青嵐[17]
白鳥の旗をはためかせた船が見えなくなると、ファラミアは馬で西岸へ渡り、公舘へ向かった。厩舎へ馬を預け、ざっと馬房を見まわす。奥にある二つの馬房が空いていた。馬番に訊くと、今朝早く出かけたきり、まだ帰ってきていないという返事だった。
——こちらが早く着いてしまったか。
向こうが寄り道をしなければ、そろそろ戻ってくる頃だろう。しばらく待とうと外に出たところ、門のほうから蹄の音が聞こえてきた。大小二騎の影が近づいてくる。先にいる小柄な影はファラミアに気づくと、馬の足が止まらないうちに飛び降りた。
「——ファラミア!」
フードがめくれ、王太子エルダリオンの顔が露わになる。
「お見送りになれましたか?」
駆け寄ってきたエルダリオンに尋ねれば、弾んだ声が返ってきた。
「ああ、ありがとう。彼も気づいたようだ。手を振ってくれた」
飛びつくような勢いでファラミアの手が握られる。余程うれしかったのだろう。エルダリオンの頬は軽く上気していた。ファラミアの口許が自然と綻ぶ。
「それはよろしゅうございました」
うん、と頷いた王太子の前にファラミアは膝をつき、改まった口調で言った。
「殿下、カレンミスから伝言があります」
「伝言?」
「ええ、『王太子もご健勝で』と」
エルダリオンの目がハッと見開かれた。一瞬くしゃりと笑顔になったが、すぐに改まった表情になった。両親譲りの青い瞳がまっすぐにファラミアを見る。
「ファラミア。今回のことでは世話になった。礼を言う」
「殿下に喜んでいただけたなら何よりです」
絵具の一件以来、エルダリオンはあの子供に会っていない。名前の候補は幾つか考えてもらったが、それを子供に伝えたのはファラミアだった。折々に子供の様子は報せていたが、顔を合わせることはなかった。
冷たいようだが、王太子には距離を置いてもらわねばならなかった。微行中の王族の前で危難に遭えば、たやすく親しくなれるなどという前例をつくるのは危険だ。王族に近づく手段として好都合だと噂が立つのは甚だよろしくない。
カレンミスが掏摸だったことを考えれば、執政職にあるファラミアが保護し、大公家に連なるアムロソスが後見人になっただけでも破格の待遇だろう。
アムロソスにはカレンミスが掏摸だったことは話したが、エルダリオンが彼を拾ったことは話していない。秘密を知る人間は少ないほうがいいからだ。だが、それゆえに、アムロソスがカレンミスの様子をミナス・ティリスへ報せることはなくなる。
つまり、エルダリオンとカレンミスのつながりは途絶えるのだ。まったく消えるわけではないだろうが、これまでファラミアが伝えていたような詳しい情報を、エルダリオンは手に入れられなくなる。
ファラミアもカレンミスの消息を知ることは次第に難しくなっていくに違いない。しばらくの間なら、アムロソスはファラミアへ様子を報せてくれるだろう。それとて「元気にやっている」程度のもので、手許に置いていたときのように詳細に知ることはできない。カレンミスがドル・アムロスの生活に馴染めば、やがてそういった便りもなくなる。それが普通だ。いつまでも事細かに様子を知りたがるほうがおかしく、そこまで気になるならファラミア自身が手許で育てればよかったと言われかねない。
カレンミスがドル・アムロスに移ると知っても、エルダリオンは会いたいと言わなかった。しかし、言わないからといって、望んでいないわけではない。エルダリオンが自ら保護した子供の行く末を気にかけているのは明らかだった。「会わせてくれ」と言わないのは、若年ながら王族としての立場を考え、気持ちを抑えていたからだ。
そういう面では、父王であるエレスサールのほうが余程“わがまま”である。エレスサールは王の立場で動けないとなると、一人で勝手に動く。元・野伏の長だった彼には誠にやっかいなことに、衛兵に気取られることなく城を抜け出す技量がある。
