Visiting day【Painting】 【Archery】 【Race】

Visiting day【Archery】
丘を登ったところで、エルボロンは馬の足を止めた。アンドゥインの向こう、淡い朱色に染まりつつある空に白い塔がそびえている。白の都、ミナス・ティリス。イシリアン公である父ファラミアが仕える主君、エレスサール王の住まう都だ。
エルボロンは父があの都を見る眼差しが好きだった。と、同時に羨ましくもあった。あんな目が出来ることに。それに応えるように、青灰色のやわらかな眼差しが父の上に注がれることも——。
「公子、陽が暮れます。戻りましょう」
随行者の言葉にエルボロンは頷き、馬の腹を蹴った。いくらも経たないうちに壮麗な館が迫ってくる。エミン・アルネンで知らぬ者はいないイシリアン公の館だ。門をくぐり、厩舎へ向かう。すると、出かける前まで空いていた場所に馬が収まっていた。一番奥の柵には葦毛の馬が収まっている。父の馬だ。
「殿がお戻りになったようですね」
執政職を兼ねる父は、月の半分ほどを国王のお膝元ミナス・ティリスで過ごす。母の話ではエルボロンが生まれて以降、エミン・アルネンに留まる日数のほうが多くなっていたらしい。しかし、それもエルボロンの成長とともに変化し、二年程前からは、しばしば滞在日数が逆転するようになった。父曰く、ミナス・ティリスには子供より手のかかる王がいる——そうだ……。
馬の手入れを終えて裏口から館に入ると、厨房から良い香りが漂ってきた。いつになく活気のある声も聞こえてくる。“館の主”の帰還を喜んでいるのだろう。エルボロンは夕食の前に父への挨拶を済ましておこうと足を速めた。近道に中庭を突っ切ったところ、回廊で母のエオウィンと行き会った。
「お帰りなさい。エルボロン」
「ただいま。父上は?」
「お帰りになっているわ。けど、お客様がおいでよ」
帰ったばかりで来客とは忙しいことだ。それとも、ミナス・ティリスから一緒だったのだろうか。客は誰かと尋ねると、母は肩をすぼめた。
「弓の先生よ」
エルボロンは眉を顰めた。弓術の教師はオスギリアスに居を構えている。腕は良いのだが、それ以上に名誉欲が強く、はっきり言ってエルボロンは好いていなかった。父を訪ねてきたのも何が目的かわかったものではない。もっとも、自分が心配するような策に嵌る父ではないが……。
そんなことを思っていると、廊下の向こうを人影が通った。噂したばかりの弓術の教師だ。見送りに出てきたのは書記官だろうか、父の姿はなかった。
「お話は終わったようね」
「父上は、書斎?」
「いえ、応接間でお会いになったから……」と、母が言いかけたとき——、
「後ろにいるよ」
背後から声がかかった。振り返れば背の高い、やわらかな金の髪と碧い瞳の男が立っていた。
「殿、驚かさないでください」
「すまない」
そう言って微笑んだ姿は柔和な貴族としか見えない。しかし、実態は違う。大国ゴンドールの執政官であり、主にさえ「敵わない」と言わせる能吏である。そしてエルボロンの父だった。
「父上、お帰りなさい。ミナス・ティリスはいかがでした?」
「相変わらずだよ。エルボロン」
父の腕がエルボロンの肩を抱き寄せた。
「お前も出かけていたんだって?」
「はい。馬で丘を一周してきました」
「ずいぶん慣れたな。今度一緒に遠乗りに行くか」
「はい!」
思わず声が弾む。なにしろ忙しい人だ。一緒に過ごせる機会を逃す手はない。しかし——、
「ああ、その前に、弓術の大会を見に行かねばならないな」
続いた言葉にエルボロンは顔を曇らせた。あの教師の用はそれだったのだ。自分は黙っていたのに……。
「あら、大会があるの? エルボロン」
「大会というわけでは……」
「違うのか? 弓合わせにご子息が出場するから是非にと、そう誘われたぞ」
エルボロンは舌打ちしたくなった。
「そんな……大きな競技会というわけではありません」
弓術を教えている教師数人が弟子を集めて開く、競技会と呼ぶのもおこがましい内輪の集まりだ。けれど、弟子の多くが貴族の子息であるため、観客にそうそうたる顔触れが揃う。
教師たちの狙いはそちらであり、弓合わせはいわば有力者への売り込みの場なのだ。腕の良い出場者は彼らが自慢するための道具になる。弟子だから道具に使われるのは仕方ないと思うが、多忙な父をそんなつまらない場に連れ出すのは避けたかった。
「何を言う。競技会の大小は問題じゃないだろう。重要なのはお前が出ることだ」
教師の思惑を知ってか知らずか、父は笑ってエルボロンの肩を叩いた。
「そうよ。エルボロン。ねぇ、いつあるの?」
「十日後の午後、オスギリアスと聞いたが……」
父の言葉にエルボロンが頷くと、母が「あら、残念」と声を上げた。
「その日はお茶会に招かれているのよ。断ろうかしら」
