青嵐[16]
アンドゥインの水面に朝霧が漂い、オスギリアスの岸辺を白く染めていた。対岸が見えない。その霧の中、東岸の埠頭では幾つかの船が出航準備をしていた。そのうちの一隻にゴンドールの執政、ファラミアの姿があった。
甲板を歩いてくる軽い足音に振り返ると、小さな姿が近づいてくるのが見えた。フードの下に意志の強そうな灰緑色の瞳が覗いている。エルダリオンが彼を拾ってから三月余り、季節は冬に移ろうとしていた。
「なあ、こんな霧の中、船を出すのか?」
「出航する頃には晴れる」
ファラミアが答えると、彼は「ふ〜ん」と疑わしそうに辺りを見まわした。出会った頃に比べれば言動は穏やかになったが、敬語を身に付けるまでには至らなかった。
「向こうで誰彼構わずそんな口の利き方をするなよ、カレンミス」
「わかってるよ」
生意気な調子で答えた子供だったが、その顔に照れくさそうな笑みが浮かんだ。
「なんか……カレンミスって呼ばれることには慣れたけど、それでもまだおかしな感じがする」
カレンミス——エミン・アルネンへ移る際、名前を与えた。エルダリオンが考えた幾つかの候補から、本人が選んだ。選ぶときはあまり乗り気な様子ではなかったが、悪い気はしていないらしい。名付けた当初は呼ばれても反応が遅れていた。すっかり馴染んだように見える今でも、本人は違和感を感じているようだ。
「そのうち“おかしな感じ”も無くなる」
ぽんと肩を叩くと、カレンミスは無言で頷いた。
「ファラミア殿」
声とともに重い足音が近づいてきた。現れたのはドル・アムロスの大公エルフィアの弟、アムロソスだった。前の大公イムラヒルの三男であり、ファラミアの従兄弟にあたる。彼がカレンミスの後見人になる。
二ヶ月前、ミナス・ティリスを訪れた彼に、カレンミスの絵を見せたところ、いたく気に入った様子で、すぐにでも引き取りたいと言われた。しかし、当時のカレンミスはようやく態度を軟化させはじめていた頃であり、環境が変わることにファラミアは慎重だった。またカレンミス自身、遠く離れた土地へ行くのは気が進まないようだった。
ただ、カレンミスのドル・アムロス行きそのものには、ファラミアは賛成だった。単にカレンミスを育てるだけなら、ファラミア自身が後見人になってもよかったのだ。だが、ファラミアは彼をエミン・アルネンで成長させる気はなかった。
彼はミナス・ティリスで掏摸を働いていた。そういう人間が名前を変え、新たな人生を踏み出すには土地を移ったほうがいい。周囲の人間が過去を知らない遠い土地へ。エミン・アルネン——イシリアンではミナス・ティリスに近いのだ。ドル・アムロスならちょうどいいと思ったが、本人がその気にならなければ、遠くへ連れ出したところで上手くいくはずがない。
時間が欲しいとアムロソスに伝えたところ、彼はその後、頻繁にイシリアンに顔を出すようになった。数日間泊まることも珍しくなく、カレンミスの乗馬にも付き合っていた。
ドル・アムロスの大公家は家格の割に気取らない性格の人間が多い。アムロソスもその例に漏れず、カレンミスの生意気な口の利き方をおもしろがって、ファラミアより咎める回数は少なかった。そうするうちにカレンミスはアムロソスと接することに慣れ、ドル・アムロス行きを前向きに考えるようになった。アムロソスの作戦勝ちである。
「早いですね。アムロソス殿」
出航まではまだ時間がある。ファラミアはカレンミスにひと通り船の中を見せておくために早く来たが、船の所有者であるアムロソスは出航間際に来ても問題ないはずだった。
「ファラミア殿こそ」
人懐こい笑顔で応えてから、アムロソスは周囲を見まわして言った。
「それにしてもすごい霧ですね」
ゴンドールでも南の出身である彼には珍しい光景なのだろう。
「直(じき)に晴れましょう」
「船長にもそう言われました。彼は元々こちらの出身でして……」