そんな破天荒な父王と異なり、王族の自覚を持つ王太子の抑制は臣下としてありがたいものだ。だが、今回の場合、少々いたわしくもあった。これで二人の今生の別れ——になるとは限らないが、再び会える保証はない。堂々と会うのは無理でも、せめて影から見送れるよう取りはからうことができたらと思った。
出航の予定が決まると、ファラミアは航路とアンドゥイン周辺の地理を調べた。人目に付かずに見送りできる場を探して——。
そうして白羽の矢が立ったのが、あの灯台の建つ岩場だった。船上の人物をかろうじて認識できると聞き、王太子の見送りの場として取りはからった。当然のようにエレスサールが同行するのには目を瞑った。
仕上げはファラミアが、できる限り灯台寄りの航路を取ってくれるよう船長に依頼することだった。灯台があるということは、その周囲は船にとって危険な場所ということだ。下手に接近すれば座礁してしまう。だが、船長は快諾してくれた。
船上のカレンミスもエルダリオンの見送りに気づいたというなら、船長はかなり灯台に寄ってくれたのだろう。ひょっとしたらアムロソスに気づかれたかもしれないが、エルダリオンの弾むような喜びようの前では大した問題ではない。ファラミアは胸の内で船長へ感謝の言葉を述べ、立ち上がった。
エルダリオンの肩に、彼が乗ってきた馬が鼻面を寄せる。笑って馬を振り返ったエルダリオンは、轡を取ると厩舎へ歩いていった。
「ファラミア。わたしからも礼を言う」
エルダリオンと共に駆けてきたもう一騎の乗り手——エレスサールが言った。
「今回は……いや、今回も大いに助けられた。感謝する。ありがとう」
国王らしからぬ腰の低い言葉にファラミアは微笑んだ。
「わたしは当然のことをしたまでですよ」
「あなたはいつもそう言うな」
エレスサールが苦笑した。
「今回のことは、わたしも楽しませていただきました」
エレスサールがおや、と言うように首を傾げる。
「殿下の成長ぶりがうかがえて、頼もしくなりました。さすが陛下の御子であらせられると」
「……ファラミア、誉めてないだろう」
エレスサールが息を吐く。ファラミアがくすりと笑ったとき、後ろから軽い足音が聞こえてきた。
「——父上」
厩舎からエルダリオンが走ってくる。
「午後から見に行くのは、さっき通った場所?」
国王父子のオスギリアス訪問は“港湾施設の視察”が目的になっている。カレンミスの見送りのためだけに、王と王太子を連れ出すわけにはいかなかったからだ。
「いや、別のところだ。先月、修理を終えた船渠を見に行く。その前に着替えて食事だ。ほら——」
エレスサールが公館の入り口を指した。若い男の姿が見える。王太子付きの侍従だ。
「侍従が待ってる。行ってやれ」
ぽん、とエレスサールの手が王太子の背を押した。頷いたエルダリオンが駆けていく。後ろ姿はまだ小さな背中だが、着実に時代は動いているのだとファラミアは感じた。
今回の騒ぎは、一歩間違えばテルコンタール王朝を揺るがす嵐になる恐れがあった。なにしろ、最初の襲撃時に成り行きとはいえ王太子が係わっていた——しかも、危うく斬られそうになっていたのだから、事は重大だ。その後の主君父子の勝手な振る舞いにもきっちり苦言を呈した。それでも今のファラミアの心を占めているのは温かな気持ちだった。この一件はエルダリオンを成長させただろうと。
「これからも、あの子は騒ぎを起こすんだろうな」
舘へ向かって歩きながら、苦笑交じりにエレスサールが言った。子供とはそういうものだ——ということぐらい、エレスサールもわかっているだろう。だからファラミアは別のことを口にした。
「嵐も悪いことばかりではありませんよ」
「あの子は嵐か」
苦笑したエレスサールだったが、すぐに「そうだな」と頷いた。
「悪いことばかりじゃない」
そう言った主君の視線の先で、エルダリオンが振り返った。こちらに手を振った顔は夏より大人びて見えた。
END.

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