「は、母上……」
お茶会は父の部下の夫人たちの集まりだ。彼女たちの社交の場に母が顔を見せることは、父が領地を治める助けになる。気軽に断っていいものではない。
「エオウィン。もう返事をしたのだろう。行っておいで。弓合わせのほうはあなたの分も見ておくから」
「仕方ないわね。殿にお任せするわ。その代わり、エルボロン、練習に付き合っても良い?」
エルボロンは頷いた。母は馬の司の国出身で、馬の扱いに秀でているのはもちろん、武芸全般も得意だ。
「わたしも時間が空いたら付き合うよ」
父の手がくしゃっと髪を梳くように頭を撫でた。母の手が肩を抱く。
「よかったわね。殿は弓の名手よ」
「はい」
両親二人のあたたかい手を感じながら、エルボロンは幸せな気分で頷いた。
◆◇◆◇◆◇◆
アンドゥインを挟む街、オスギリアスの上には清々しい青空が広がっていた。大河の流れを見下ろす射的場には多くの人々が集まっている。弓合わせそのものは十代の少年が矢を射るだけで、注目を浴びるような競技会ではないが、観客の顔触れは華やかなものだった。彼らに興味を持つ人間が幾人も桟敷を渡り歩いている。エルボロンの師の姿もあった。
——残念だったな。
エルボロンは胸の内で呟いた。父であるイシリアン公ファラミアは来ていない。エミン・アルネンまで押しかけてきた教師の努力は報われなかった。このまま来ないだろう。いや、来ないのではない。来られなくなったのだ。
一昨日の夕方、ミナス・ティリスから使いが来た。その夜、父の様子は特に変わったふうでもなかったが、翌朝、数騎を連れてミナス・ティリスに発った。城で何事かあったのだろう。エルボロンに詳細がわかるわけもないが、昨日の朝発って、今日オスギリアスに現れるとは思えない。
「ふぅ……」
——まだまだ子供だな。
エルボロンは唇をゆがめた。父が重職の身だということも、多忙だということも重々承知しているはずなのに、期待して舞い上がり、今がっかりしている。
——いや……。
自分は今も心の隅で期待しているのだ。ひょっとしたら来てくれるのではないかと。なぜなら、父は出来ない約束はしないから。無理そうだと判断したなら、出発前にエルボロンに断っているはずだ。
こうしてつい期待してしまうのは、父が今までエルボロンとの約束を破ったことがないからだ。母に聞いたのだが、父は子供との約束だけは守ると決めているそうだ。親が約束を破っておいて、子供に守らせるのは難しいという教育上の理由らしい。立派な心がけだが、実践する人は珍しいと、当の子供ですら思う。
「エルボロン」
桟敷を眺めているところを、同じ師に付いている仲間に呼ばれた。自分の番がまわってきたらしい。
——どうやら、初めて約束を破ることになりそうですね、父上。
ミナス・ティリスにいるであろう父に心の中で呼びかけながら、エルボロンは弓を手に示された位置へ静かに足を踏み出した。呼吸を整えて弓を構える。ゆっくりと弦を引き、さっと矢を放った。ヒュッと弓弦が鳴る。
——真ん中……じゃないな。
けれど、いい位置だった。もう一回ある。エルボロンは再び矢をつがえた。
——慌てるな。
父の言葉が頭の中でこだまする。構えは悪くない、引くのを急ぐからブレるのだと言われた。戦場でのんびりしていては命取りだが、試合では慎重なくらいでちょうどいいと。
——それと、当てることばかり考えるな。引いて放つ、それだけに集中しろ。
ぎりぎりまで弦を引き絞り、エルボロンは手を放した。
ヒュン……。
一拍置いてタンッと高い音が響く。ワッと歓声が上がり、拍手が鳴った。
「腕を上げたな」
射場から下がったところで、仲間に声をかけられた。
「緊張した」
エルボロンは額の汗をぬぐった。たった二回射っただけなのに、くたくたに疲れていた。
「先生が喜ぶぞ。自分の手柄だと」
そう言われて、エルボロンは慌てて辺りを見回した。
「こっちに来たか?」
「いいや、桟敷にいる」
見ろ、というように彼が目を動かした。視線を追うと、なるほど、桟敷席で身なりの良い人物に熱心に話しかけている師の姿があった。
「今頃、あの名手は自分の教え子です。是非、ご親類やお知り合いのお子様もわたくしめに——と、売り込んでいる最中だろ」
エルボロンは仲間の物真似に吹き出し、ほっと息を吐いた。いつもなら適当にやり過ごせるが、今、あの功名心の強い御人の相手をする気分になれなかった。それくらい疲れていた。
「ちょっと休んでくるよ」
「どうした? 具合が悪いのか?」
「大丈夫だよ。ちょっと疲れただけだ」
エルボロンは軽く手を振って、その場を離れた。射的場の隅から川岸へ出る。大河を 渡ってくる風を胸に吸い込み、ふうっと吐き出して、ようやく落ち着いた気分になった。あまり姿を眩ましてはいられない。桟敷にいる随行者が慌てる——と思いながらも、もう少しこの場所にいたくて、エルボロンは腰を下ろした。途端——、
