Visiting day【Painting】
朝議を終え、議場を後にしたエレスサールは余裕のない足取りで歩き出した。無理も無い。この後、彼を待ち構えている“仕事”がある。ファラミアは小走りで主君に追いつき声をかけた。
「書類は執務室に運んでおきます」
「ああ、ありがとう。——それにしても、毎日顔を出していたのが裏目に出たな」
エレスサールがため息を吐いた。そんな主の表情にファラミアはくすりと笑う。
ゴンドールとアルノール、二国を統べる偉大な王の足を急かせ、ため息を吐かせているのは、いつものような諸侯や官吏ではなく、まだ幼い第一王位継承者、エルダリオンだった。
国王の生活は多忙なものだが、エレスサールは日に一度、必ず王太子と過ごす時間をつくっていた。自身が幼くして父親を亡くした影響もあるのだろう。わずかな時間しか取れないときもあったが、なんとか都合をつけて顔を見せる様子は、
——わたしのところにも、同じくらい足繁くお通いになっていただきたかったわ。
と、夕星の王妃にからかわれるほどだった。
しかし、ここ最近の忙しさは如何ともし難く、朝議やその他の会議、臣下との面会以外、エレスサールは執務室に閉じこもりきり……というか、籠もらざる得なくなった。
当然、父親が姿を見せなくなったことを幼い王太子は淋しがった。それでも当初は「お父様はお仕事でお忙しい」という言葉に頷いていたらしい。だが、父王の留守が六日続いた昨日、王子の機嫌は限界に達した。
世話係と一緒に絵を描いていた折り、いきなり「ちちうえは、ぼくがきらいになったんだ」と泣き出したという。それからはいくら世話係が宥めてもおさまらず、最後には「ぼくより“おしごと”のほうがいいんだ!」と、「あたしと仕事とどっちが大事なの!」と迫る恋人並みの台詞まで飛び出したそうだ。どうやら、画紙の中にエレスサールが線を描いたものがあり、それが引き金になったようだ。
その場は夕星の王妃の登場でなんとかおさまったが、今朝は寝起きから「きょうもちちうえはいないんだ」と目に涙を溜め、食事もロクに取らなかったらしい。これには世話係のほうが焦った。
——お願いでございます。なんとか、殿下にお会いするお時間をつくっていただけませんでしょうか。
朝議の前、決死の形相の男が一人、執務室に飛び込んできた。我が子の起こした騒動をエレスサールは真剣に聞き、おもむろにファラミアのほうを振り向いたのだった——時間は取れるかと。
朝議の後に入っていた面会を、ファラミアが代理で引き受けることで予定を調整し、エレスサールは王太子の様子を見に行くことが決まった。
貴族の子息を教育する師の中には、父親に講義の参観を仕切りに勧める者がいる。親が関心を示すことで子供が向上心を発揮するというのが彼らの説だ。エルダリオンの父王への懐きようを考えると、エレスサールの関心の高低が次期継承者の向上心に大きな影響を及ぼすのは間違いない。王太子が勉学を本格的に学ぶようになったら、参観を定期的に国王の予定に組み込むのも良いかもしれない。
「昼は将軍たちと会食だったな」
「はい」
「解放してくれればいいが……」
不安げにエレスサールが呟く。
「お時間になったらお迎えにあがりますよ」
自分が姿を現せば、幼い王子にも父親は“おしごと”だということがわかる。ファラミアは“ちちうえをつれさるワルモノ”になり、当然のごとく王子に嫌われるわけだが致しかたない。憎まれ役を引き受けるのも仕事のうちだろう。
「……世話をかける」
「とんでもありません。殿下のお気持ちはわかりますよ」
後宮に勤める者の話では、エルダリオンはエレスサールの声が聞こえると駆け出していくという。それくらい父親に懐いているのだ。ぱったりと顔を見せなくなっては淋しいだろう。大人にとってはわずか六日でも、子供が待つには長い日々だ。
「しかし……結局は子供のわがままだ。今回のことでわがままが通ると思わせてしまっては……」
エレスサールが心配そうに言った。次から次へとわがままを許していたら、後継者が暴君になってしまう——国を背負う者としては当然の心配だが、ファラミアはその思いを払拭するように笑った。
「心配なさることはありませんよ。殿下はお年の割に聞き分けが良くていらっしゃいます。たまのわがままだから、周囲の者も折れたのですよ」
