青嵐[11]
主君父子が大捕り物をした翌日の昼下がり、ファラミアは王太子エルダリオンを執政館に迎えた。正確に記するならば、一旦登城した後、王太子の伴をして館に戻ったということになる。
侍従と近衛兵を伴って現れた若き王太子は、ファラミアを見るなり、昨日は迷惑をかけたと謝意の言葉を口にした。館の者たちにも謝りたいと述べられ、これは相当、父王に絞られたのだろうとファラミアは察した。子息に甘いところがある主君だが、再三「エルダリオンに言い聞かせる」と言っていたとおり、実行したらしい。
「館の者たちにはわたしから伝えておきます。殿下から直接謝意を示されたら、我が館の者たちは卒倒しかねませんから」
ファラミアの返事に、エルダリオンは「卒倒はしないだろう」と小さく笑ったが、直接謝ることにこだわりはしなかった。父王の影響か、気安いところのあるエルダリオンだが、王太子としての立場はわかっているらしい。善意で頭を下げても、かえって相手を困惑させてしまうと知っているのだ。
エルダリオンを居間に通すと、あらかじめ申しつけてあったとおり、茶と一緒に例のテーブルクロスが運ばれてきた。旗を掲げた英雄の姿がテーブルの上に広がり、エルダリオンが身を乗り出した。
どれぐらい時間が経っただろう。注がれた茶に手も付けず、じぃっとクロスの英雄に見入っていたエルダリオンの口からほうっと感嘆の息が漏れた。
「……すごいな」
思わずといったふうに呟き、荒い木炭の描線の脇をそっと指で触れている。
「お気に召しましたか?」
尋ねると、ビクッと肩を揺らして顔を上げた。
「あ、うん……こんな絵を描くんだ」
「荒削りではありますが」
「でも、すごい。こんな才能があったんだ」
再び絵に目を落とし、感心したように呟いてから、ファラミアのほうを向いた。
「今どうしてるんだ? 父上から口を利かなくなったと聞いたけど」
「それと同じように——」と、ファラミアはテーブルクロスを指して言った。
「絵を描いておりますよ。いくら上手いと言っても、テーブルクロスに描かれては堪りませんので、画紙と専用の木炭を与えました。それでおとなしく絵を描いているようです」
ファラミアが説明すると、エルダリオンの表情がにわかに明るくなった。
「じゃあ、これ以外にも絵があるんだ」
「ええ。ですが、私どもには見せてくれません」
ファラミアは苦笑しながら答えた。あの子供が絵を描いている姿を遠目に窺うことはできるが、館の人間が近づくとパッと隠してしまうのだ。
「頼んだら見せてくれるかな」
そう訊くエルダリオンの目には期待の色が浮かんでいた。
「さあ、どうでしょうか」
ファラミアは曖昧に答えた。今、あの子供に何を尋ねても、ロクな言葉は返ってこないとわかっている。それはエルダリオンも承知だろう。エレスサールから口を利かなくなった話を聞いているのだから。だが、それであの子供の絵を諦めるつもりはないらしい。
だいたいにおいて聞き分けの良い王太子だが、こだわりを持ったことには頑固になる傾向がある。これもそのひとつだろうか。エルダリオンはひと通りの説明で諦める顔をしていなかった。
「話してみていいか?」
「お勧めはしませんが……」
子供の態度を考えれば勧められるものではない。だが、今、あの子供の周囲は大人ばかりだ。子供の気持ちをほぐす環境とは言い難い。口を利かなくなったのはそのせいもあると言える。歳の近いエルダリオンになら、なんらかの反応を示すかもしれない。
年齢が近ければ打ち解けやすいという程、人の関係は単純ではないが、しゃべるきっかけぐらいにはなるかもしれない。ファラミアは淡い期待を抱いた。
「殿下にはあの子供の名前を考えていただくよう頼んだことですし、お話しになったほうが良いかもしれませんね。ですが、礼儀など知らぬ子供です。その点はくれぐれもご承知おきください」
無礼な振る舞いがあることだけは念押しておく。
「大丈夫だ」
エルダリオンが大きく頷いた。
「ご案内しましょう」
「ありがとう」
弾んだ声を上げてエルダリオンが立ち上がる。
「庭から参りましょう。向こうの部屋の露台にいますから、こちらのほうが近道です」
引き合わせることが吉と出るか凶と出るか……。案じながら、ファラミアはエルダリオンを中庭に誘った。後ろからエルダリオン付きの侍従が付いてくる。
「王宮のとは様式が違うんだな」
くるりと辺りを見まわしたエルダリオンが言った。
「でも、いい庭だ」
「恐れ入ります」
小径を歩いていくと、柵仕立てのバラの向こう、露台に置かれたテーブルに小さな灰色の頭が見えた。いずこかを食い入るように見ていたかと思えば、下を向いて忙しなく手を動かしている。それを指し、ファラミアは言った。
「あそこにいます」
既に気づいていたらしいエルダリオンは「ああ」と頷き、付いてきた侍従から小さな包みを受け取った。
「殿下、それは……?」
尋ねたファラミアに、エルダリオンは微笑って答えた。
「ああ、絵具だ。顔料を油と蝋で固めたやつ。絵が上手いと父上に聞いたから」
