青嵐[1]
「カンパーイ!」
隣のテーブルで景気の良い声が上がった。すっかり出来上がっている。彼らの前には空のジョッキが幾つも並んでいた。まだ、日が落ちていないのに、あんなに飲んで大丈夫なのだろうか。
エルダリオンは呆れ半分に隣を眺め、スパイスの利いた薄焼きのパンをかじり、手許の杯を取った。こっちは林檎の——酒ではなく、ジュースだ。
「殿下、そろそろ……」
カウンターで店の亭主と話していた青年が、近づいてきて耳許で囁いた。
「行こうか」
エルダリオンはジュースを飲み干し、立ち上がった。まだ明るいが、入り口から覗く陽射しは弱くなっている。ここは第一環状区。今のうちに出なければ、日没までに第七環状区へ辿り着くのが難しくなる。護衛役の彼が亭主に訊いていたのも、他の環状区へ辿り着くまでの時間だ。この辺りの住人が最上層へ行く用はないだろうが、第三、第四環状区への時間なら彼らも知っている。それがわかれば第七環状区までの見当がつく。
エルダリオンに珍しく外出が許されたのは、剣の交歓試合とその後の親睦会が理由だった。試合に参加する者の年齢が十代後半から二十代前半ということで、父も執政も頷いた。それでも十五歳のエルダリオンは最年少だった。
試合は午前のうちに済み、昼食を兼ねた親睦会は師の自邸で開かれた。師とはそこで別れたが、その後、仲間は年長者たちの馴染みだというこの店へ移ってきた。周囲の三つのテーブルを埋めているのは、みなエルダリオンと同じ師についている貴族や官吏の子弟だ。
エルダリオンに声をかけた青年もそんな仲間の一人だった。先頃、二十歳を迎えたばかりで、名前はシルメギル。近衛隊長の子息という、ただそれだけのことで、好都合とばかりにエルダリオンの護衛を押しつけられた気の毒な若者だ。
「なんだァ、もう帰るのかァ?」
出来上がっている一人がシルメギルに声をかけた。
「付き合いわりィなぁ。まだまだ、これからだろうォ」
もう一人が青年の肩に腕をまわす。
「ほォら、もう一杯やろうぜィ」
ジョッキをつかんでシルメギルに押しつけるその腕を、エルダリオンは押さえた。
「悪いな。護衛で借りてるんだ。付き合いはまた今度にしてくれ」
そう言いながら、酔っ払いの手からジョッキを取り上げ、テーブルに置いた。相手がヒューッと口笛を鳴らす。
「これは殿下。失礼」
「さすがですなァ。お一人で歩くこともできないらしい」
揶揄する言葉にシルメギルの顔色が変わった。エルダリオンはそれを手で止め、酔っ払いに向き直った。
「そういうこと。付き合えなくてすまない。今日は楽しかった」
懐から金貨を取り出し、テーブルに置く。
「誘ってくれた礼だ」
再びヒューッと口笛が鳴った。それを無視し、シルメギルを促す。
「行こう」
フードをかぶって足早に店を出た。
「殿下、よろしかったのですか」
「何が?」
「あのような言葉をお許しになって」
エルダリオンは笑った。
「酔っ払いの戯言だろう」
「しかし……」
「言わせておけばいい」
エルダリオンは執政の教えを口にした。
——言わせておけばよろしいのですよ。取るに足らない者たちです。相手になさることはありません。
言われたのは三年前だったか。エレスサール王の善政にその人あり、と言われる執政・イシリアン公ファラミアの優雅な微笑の前に、今より幼かった自分が反論できるわけもなく、ただ頷くしかなかった。
——ただし、あまりにしつこい者がいたら、ファラミアにこっそりお教えください。
——教えたらどうなるんだ?