「それならいいが……」
後宮へ向かう回廊の手前で足を止め、エレスサールはふぅっと息を吐いた。常は飄逸とした雰囲気を漂わせる人も、子供のこととなると勝手が違うらしい。
「とにかく、ご機嫌を取りに行ってくるよ」
「ご武運を」
遠ざかっていく背中を、ファラミアは微笑んで見送った。
◆◇◆◇◆◇◆
昼前、ファラミアは約束どおり、王を迎えに後宮へ足を踏み入れた。女官に尋ねると、国王父子は離れの工房に居るという。案内の申し出を断り、ファラミアは庭に出た。敷石を渡って、こぢんまりとした建物へ向かう。かつて、ある画家に後宮での仕事を頼んだ際、用意された工房だった。今、決まった使い手はなく、掃除されているだけである。
離れへ近づくと甲高い子供のはしゃぎ声が聞こえてきた。王太子の機嫌はずいぶん良くなったようだ。うれしそうな笑い声を耳にして微笑ましい気分になったファラミアだったが、工房に足を踏み入れた途端、目を剥くこととなった。
我が王は床に仰向けに寝転がっておいでだった——だけなら、テルコンタール王朝に仕える者にとって驚くに値しない眺めだが、その胸元に馬乗りになっている小さな王太子の姿があるとなると話は違ってくる。加えて、小さな手がご尊顔にぺたぺたと絵の具を塗りつけている——
稀に見る衝撃的光景だった。
入り口で唖然として突っ立っていると、エレスサールが絵の具で化粧された顔をこちらに向けた。
「やあ、ファラミア。もう時間か?」
紅、藍、白、緑、黄……etc、さまざまな顔料に彩られた顔に息を呑む。長く仕えて大方のことには慣れたつもりでいたが、まだまだ認識が甘かったようだ。久しぶりに目眩を覚えた。
「ほら、エルダリオン。お迎えだ。下りてくれ」
絵の具まみれの姿ながら、エレスサールは平時と変わらぬ口調で言い、自分の上に乗っている王子を下ろそうとした。職務を忘れてはいないらしい。
「やだ」
父王ほどではないが、あちこちに絵の具を付けた王子が不満の声を上げる。
「やだ、じゃない。約束しただろう。ファラミアが来たらおしまいだと」
エルダリオンは恨みがましくファラミアを見遣ると、その小さな肩を落とし俯いてしまった。
「たくさん遊んだだろう」
上体を起こした王が王子を抱き寄せる。
「もっと……」
小さな手が王の服をつかむ。さすがにファラミアは胸が痛んだ。テルコンタール王朝の父子が共に過ごす時間は少ない。食事もほとんど別々に取っている。国の頂点に立つ者とその子息ではやむを得ないことだが、子供にそんな理屈は関係ない。ファラミアも息子と過ごす時間は多くなかったが、それでも主君父子より多い時間を共有していた。
「今日は無理だ」
エレスサールがきっぱりと言った。この主は本当に自分を特別扱いしない。国王なのだから都合を融通しようと思えばいくらでも出来るはずが、その選択肢を無いもののように外している。仕える者にとっては申し分ない素質だが、子供には酷な態度だろう。小さな王子の顔が泣き出しそうにゆがんだ。
「その代わり、明日の昼は一緒に食べよう」
「うそ……」
小さな声が王の提案を遮る。
「こら、なんで嘘なんだ」
「だって……、ちちうえはおいそがしいから、むりだって……」
ヒックとしゃくり上げる声が、途切れ途切れの言葉を続ける。
「きょう、おいでいただくのはとくべつで、たのんだからって……」
王妃か世話係か……、誰かはわからないが王太子に言い聞かせたのだろう。お忙しい中、特別にお時間を割いていただいたのですよ、と——。
正論だが、幼い子には惨い言葉だ。頬をつたう涙に胸を突かれる。けれど、それに流されてしまっては政が立ちゆかなくなる。ファラミアが今すべきことは、ぽろぽろと涙を流す我が子を前に、言葉を失っている王を職務に引き戻すことだ。しかし、ファラミアが声を発する前にエレスサールが口を開いた。
「エルダリオン。確かに今は忙しい。けれど、明日の昼は空いている。嘘じゃない」
「……ほんとう?」
王子がぱっと顔を上げる。
「ああ、本当だ」
小さな手が王の首にしがみついた。肩に顔を埋める王子を抱え、エレスサールは立ち上がった。彩色を施された顔が傾げられる。
「湯を使う時間はあるかな」
「お急ぎください」
ファラミアは慇懃に会釈を返した。
◆◇◆◇◆◇◆
「ところで——」