船の乗組員はすべてドル・アムロス大公家の人間だが、出身は多様らしい。船を操る者は、船と同じように一処(ひとところ)に留まらないのか、尋ねてみるとさまざまな土地の名が返ってくる。
「わたしより余程詳しい。しばらくは穏やかな天候が続くだろうから、順調にドル・アムロスに着くだろうと申しておりました」
「それはよかった」
ファラミアが答えたその語尾に「くしゅん」と、小さなくしゃみが重なった。隣を見れば、カレンミスが肩を震わせて「……っくしょん」とまたくしゃみをした。
「寒いのか?」
旅の前である。体調が悪いのは問題だと思って訊いたが、顔を上げた子供は「平気だ」と言った。
「ちょっと鼻がむずかゆかっただけだ」
「それならいいが、船で具合が悪くなったら、きちんとアムロソス殿に知らせるのだぞ。絶対に無理はするな」
ファラミアは少し屈むと、カレンミスの肩に手を置いて言い聞かせた。この子供の強情さは短期間で十分に知った。下手に意地を張って悪化したら、船上ではそのほうがやっかいなことになる。薬師は同乗しているが、陸上と同じ手厚い看護ができる保障はない。だが、それをわかっていない子供は呆れた顔をした。
「あんた……変なとこで過保護だな」
「船旅を甘く見るなと言っているんだ」
ファラミアは厳しい声で言った。
「早めに対処しないと手遅れになる。お前一人の問題ではない。この船の中で数日間、一緒にいるんだ。悪い流行り病だったら乗組員が全滅するぞ」
ドル・アムロスまでの数日間でそんな大事にはならないだろうが、大袈裟に脅すぐらいでちょうどいい。
「……わかった」
自分一人のことだけでは済まないと悟ったからか、それとも乗員に全滅されたら船がどうなるかわからないという恐怖からか、カレンミスは少し怯んだ表情で頷いた。
「変だと思ったらちゃんと言う」
ファラミアはふっと息を吐くと、アムロソスを振り返った。
「アムロソス殿。こんな調子だが、どうぞよろしく」
「ああ」
アムロソスは小さく笑って頷いたが、ふと何事か思いついたように「そうだ、カレンミス」と言い、懐から袋を取り出した。
「君、船は初めてだろう? もう少し経ったら、これを服んでおくといい」
アムロソスは袋から小さな箱を出し、蓋を開けた。丸薬が見えた。
「酔い止めだ。一錠、服めば効く」
そう言って、箱ごとカレンミスの手に握らせる。
「……ありがとう」
箱をおずおずと受け取りながら、カレンミスが礼を言った。三ヶ月前のことを思えば、礼を言うようになっただけでも進歩である。
「船の中は見たかい?」
アムロソスがにっこり笑ってカレンミスの顔を覗き込む。
「まだ」
カレンミスは首を振った。
「さっき来たばかりだから……」
アムロソスに慣れたと言っても、カレンミスの態度はまだ硬い。だが、アムロソスは屈託なく笑うと、カレンミスの背に手を添えた。
「じゃあ、案内しよう」
保護者役がすっかり板に付いている。彼はにこやかにカレンミスを促しながら、ファラミアを振り返った。
「ファラミア殿は?」
「わたしは……」
ファラミアは返事を躊躇った。元々、自分がカレンミスに船内を見せるつもりでいた。だが、船主のアムロソスが案内するなら、その必要もない。とはいえ、ファラミアが同行したところで、邪魔にはならないだろう。
—— 一緒に行くか。
返事をしようとしたとき、カレンミスが振り返った。灰緑色の瞳に僅かな不安の色が見えた。アムロソス相手にはまだ態度の硬いところがある彼は、ファラミアと離れるのが心細いのだろう。
それを見て、ファラミアの心は決まった。もうひとつの用を片付けるべく、アムロソスに訊いた。
「少し船長と話をしても?」
早めに船に来たのは、船長にも話があったからだ。
「どうぞ。さっきそこで——」
アムロソスが岸側の船端を指した。
「港の事務方と話していましたよ。まだ近くにいるでしょう」
ファラミアは頷き「また後で」と手を振って踵を返した。船を下りる手前で振り返ると、薄れてきた霧の向こうから、灰緑色の瞳がまだこちらを見ていた。