そう訊けたのは今より無邪気だったからだろう。
——それは殿下がお知りになることではありませんよ。
口調はやさしかったが、なんとなくうすら寒いものを感じ、エルダリオンはそれ以上訊けなかった。教えたらどうなるか——今では訊かなくても、だいたいのところはわかるようになった。教えずに過ごせてきたのは幸いである。
「それと、金貨を与えるようなことはなさらないほうが……」
「まずかったか?」
「調子に乗ります」
「確かに。酔っ払いは調子に乗る」
エルダリオンは声を立てて笑った。
「笑い事ではありません。次から殿下にねだろうとしますよ」
シルメギルは眉を顰め、高い声を上げた。
「だったら大丈夫だ。彼らと同席する機会は滅多にない。だろう?」
「確かにそうですが……」
「あれはエルボロンの受け売りなんだ」
「閣下の?」
「酒の席を抜けるときによく使うと聞いた」
そう口にした途端、シルメギルはハッと目を見開き、複雑な表情を浮かべて黙り込んでしまった。
——またやってしまったか。
エルダリオンはひっそりとため息を落とした。自分は年齢に不相応なところがあるのだろう、たぶん。周囲の大人たち——父やファラミアやエルボロンといった国政の中枢を担う者たちから話を聞いて、なんとなく覚えたことを使ってしまう。
けれど、それは彼らのような“大人”が使う術であって、自分のような未熟者が使うものではないのだろう。なるべく避けようと思っているが、使うまでその区別が付かない。そこが、やはり子供なのだ。
なんとなく気まずい雰囲気が漂い、二人とも無言のまま歩き続けた。第二環状区の門をくぐる。立哨の兵士の一人がこちらを見て微かに口許を緩め、軽く手を挙げた。シルメギルが会釈を返している。
「知り合いか?」
「従兄です」
エルダリオンは兵士を振り返った。背が高い。甲冑姿だからはっきりと肉づきはわからないが、それでもかなり体格が良さそうに見える。佩いている剣も幅の広いものだ。あれを扱えるだけでも大した腕である。
「強そうだな」
「ええ。強いです。同年代の従兄弟たちの中では一番の腕でしょう、たぶん」
「へぇ、すごいな」
エルダリオンは素直に感心した。近衛隊や王都の警備に職を得ている一族なら、年若い者でも剣の技量は相当のはずだ。シルメギルもけっこうな技量の持ち主である。その中で一番となれば、かなりの腕前だろう。
「けれど、それでも部隊の中ではまだまだだそうです。もっと上がいると言っていました」
「これから追いつくだろう」
「ええ、わたしもそう思います」
シルメギルは同意したが、その表情は沈んでいた。
「どうした? そう思う割には暗い顔だな」
「彼は追いつくと思います。けれど、わたしは駄目です」
「駄目って、何が?」
エルダリオンが首を傾げると、シルメギルはますます暗い顔になり、沈んだ声で呟いた。
「今のままでは……近衛隊に入れません」
「そんなことないだろう」
「いいえ。父に言われました。お前では無理だと」
エルダリオンの頭に厳めしい近衛隊長の顔が浮かんだ。贔屓のない人物だとの評判だが、その厳格さは息子にも適用されるらしい。青年の沈んだ顔をちらと見遣って、エルダリオンはわざと明るい声を出した。
「けど、シルメギルはまだ入隊するわけじゃないだろう?」
兵士の見習いには十代の少年が多いが、下働きに従事する彼らはほとんど庶民の出身だ。例外は城の小姓で、こちらは官吏が子息の行儀見習いを兼ねて出仕させている。ただし、高官の子息は少ない。
位の高い貴族や官吏の子息が仕官する場合、二十五歳前後が多い。他者の使い走りではなく、一人前の身分を得て世に出るというわけだ。シルメギルが兵士になるとしたら、早くても二、三年先だろう。
「今は無理でも、二、三年先には希望があるかもしれないだろう。それに最初から近衛隊を狙わなくてもいいじゃないか。近衛は転属組が多いんだ。都の警備兵やイシリアンの野伏、アルノールから転属してきた兵士もいる。隊長だって、最初から近衛兵じゃなかったんじゃないか?」
「……そうですね。わたしが小さい頃、父は都の警備兵でした」
シルメギルはそう言って口許を緩めた。彼の表情がやわらいだことにほっと息を吐いていると、思いがけない言葉が降ってきた。
「殿下。ありがとうございます」
「え……」
エルダリオンは半開きにしたまま、口を動かせなくなった。「しまった」と、それだけが頭の中でこだまする。本来なら礼を言われるようなことではない。仲間内のちょっとした励ましで、それ以上の意味は加わらないはずだ。けれど、王太子だから——、
言葉に重みが加わる。
自分たち王族は口にする言葉に気をつけなければならない——とは、常々、父に言われていることだ。ちょっとしたことでも大仰に受け止められ、場合によっては意図しない形で広まってしまう。たとえ善意でしたことでも、思わぬ形で返ってくると、父は実体験を交えて話してくれた。
父が即位して三年か四年経った頃と聞いたから、ずいぶん昔の話だ。何かの宴の折り、父はある青年に声をかけたそうだ。貴族の子息だったらしいが、ひどく落胆した様子で庭の隅にいたのが気になって、ちょっと声をかけた——ただそれだけのことだったらしい。
それが、いつの間にか「陛下に大いに励ましのお言葉を頂戴した」という話で広まり、ついには青年の一族が「御礼を申し上げたい」と押しかけてきて閉口したらしい。
——ファラミアに「陛下は気軽なおつもりでも、相手が“寵”と受け取る場合もございます」と叱られた。
あれで懲りたよ、と父は苦笑していた。かなりの歳月が過ぎているのに、未だに「懲りた」と記憶しているのだから、父の周囲ではけっこうな騒動だったのだろう。そんな目に遭うのはちょっと……いや、かなり御免だ。
「えっと、いや……」
エルダリオンは口をもごもごさせながら考えた。大丈夫、隊長は贔屓のない人物だ。廊下の真ん中で「殿下、おありがとうございます」なんてこと、するはずがない。とにかく、話を逸らそう。冗談に流してしまえばいい。
「だいたい近衛は花形なんて言われるが、そんないいものじゃない。隊長に聞いているだろう?」
エルダリオンは言葉を切り、わざと厳めしい声で言った。
「一番の仕事は国王との追いかけっこだぞ」
シルメギルがくすりと笑う。
「最近は殿下も加わるようになったと聞いていますが」
「……連戦連敗だ」
エルダリオンが悔しそうに言うと、シルメギルの喉で息が詰まったような音が鳴った。
「……笑っていいぞ」
「失礼……」
そう言いながら小さく吹き出す彼を見て、エルダリオンは肩をすぼめ、そして笑った。互いに顔を見合わせ、また笑う。二人で笑いながら歩いていると、脇の小路から軽い足音が聞こえ、小さな影が飛び出してきた。
「……っと」
エルダリオンはとっさに避けたが——、
ドンッ!
