青嵐[10]
燭の灯りの下、広げた白いクロスには木炭の掠れた線が奔放に走っていた。描線は荒いが、それは確かにひとつの像を結んでいた。
このテーブルクロスは露台のテーブルに掛けてあった。その露台の柱には旗を掲げた男性が彫られている。それが写しとられていた。旗を掲げた人物が誰かは、残念ながら伝わっていない。アナリオン王朝のいずれかの王か、執政家に縁ある人物といった見方が大半だが、ヌメノールの英雄という意見もある。耳が人間と同じ形をしていることから、エルフでないことは確かなのだろう。
「ほう、上手いものだな」
クロスを眺めてエレスサールが言った。
「そう思われますか」
「ああ。荒削りだが、ひとりでにこれだけ描けるとは大したものだ」
主はファラミアと同じ感想を口にした。ロクに話をしていないため、詳しい身の上はわからないが、あの子供に絵を学ぶ機会があったとは思えない。もしかしたら、かつては良家の子女でそれなりの素養を身に付けていたのかもしれないが、それならば尚更、これだけ描ける才能を埋もれさせるのは惜しいと思う。
「何人か、画家や目利きに見せてみようと思います」
「画家に育てるつもりか?」
エレスサールが僅かに片眉を上げた。
「そんなつもりはありませんよ」
ファラミアは小さく笑って首を振った。
「あの子供の将来をわたしが決めるつもりはありません。ですが、殿下から託された子供です。掏摸に戻すつもりはありません。他人の懐を狙わずとも生きていけるように手を貸すのが、身柄を引き受けたわたしの役目だと考えております」
ファラミアはきっぱりと言った。
「わたしどもと違って、あの子供には継ぐ名や家はありません。自由です。その代わり、守護してくれる後ろ立てもありません。そういう者は働こうとしても、好条件の勤め口を得るのは困難です」
だいたい良い働き口というのは紹介者が要る。雇う側はその紹介者への信用を、雇った人間の身元保証にしているのだ。身寄りのない人間がまともな勤め口を探しても、雇ってもらうのはなかなか難しい。子供ならば尚さらだ。
「けれど、秀でた才能があれば道を切り拓くことができ、後見人を見つけることもできます。後見人が付けば、礼儀作法を身に付けて一定の教育を受けられます。画家になるか別の道へ進むかは、そのあと考えれば良いのです。重要なのは彼の可能性の幅を広げること、選べる道が多くあると知らせることです」
「執政殿は計算高いな」
エレスサールが笑った。
「縛る家がないのなら、選択肢は多いほうがいいでしょう」
澄まして答えると、エレスサールの首が傾いた。
「あなたは家に縛られていたと?」
「わたしはそう感じたことはありませんが、他の道を選びたかったという声を耳にしたこともありますので……。たとえば『学問の道を究めたかった』といったような」
「なるほど。しかし『学問の道を究めたかった』とは、あなたが言ってもおかしくない台詞だな」
エレスサールが穏やかに言った。
「おや、陛下がご覧になると、わたしは学問を探究して満足する欲の薄い人間になるのですね」
冗談めかして返すと、主は軽く肩をすぼめた。
「言うほど欲深くないだろう、あなたは」
ファラミアは苦笑で応えた。葡萄酒をひと口飲んで、苦い息を吐く。
「向いていると言われたことはあります、学者のほうが」
呟きとともに遠い昔の記憶が蘇った。決して弓や剣の稽古が嫌いだったわけではないが、書物のほうを好む子供だった。長男のボロミアの気性が勇猛で武人向きだったことも手伝って、ファラミアに対する世人の評価は、理屈っぽく武張ったことを好まない次男坊になった。書物好きのおかげで勉学方面は好成績を維持していたから、幾人かの教師は父に進言したようだ——学者にされては、と。
父とて学者を卑下していたわけではなかろうが、執政家の人間が国政に係わることなく、一介の学問の徒として生きることは認められなかったのだろう。おかげで度々、ファラミアの剣術や弓術の教練時間は増えることとなった。
「……そうか」
エレスサールがぽつりと落とした声に、ファラミアははっと追憶から返った。主の顔を見れば、こちらの内心を慮ったような憂いの表情が浮かんでいる。また余計な物思いをさせてしまったようだ。
エレスサールがミナス・ティリスに現れたのは父の死後だったが、ファラミアがデネソールに疎んじられていたことは知っているのだろう。