カレンミスがファラミアに懐いていたかと言えば、とてもそうは言えない。それでも接した時間が他の人間より長い分、打ち解けた雰囲気があったのは確かだ。ファラミアとしゃべるときは虚勢や緊張の様子が見られなくなっていた。思い返してみれば、細かな用向きも聞いてきた気がする。多くは文句交じりであったが……。
けれど、あと少しで別れが来る。船が出てしまえば、ファラミアは力になれない。アムロソスが彼の保護者だ。ならば、二人でいることに慣れさせたほうがいいだろう。
ファラミアは足早に船を下りると、船長を捜した。
◆◇◆◇◆◇◆
ファラミアが港の事務所で船長と話をし、彼と共に船へ戻ってくると、景色に光が刺してきた。霧が晴れてきたのだ。
甲板に上がると、アムロソスとカレンミスが船内から出てくるのが見えた。ちょうど一周してきたところらしい。こちらを見上げる灰緑色の眼差しに、船内の感想を訊いてみた。
「どうだった?」
「船の部屋って狭いんだな。……まあ、昔の俺のねぐらよりはマシだけど」
意外そうに漏らしたカレンミスだったが、元・場末の掏摸らしい語尾がおかしかった。それに、狭さに落胆したわけでもないらしい。
「吊り床で寝るのはおもしろそうだ」
彼なりに船の生活に興味を持ったようだ。
「後でマストの見張り台にも登らせてくれるって」
「それはよかったな。だが落ちるなよ」
「そんなヘマはしねぇよ」
生意気な返事に、軽く灰色の頭を叩く。隣でアムロソスが小さく笑った。
「酔い止めは服んだか?」
「ああ、さっき服んだ」
そんなことを話しているうちに、甲板の上に人が増え、慌ただしくなってきた。本格的な出航の準備がはじまったのだ。
「そろそろお暇したほうがよさそうですね」
辺りを見まわしてファラミアは言った。これ以上いては、準備の邪魔になりかねない。
「アムロソス殿。良い旅を」
航海の無事を祈る言葉をアムロソスに贈り、背をかがめてカレンミスの顔を覗き込んだ。
「元気でな」
しっかりやれと、ぽんと肩を叩いた。
「ああ、うん……」
灰緑色の目がすいと逸れた。ここで別れるとわかっても、意地っ張りの少年は素直に別れを惜しむ心を表に出せないのだろう。もとより、ファラミアもまともな返事など期待していない。そのまま踵を返そうとした、そのとき──、
「あ、あんたも……」
上擦った声が聞こえた。ファラミアの足が止まる。頬を赤くした少年が俯いた。
「ファ、ファラミア公も……お元気で」
俯いたまま、カレンミスは言った。
「それと……王太子にも、ご健勝でと……」
思いがけず、エルダリオンへの言葉を聞き、ファラミアは瞠目した。「ご健勝で」などという言葉をどこで覚えてきたのか。ふとアムロソスへ目を遣ると、彼はいたずらっぽく片目を瞑ってみせた。どうやら入れ知恵したのは彼らしい。ファラミアは微笑し、カレンミスの肩に手を置いた。
「承知した。お前の気持ち、確かに殿下にお伝えする」
カレンミスの頭がこくりと動いた。その灰色の頭に話しかける。
「カレンミス、お前は目がいいだろう。出航したら、あの——」
と、ファラミアは流れの先にある灯台を指した。おずおずと灰色の頭が動き、灰緑色の眼差しがファラミアの指先を追った。その先で灯台の炎が消えていく。霧が晴れたので火を消したのだろう。炎の代わりに薄い煙が立ち上った。
「灯台の近くを通る。柱の表面にウルモの像が彫られている。名工の作だ。よく見ておくといい」
唐突な物言いに、カレンミスが訝しげに眉を顰めた。それでも名工の作という言葉に興味を持ったのだろう。「わかった」と頷いた。ファラミアも頷きを返し、今度こそ船を下りた。
やがて錨が巻き取られ、白い帆が広がった。櫂が動き出す。甲板で手を振る小さな姿があった。霧が晴れたその頭上には青空が広がっていた。まるで少年の門出を祝うように。
ファラミアも静かに手を振り返し、遠ざかっていく船を見送った。
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