ファラミアが訊いた。
「別に……」
クッションにもたれながら、アラゴルンがくぐもった声で答えた。
「大したことじゃない」
「さようでございますか」
にこやかに執政は笑った。
「しかし気になりますね。自分のことですから」
水差しと杯を低いテーブルに置いたファラミアは、クッションにだらしなくもたれ、ほとんど寝そべる格好になっている王の脇へ膝を付いた。
「だいたい野伏にお尋ねにならなくとも、わたしのことならば、わたしがお答えいたしますよ。何をお知りになりたかったのです?」
「えっ……と、その……」
執政の碧い瞳に間近で視線を合わされた王は、うそ寒げな顔でおずおずと上体を起こした。
「なんです?」
「いや、だから……執政殿は昔から今のような人柄だったのかと……。まあ、そんな話だ」
そう言いながら、アラゴルンは執政との距離を空けようとするように、クッションを抱え、ずるずると長椅子の上をいざった。それを阻むように執政の腕が長椅子の背に伸びた。同時に、その片膝が長椅子に乗り上げる。
「今のような、とは?」
「つまり、その……」
動きを阻まれた王が打開策を探すように目を泳がせる。だが、事態を好転させるものは何もないと悟ったのか、観念したように言った。
「こういうふうに……怖かったのか、確かめたかったんだ」
途端、プッと小さく執政が吹き出した。王の言葉そのものよりり、心底脅えたような顔がおかしかったのだろう。
「……笑ったな」
「失礼」
ファラミアは笑いをおさめると王の黒髪をすくい上げ、愛おしそうに口づけた。王の能力を考えれば、本当は脅える必要すらないのだ。前身が単独行の多い野伏だった彼は独りで戦う術に長けており、自身より体格の良い者であっても叩き伏せることができる。今、その手段が使われないのは、彼のやさしさゆえだと、聡い執政は知っていた。
「まあ、いいさ」
くすくすと笑う執政を、軽く睨んでいた王が苦笑を漏らし、何事か呟いた。緊張が解けて身体の力が抜けたのか、クッションを抱えたまま、背中から長椅子に倒れていく。その背を抱き止めるように執政の腕がまわった。執政の言及がないところを見ると、苦笑いに交じった呟きは、彼の耳には届かなかったようだ。
——沈んだ顔をされるよりは、ずっといい。
人の陰に留まっていたようだったという、そんな顔はしてほしくない。自分を見下ろす微笑を眺めながら、アラゴルンは思った。
——そういえば……。
ふと、アラゴルンの頭に歴代の執政を描いた肖像画の数々がよぎった。執政だけでなく家族を描いたものもあったが、前の執政デネソールの場合、執政夫妻と白の塔の大将ボロミアの肖像画はあるが、ファラミアのものは見たことがない。もし、描かれたことが無いのなら、
——今度描かせてみようか。
ゆっくりと迫ってきたファラミアの顔に抱えていたクッションを押しつけ、彼の腕から逃れながら、アラゴルンは明日にでも画家に話をしようと考えていた。
END
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