ミスランディア——遠い昔、西へ渡った魔法使いの姿が脳裏をよぎった。災厄の前触れと疎まれることもあった魔法使いガンダルフ、父とは折り合いが悪かった。その彼とエレスサールは戴冠前から親交があった。白き都の執政と次男坊の確執は耳にしていて当然だ。それだけではない。
エレスサールが戴冠した当初、果たして凡庸な次男坊に、執政と大公が務まるのかという囁きが城内で流れていた。それらについて、王はファラミアに何も言わなかったが、耳に入っていただろう。
——今ではそれすらも懐かしい。
ファラミアは薄く笑み、雰囲気を変えるように口を開いた。
「とにかく『何かになりたい』と望むのも、ある程度の知識があってこそだと思うのです。何も知らなくては『なりたい』と思うこともできませんから」
「つまり、あなたの言う“ある程度の知識”とやらを彼に身に付けさせる、そのためにこの——」
と、エレスサールは畳まれたクロスを指した。
「画才を餌にして後見人を探すというわけか」
露悪的な言い方に、ファラミアはちらりと非難めいた眼差しをエレスサールに向けた。
「餌とは人聞きがよろしくないですね。わたしはただ、この絵を見れば育ててみたいと考える人物に心当たりがあり、引き合わせることができると申し上げているだけです——いわば人助けですよ」
最後に付け加えた「人助け」の言葉に、エレスサールがくすくすと笑った。まったく「人助け」だと信じていない様子である。失礼な話だ。
「まあ、確かにこの絵を見れば興味を持つ人間はいるだろうな。だが、これまでに聞いたあの子の態度では、せっかくの話も破談にならないか? 画家に弟子入りさせようにも、口を開けば罵詈雑言の嵐では断られるぞ」
カタリとテーブルにグラスを起きながら、エレスサールは懸念を口にした。ファラミアの「人助け」発言は茶化しても、あの子供の将来を気遣っているのは間違いない。
「それについては、しばらくイシリアンで面倒を見ようと考えています」
「イシリアン……、エオウィン殿か?」
エレスサールがファラミアの意図を察したように訊く。ファラミアは「ええ」と頷きつつ、エレスサールのグラスに葡萄酒を注いだ。
「適任でしょう。数ヶ月すれば、口の利き方と最低限の礼儀作法は身に付くと思いますよ」
嫁いで数十年を経た今では、さすがに快活な彼女も以前のようには身体を動かせなくなっている。だが、彼女の薫陶を受けた者たちがイシリアンの館を守っている。ファラミアが執政の務めのために、月の半分程をミナス・ティリスで過ごす。当主がそれだけ留守にしても、館の規律が乱れずに来れたのはエオウィンの尽力によるものだった。
イシリアンの侍女のほとんどが馬に乗れるのも、エオウィンの影響だ。彼女が奨励したというより、乗馬ができねば奥方様の伴ができないという、必要に迫られてのことだったが。エオウィン自身の乗馬回数がめっきり減った今は、侍女たちの気晴らしになっているようだ。
「一緒に乗馬も覚えそうだな」
イシリアンの事情を知っているエレスサールがくすりと笑った。
「良いではありませんか。選択の幅が広がります」
「そうだな」
エレスサールは目を細め、グラスに口を付けた。これで、あの子供の今後については見通しが付いた。だが、主の気がかりはまだ残っていた。手の中でグラスを揺らしながら、「——ところで」と、エレスサールは言った。
「あの子供にも、きちんとした名前があったほうがいいと思うのだが……」
青灰色の瞳がひたとファラミアを見据える。
「ニベンと呼ばれていた話は聞いたが、できれば使いたくない」
彼の言い分はもっともだ。ファラミアもその名で呼びたくないと思っていた。
「そうですね」
「何か良い名はあるかな」
「残念ながら……」
主君の問いに、ファラミアは苦笑しながら答えた。
「今は思い浮かびません」
「おや、そうか」
「ええ。今ですと“グラムドリンガ”と呼びたくなりますので」
言った途端、エレスサールが吹き出した。
「そんなに騒々しかったか」
“グラム”は吼える、“ドリンガ”は暴れるという意味を持つシンダリンだ。ドリンガには打つという意味もあり、吼えるオークを打つという意味で、西に去ったイスタリが携えていた名剣をグラムドリングといった。どちらにしろ、人に相応しい名前とは言い難い。