影はシルメギルに突き当たった。そのまま駆け去ろうとする影の腕を、エルダリオンはつかんだ。
「おい、待て」
腕を捻って近くの壁へ押しつける。
「何するんだ!」
押さえつけた相手から甲高い抗議の声が上がった。エルダリオンの目の下で灰色の頭が揺れる。それだけ背が低いのだ。十二、三歳だろうか、まだあどけなさの残る子供だった。
子供はエルダリオンの腕を振りほどこうと暴れ、自由なほうの腕を振りまわした。エルダリオンのフードが肩に落ちる。
「殿下、どうなさっ……」
驚いているシルメギルに、エルダリオンは声をかけた。
「財布を確かめろ」
シルメギルはコートのポケットに手を突っ込み、顔色を変えた。
「ありません」
エルダリオンは子供の懐を探り、革の袋を引っ張り出した。
「これだろ?」
「そうです。いつの間に……」
信じ難い顔でシルメギルは財布を受け取った。
「こいつ、掏摸だ」
暴れる子供の腕を後ろ手にしてつかみ、小路に入ってエルダリオンは周囲を窺った。子供の掏摸には仲間や元締めとなる親方がいると、父親から聞いていたからだ。小路には人影がなく、こちらを窺うような気配もなかったが——、
「……い、こっちだ」
低く押し殺した声とともに、駆けてくる足音が聞こえた。路地から黒いマントを纏った、背の高い男が飛び出してきた。手には抜き身を提げている。顔はよく見えなかった。フードをかぶったうえ、エミン・アルネンで見たイシリアンの野伏のように覆面をしているからだ。
マントの襟元にストーンカメオらしきブローチが見える。盾に四つ葉らしい印は紋章だろうか。掏摸の元締めには見えないが、白昼の街中で抜き身を提げ、顔を覆い隠しているのはまともではない。
「こちらへ渡してもらおう」
殺気の滲む声に、エルダリオンは掏摸の子供を背後にまわした。覆面の上から覗く淡灰色の目の冷たさに寒気を覚える。身震いしそうになるのを堪え、エルダリオンは言った。
「渡すとどうなるんだ?」
男は何も言わず、ただ右手を動かした。剣の切っ先がエルダリオンに向く。シルメギルがさっと剣の柄を握った。二人が睨み合う。そこへ、新たな足音が響いた。
曲がり角からもう一人、黒マントが現れた。剣は抜いていないが、目の前の男と同じく覆面をしている。背はあまり高くないが、マントを羽織っていてもわかるぐらい、がっしりとした体つきだった。身ごなしから、二人とも相当な使い手だということは知れた。
「……仲間か?」
新たにやってきた覆面男は、暗い色の目をこちらに向けるなり訊いた。エルダリオンたちを掏摸の仲間なのかと訊いているのだ。
——冗談じゃない。
エルダリオンは二人の目が逸れた隙に、剣を向けている男の足を思い切り蹴った。掏摸の腕をつかんで小路を飛び出す。
「……のガキ!」
怒声とともに、キィン……と、硬い音が響いた。振り向けば、シルメギルが覆面の片割れと剣を抜き合わせていた。
「シルメギル!」
「ここは押さえます。行ってください!」
しかし、エルダリオンの足は止まった。シルメギルの剣の腕は悪くない。だが、相手の技量はそれを遙かに超えている。彼が敵う相手ではない。しかも、敵は二人だ。時間稼ぎはできるだろうが、間違いなく斬られる。
——見捨てて逃げるのか?
エルダリオンは剣の柄を握った。敵わないことはわかっている。けれど、せめて彼を連れて帰らなければ、隊長に合わせる顔がないではないか。
だが、エルダリオンが加勢に入る前に、シルメギルは主道に弾き出されてきた。よろめいた身体に蹴りを入れられ、尻餅を付く。エルダリオンが剣を抜いて駆け寄ろうとした途端——、
「ピィー!」
石畳を転がったシルメギルが鋭い指笛を鳴らした。遠巻きに集まってきた人々の向こうから、甲冑姿の兵士が駆けてくる。その先頭にシルメギルの従兄の姿があった。覆面組の足が止まる。
「行ってください、早く!」
シルメギルが叫ぶ。エルダリオンは頷き、掏摸の子供の襟首をつかんで走り出した。
[2]>