青嵐[2]
エルダリオンはひたすら走った。第三環状区の門を抜け、石畳の坂道を駆け上がる。振り返る人もいたが、幸い門番に止められることはなかった。このまま駆け上がれるかと思ったが——、
「おい、どこまで行くんだよ! 放せよ!」
第四環状区まで来たところで、半ば引きずるようにして連れてきた子供から抗議の声が上がった。
「聞こえないのかよ! 放せってば!」
はじめは無視していたエルダリオンだったが、子供が暴れ出したため、仕方なく足を止めた。
「腕がもげるだろ! 放せよ、この莫迦力!」
止まった途端、叫び声の勢いが増した。これでは目立ってしまう。とにかく静かにしてもらわねばと、エルダリオンは手っ取り早く子供の口を塞ぎにかかったが——、
「……痛っ」
指に衝撃が走り、思わず手を引いた。噛みつかれたのだ。
「何をする」
子供を建物の壁に押しつけて睨めば——、
「それはこっちの台詞だ。放せって言ってるだろ」
強気な声が返ってきた。灰色の髪の合間から、灰緑色の瞳がぎらりとこちらを睨んでいる。
「放したらどうなる」
「そんなの、お前の知ったことじゃない」
「じゃあ、放さない」
エルダリオンは子供の肩をつかむ手に力を込めた。
「一緒に来るんだ」
「いやだ」
子供は足を踏ん張り、頑迷な声で言った。エルダリオンの身なりは悪くない。とはいえ、素性の知れない者に連れていかれることを考えれば、子供の態度もわからないではない。だが、成り行きとはいえ、こちらは命を救ったのだ。もう少し素直に聞いてくれてもいいではないか。エルダリオンはひたと子供の目を睨みつけた。
「死にたいのか」
子供の灰色を帯びた緑の瞳が微かに揺れた。
「さっきの連中は掏摸を咎める態度じゃなかった」
覆面の二人組を思い出しながら、エルダリオンは言った。あれは掏られた物を取り返しに追ってきた態度ではない。はじめから子供を殺すつもりだった。城育ちで世間知らずの自分にもその程度のことはわかる。
「見つかったら殺されるぞ。次も助かるとは限らない」
それより自分と一緒に来たほうが賢い。少なくとも殺しはしない——そう言うつもりだったが、子供は勝ち気な声を上げた。
「余計なお世話だ。あんなやつらに殺られるほどドジじゃないやい」
エルダリオンは呆れた。
「さっき斬られそうになったばかりだろう」
「お前が邪魔したからだ」
迷いのない口調で言われて、エルダリオンの口があんぐりと開いた。その邪魔があって、助かったんじゃないのか、まったく……。
「邪魔だったと言うならそれでもいいが、あの連中を甘く見るな。何をしたのか知らないが、あれは謝って済む相手じゃないぞ。太刀打ちできないお前が一人でどうするんだ」
呆れながらも、なんとか説得する方向で話したが、返ってきたのはさっきより呆れる言葉だった。
「うるさい。半人前の子供のくせに」
確かに自分は子供だが、明らかに年下らしい者から子供呼ばわりされるとは……。なんで、こんな生意気な子供のために必死になっているのか、護衛を置き去りにしてまで——と莫迦らしくなってくる。それでも、行きがかり上、今さら放り出すわけにもいかない。
「それを言うなら、お前も子供だろう」
「俺は子供でも一人前だ。自分の食い扶持は自分で稼いでる」
「掏摸でか」
投げやりな口調で訊いてやると、相手はぷいっとそっぽを向いた。
「どうだっていいだろ」
本当にどうでもいいと思っていそうな口振りだった。いわゆる“その日暮らし”というやつなのだろう。王都であっても、いや、都だからこそ、そういう者たちも集まってくる——そういうものらしい。この子供もその一人で、格別珍しい境遇ではないのだろう、きっと。
だが、エルダリオンが係わった以上、子供の身は“どうだっていい”ではなくなった。少なくとも、この件で子供が殺される事態は防がねばならない。それに、さっきの覆面男たちはエルダリオンの顔も見ている。ぐずぐずしていたら、二人とも危ない。
「ずっと掏摸で暮らしていくのか」
訊きながら、頭は別のことを考えていた。どうやって子供を保護するか、そのためにも、
——どうやっておとなしくさせるか……。
「お前には関係ないだろ。俺がなんで食っていこうと」
「……そうだな」
そう、確かに今はそんなことを論じている場合ではない。一刻も早く身の安全を確保するべきだ。そのためには——、
「とにかく放せよ!」
ある考えが閃くのと、子供が叫ぶのと、ほぼ同時だった。
「わかった。放してやるよ」
エルダリオンは手を放した。子供がさっと身を翻す。その頭部目がけて、エルダリオンは短剣の柄を叩き込んだ。低い声を発して子供がよろめく。その腕をつかみ、壁と自身で支えて倒れるのを防いだ。
「……死んでないよな」
腕をまわして子供の首筋に指を当てる。トットッと打つ脈にとりあえず安堵する。さっと周囲を見まわし、こちらに注意を払っている目がないこと確かめ、エルダリオンは子供を背負いあげた。
——さて、これからどうする。
エルダリオンは歩きながら考えた。子供を背負ったままでは城には戻れない。第六環状区の門を通るのも難しいだろう。背の子供は「掏摸でござい」という顔はしていないが、掃き溜めから出てきた風体には違いない。
エルダリオン自身は通してもらえるだろうが、その場合、背中の子供は警備兵の手に預けられる。そうなったらきちんと保護してくれるか疑わしい。掏摸の所行をきつく叱られて放免か人足の下働きを命ぜられるか、あとは……。刑罰の種類を思い出しながら、エルダリオンはそれでは駄目だと判断した。
この子供は確かに掏摸だが、殺されそうになっている。下手に放免されれば、翌日には死体になっているかもしれない。そんな寝覚めの悪い思いはしたくない。人足の下働きにしても、安全とは言い難い。父の受け売りでは、ああいう場へ潜り込んで命を奪う者もいるらしい。恐ろしいことだ。となると——、
自分で保護するしかない。
しかし、エルダリオンにはそれだけの力はない。王太子とはいえまだ子供で、臣を動かすだけの力はない。となれば、おのずと結論は決まってくる。エルダリオンの脳裏に幾つかの顔が浮かんだ。
——誰に持ち込むのがいいか。
こういう場合、一番折れてくれそうなところへ持ち込みたくなるが、父に言わせると違うらしい。
——いいか。まったく勝ち目がないならともかく、少しでも勝算があるなら、最初に一番難しいところを押さえるんだ。そこが折れれば、自然と他も折れる。
勝算は……僅かばかりならある。自分の意見が聞き入れられるかは微妙だが、少なくとも子供の身の安全は保証してくれるはずだ。それに、裏に何かありそうな件を任せた場合、発揮される手腕は折り紙つきである。
——第二十七代執政、イシリアン公ファラミア。
幸い、昨日からミナス・ティリスに滞在している。問題は執政館までいかに辿り着くかだが……。エルダリオンの目に古着屋の看板が映った。
——まだ、金は残っていたな。
第一環状区や第二環状区とは違って、第四環状区は古着でも質の良いものを扱っていると、これも父から聞いた。門番の目を誤魔化せるかはわからないが、やれることはやってみよう。ぐずぐずしてはいられない。既に陽は翳りはじめている。日暮れまでに門をくぐらねば、警戒が厳しくなる。エルダリオンは子供を背負ったまま古着屋へ入った。
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