「執政殿にそう言わせるとは、エルダリオンはとんだ面倒を持ち込んだのだな。すまない」
エレスサールが軽く頭を下げた。「いえ──」ファラミアは慌ててそれを止めた。冗談めかして言っただけで、苦情のつもりはなかった。ましてや主に頭を下げさせるなど、とんでもない。
「お気になさらず。今はおとなしくなりましたから」
「そうか。面倒をかけるが頼む」
「構いませんよ。心得ております」
「ありがとう」
エレスサールの顔にやさしい微笑が浮かんだ。上辺ではない、心からの謝意が表れた笑みだった。これだけで十分報われた気分になる。
「名前の件はもう少し考えよう」
「はい」
ファラミアは頷き、空いた主のグラスに葡萄酒を注いだ。
「エルダリオンの考えも聞いてみよう」
「殿下のお考えをですか?」
「ああ、そもそも連れてきたのはあの子だ」
それはそうだが、これ以上係わらせるのは——と、ファラミアは思案顔になった。すると、それを察したように、エレスサールが慌てて言った。
「もちろん、事件に直接係わらせるつもりはない。だが……」
青灰色の瞳がちらりとファラミアを窺う。
「名前の案を出させるぐらいはいいだろう?」
コトリと小さく首が傾いだ。やや顎を引いた微妙な角度、さらりとこぼれた黒い髪の陰から、憂いを帯びた青灰色の瞳が上目遣いで問うている——だめか? と。これに抗える者がいるだろうか。
もっとも、そんなに思い悩む提案ではない。王太子が事件に首を突っ込むのはいただけないが、係わった子供の改名案なら問題はない。
エルダリオンは今日を最後に事件から切り離される。けれど、それで彼があの子供や事件のことを忘れるわけではない。事件に係われなくなった反動で、かえって気にするようになるかもしれない。名前の案を考えてもらえば、その焦燥を和らげるのに役立つかもしれない。
「そうですね。殿下にお考えいただいたほうが良いかもしれません。わたしだと“グラム”から離れられそうにありませんから」
再び“グラム”と聞いて、エレスサールがくすりと笑った。
「では、エルダリオンに考えるように言っておくよ」
「よろしくお願いします」
「ああ。あと、この絵も見せたいが、いいか?」
エレスサールがテーブルクロスを指した。
「構いませんが、布に木炭ですから、あまり持ち運びは……」
画材を使って描かれた絵ではない。布が擦れただけで木炭の粉が落ちてしまう。
「それなら、エルダリオンをこちらに来させよう」
城外へ王太子を出すとあっさり言われ、ファラミアは思わず眉間を指で押さえた。
「陛下——」
呼びかけの声が棘を含んだのは致し方がないと言えよう。
「殿下ともども、外出は控えていただくよう申し上げたはずですが——」
ご理解いただけませんでしたかと身を乗り出せば、エレスサールは「わかってる」と焦った声を出した。
「わかってるが、ここに来させるぐらいいいだろう」
片手でファラミアを牽制しながら言う。
「近衛も付けるし、変な気は起こさないよう言い聞かせるから」
いいだろう?——と同意を求めるように再び首が小さく傾いた。
——まったく……。
ファラミアはそっと息を吐いた。何のかの言いつつ、この王は子息に甘い面がある。決して溺愛しているわけではない。折にふれて、王族の姿勢を説いていることは知っている。
けれど、今日のように王太子が単独で街に出ているのを見つけても、強制的に連れ戻すことはしない。エレスサールは勝手な行動については叱っていると主張するが、最終的に自身も一緒に行動していては意味がない。だが一番の問題は——
「ファラミア……?」
黙り込んでしまったファラミアを青灰色の瞳が窺っている。そう、一番の問題はファラミアがエレスサールに甘いことかもしれない。
「いいでしょう。殿下にお越しいただきましょう」
結局こうなるのだと、半ば諦めの気持ちを抱きながら、ファラミアは言った。エレスサールの顔がぱっと明るくなる。
「ありがとう。エルダリオンに伝えるよ。妙な気を起こさないよう釘も刺しておくから安心してくれ」
「恐れ入ります」
にこにこ笑うエレスサールに、ファラミアは静かに頭を下げた。
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