「どうした? 真ん中を射抜いたにしては元気がないな」
いないはずの人の声が聞こえた。ぎょっとして振り返れば、濃緑色のマントを羽織った背の高い男が立っていた。
——そんな……来られないはずだ。
エルボロンが信じられない気持ちで立ち上がると、男はフードを取った。碧い瞳が現れ、やわらかな金色の髪が風になびいた。
「父上……」
にこりと父が笑った。
「見事だったぞ」
——見ていてくれたのだ。
エルボロンは礼を叫びながら、父親に飛びついた。
「遅くなってすまなかった」
「いいえ。ちゃんと見に来てくださった」
「なんとかお前の番に間に合って良かった。本当はもっと早く来られるはずだったんだが、弓合わせのことを話したら、自分も行くと言い張って聞かない人がいて……。おかげで遅れた」
——言い張って聞かない人……?
エルボロンが首を傾げると、父が射的場の脇の木を振り返った。すると、木の陰から灰緑色のマントを纏った細身の人影が現れた。
「そういう人聞きの悪い言い方をしないでくれ。ファラミア」
穏やかな声が響く。
——まさか……。
エルボロンがぽかんと口を開けている間に、痩身の人物はゆっくりと近づいてきた。フードの影から緩やかにうねる黒髪が覗く。
「来て良かった。おかげで良いものが見られた。素晴らしい腕だな。エルボロン」
やさしい青灰色の瞳がエルボロンを見ていた。
「あ、はいっ。ありがとうございます」
慌てて礼を言い、それでエルボロンはエレスサールに誉められたことを実感した。かあっと頬に血が昇る。つい先程まで、脱力するような疲れを感じていたのが嘘みたいだ。鼓動が早くなっていくのを抑えようしていると、更に驚く言葉が王の口から飛び出した。
「ファラミア。ご子息を食事に誘いたいんだが、いいかな? ——ああ、もちろん、父兄同伴で」
エルボロンは父の顔を凝視した。どくんどくん……、脈打つ音が外に聞こえているのではないかと思うほど大きくなる。
「それならば、ご夕食を我が家でいかがですか?」
「喜んで」
信じられない気持ちで二人のやり取りを見守っていると、父が「エルボロン」と呼んだ。
「はい」
「陛下をエミン・アルネンにお招きしても良いか?」
「はいっ!」
「では、弓術の教師に暇乞いをしてこよう」
父はそう言うと、射的場の方を向いて軽く右手を挙げた。どこにいたのか、野伏の装束を纏った男が現れた。父は何事か囁くと、足早に射的場へ入っていった。
「厩舎でお待ちくださいとのことです」
「そうか。——エルボロン、行こう」
「はい」
エレスサールに促され、エルボロンは歩き出した。
「ファラミアに聞いたんだが、乗馬もずいぶん上達したそうだね」
「長く乗っても疲れなくなりました。今日、ここへも自分で来られました」
今までは途中で疲れてしまい、休憩を入れたり父の鞍に乗せてもらったりしてきた。それがオスギリアスまで来られるようになった。
「今度はミナス・ティリスまで行きたいと思います」
「それは楽しみだ」
エレスサールがにっこり笑った。
「けれど、来るときはお父上には断ってくれ。わたしが唆したと叱られてしまう」
いたずらっぽい表情で片目を瞑られ、エルボロンは顔が熱くなった。返事も出来ず、顔を俯けてしまいそうになる。そこに青灰色の瞳が間近に迫ってきた。
「ところで、エミン・アルネンまでの伴走を公子にお願いしたいのだが、引き受けていただけるかな?」
澄んだ青い色に引き込まれる……、不思議な感覚。
「エルボロン?」
首を傾げて問われ、エルボロンは慌てて返事をした。
「は、はいっ、お伴させていただきます」
「よろしく」
あたたかな手がエルボロンの肩に置かれた。微笑を浮かべる麗人の肩越しに、晴れ渡った空が見える。その真っ青な空へ、エルボロンの心は駆け上っていった。
END
執政家の父親参観をお送りしました。
父親参観だというのに、陛下がタラシ込んでいるようなオチになっていて恐縮ですm(_ _)m けれど、

アラ受ですから。<開き直るな

……って、すみません。単に登場させたかっただけです。何とぞご寛恕のほどを……。

それと、弓を射るくだりはいい加減です(汗)。管理人、弓矢なんてものに縁がありませんので……。

弓術に関してチラッと調べたのですが、日本の武道は型を繰り返して精神を鍛え、やがて無我の境地に到達……というか、心技体の三拍子揃って本物という面がありまして、技を競うのとはちょっと違うようで……。どうやったら上手く的に当たるか、どう構えると良いか、なんて俗なことはわかりませんでした(^^;)
的を射ることを一人で行う弓道は、相手がある柔道や剣道より、更に“己に克つ”というような精神修養の面が強いのかなと思いました。