将軍たちとの会食を終え、執務室へ戻る主君に付いて歩きながら、ファラミアは訊いた。
「なぜまた、お顔に絵の具を塗るようなことになったのです?」
「ああ、エルダリオンが絵を描いてくれると言うので工房に行ったんだが——」
最近、あの子は絵に凝ってるみたいだな、と笑いながらエレスサールは言葉を続けた。
「描いているうちに『うまく描けない』と泣き出しそうになって……。それなら、画紙の上でなく、わたしを直接塗ればいいと……まあ、そういうことだ」
事も無げに言う主君にファラミアは呆れた。
——自分から言い出したのか、この人は……。
「陛下。あまり変な遊びを殿下にお教えなさいませんように」
迎えに行った際、大はしゃぎだったのだから、エルダリオンが気に入ったのは間違いない。しかし、父王に絵の具を塗りつける遊びがクセになっては困る。王太子も大切な存在ではあるが、その相手をする度、主君が絵の具まみれになるのはいただけない。
「変なって……土いじりと似たようなものだろう」
きょとんと首を傾げる主に、ファラミアは「まったく違います」と否定した。
「顔料の中には毒になるものがございます。口に入ったらなんとされます」
あっとエレスサールの口が開いた。
「……そうだな。うっかりしていた」
「ですから——」
今後はお止めください——と続けようとしたのだが、エレスサールの声に遮られた。
「舐めたり口を付けたりしないよう注意しておくよ」
そういう問題ではないのだが……。なんと言おうものかと思ったところ、ぽんっと主君の手がファラミアの肩に置かれた。
「ありがとう。ファラミア。言われなければ気づかなかった」
至近距離でにこりと微笑まれ、思考が飛びかける。が、ここで動作不全に陥いるようでは、テルコンタール王朝の執政は務まらない。ファラミアは軽く頭を振り、おもむろに口を開いた。
「ひとつお訊きしてもよろしいでしょうか、陛下」
「なんだ?」
「陛下はご自身に塗り物をされるのがお好きでいらっしゃるのですか?」
「は?」
エレスサールの口がぽかんと開く。
「殿下とのご様子があまりに楽しげでいらっしゃいましたので、お訊きしておこうと思いまして。お好きならば是非——」
「い、いや、決して好きなわけでは……」
エレスサールの慌てた声が言葉を遮った。と、同時に周囲に目を配りながら、じりじりと後退り始める。さすが付き合いが長いだけあると思いながら、ファラミアはゆっくりと間合いを詰めた。
「さようでございますか」
「あ、ああ」
回廊の柱に背を付け、引き攣った顔で王がこくこくと頷く。
「けれど、もし、あのような遊びをなさりたければ、ご遠慮なさらずにお申し付けください。エルダリオン様のお手を煩わせるまでもありません。たっぷり塗って差し上げます」
「いや、別にやりたいわけではないから……。それに絵の具は毒なのだろう。止めることにするよ」
それがいい——と頷く王に、ファラミアはにっこりと笑った。
「では、絵の具の代わりに蜂蜜を使いましょうか」
そう告げた瞬間の主君の顔はちょっと見物だった。
「いかがなさいます?」
彼が背を付けた柱に片手を付き、返事を促す問いを耳許に囁く。
「……謹んで辞退する」
ため息とともに吐き出された言葉にくすりと笑い、ファラミアは主君のこめかみにそっと唇を落とした。
END
ぼでぃぺいんてぃんぐ……マニアックな遊びをなさってますね、殿下。
父親参観日、まずは王家の父子から。
……といっても、リクエストなさった方のイメージとはかなりかけ離れているかと思いますm(_ _)m
わかっているならやるなよ、という感じですが、私的にはこれが王家の父親参観日なので……、申し訳ありません。
執政家や馬司のほうもこんなイメージになると思います。父の日のプレゼントもこんな具合かと……。重ね重ね申し訳ありません(深謝)。
父親参観日、まずは王家の父子から。
……といっても、リクエストなさった方のイメージとはかなりかけ離れているかと思いますm(_ _)m
わかっているならやるなよ、という感じですが、私的にはこれが王家の父親参観日なので……、申し訳ありません。
執政家や馬司のほうもこんなイメージになると思います。父の日のプレゼントもこんな具合かと……。重ね重ね申し訳ありません(深謝)。