「そのような物をお与えになっても……」
ファラミアは表情を曇らせた。自然と足が止まる。絵具そのものは、あの子供とて興味を覚えるだろう。だが、それで頑なさが薄れるとは思えない。
今は大事そうに使っている画紙と木炭とて、手渡したときはいかにも渋々といった態で受け取っていた。最初に「これを使え」と画紙と木炭を差し出したときは、そっぽを向かれた。それで「テーブルクロスに描くな。これに描け」と、半ば命令口調で押し切った。それぐらい捻くれているのだ。王太子の好意を素直に受けるとは思えない。
「やはりまずいか? ファラミアが良くないと言うなら止める」
品物を与えるのはやっぱり安直かと、エルダリオンは思案深げに首を傾げた。
「まずいとは申しませんが、絵具を与えても心を開くとは限りませんよ」
「わかってる。それはいいんだ。受け取ってもらえないかもしれない……とも思ってる。でも、もし興味を持ってくれれば……」
ファラミアの忠告に、エルダリオンはどこか自嘲めいた笑みをこぼした。
「それだけでいいんだ」
大人びた苦笑いだった。エルダリオンは子供の反発を覚悟している。ならば、ファラミアの気遣いは無用だ。
「殿下がそうおっしゃるなら……。そのお心が通じることを祈りますよ」
「すまないな。わがままを言って」
「構いませんよ」
父王そっくりの言いまわしに、ファラミアは口許を綻ばせた。
「参りましょうか」
王太子を促し、再び歩き出す。
「一旦、中に入ります」
ファラミアは棟の入り口を指した。
「わたしの姿を見ると逃げ出すようになりましたので」
そう言うと、エルダリオンがきょとんと首を傾げた。
「嫌われたのか?」
「怖がっているのでしょう、たぶん」
ファラミアが答えると、エルダリオンはどこか納得したような顔で頷いた。父子そろって「ファラミア=怖い」という認識に、さもありなんといったさまで頷くのはなんなのか。少々不本意な気分になり、ファラミアは警戒されているのは己だけでない旨を付け加えた。
「ただ、使用人とも距離を置くようですから、この館の人間すべてを警戒しているのでしょう」
「そんなに……?」
エルダリオンが足を止める。
「ここに来てまだ三日目ですから、こんなものだと思いますよ」
ファラミアは軽い調子で言ったが、エルダリオンの肩は落ちた。
「……そうか」
「そんなにご心配なさらずとも、大丈夫ですよ、殿下」
ファラミアは少し屈んで、エルダリオンと目の高さを合わせた。
「食事は取っていますから」
エルダリオンは知っていると頷いた。
「それは父上から聞いた。食べているから大丈夫だろうと。でも、しゃべらないことも聞いた」
両親に似た青い瞳が揺れる。
「父上に言われたんだ。気絶させられた上、目が覚めたのが見知らぬ貴族の館で、事情もろくに説明されず『今日から身柄を預かる』と言われたら、警戒されるのは当たり前だ——って。あのときは本当に余裕がなくて、なんとか殺されずに済むようにって……それしか考えられなかった。でも、あの子供にしてみれば、僕も人さらいで、覆面の連中と大差なかったんだな」
告解のような苦い言葉を聞いて、ファラミアは言葉を失った。同時に、敬愛する主君に対し、呆れの吐息が落ちる。
——そんな説明をしたのか、かの人は。
エルダリオンは自分で連れてきたことに責任を覚え、子供の身の上を案じている。事情があったとはいえ、暴力を振るって失神させたことを気に病んでいるようだ。湯浴みの最中に暴れ出した子供を、ファラミアが手刀を落として眠らせたと聞いた途端、形相が変わった。そんな心根のやさしい王太子に、なんとまあ配慮のない説明をするのか……。
脱走には一定の理解を示し、頭ごなしに叱ることはせぬエレスサールだが、こういう面では容赦がない。まあ、変に甘やかして、跡継ぎが他者の気持ちを汲めぬ人物に育っては——という、そちらの配慮があるのかもしれないが……。
——脱走のほうをもう少し厳しくしてくださったほうが助かりますけどね。
ファラミアは密かに息を吐くと、エルダリオンの前に膝を付いた。
「ファラミア?」
エルダリオンが怪訝な顔をする。ファラミアは王太子が抱えている絵具の包みにそっと手を添え、話しかけた。
「殿下。確かに今、あの子供は人を信じることができておりません。今は殿下のお心遣いも通じないかもしれません。ですが、彼はこれから長い時間を生きます。その中で、いつか殿下のやさしいお心を理解するときがくるでしょう。ですから、あまりご自分を責めないでください」
「わかった」」
エルダリオンはこくりと頷くと淡い笑みを浮かべた。
「ありがとう、ファラミア」
ファラミアは目を細め、立ち上がった。改めて王太子を案内する。一旦、屋内に入り、子供のいる露台の部屋にまわった。背後から子供に近づく。二人が露台に出たところで子供は気づき、こちらを振り返るや、パッと画紙を裏返した。
「やあ、憶えてるか?」
エルダリオンが声をかける。だが、子供は無言で後退った。逃げなかったのはタイミングを逸したからだろう。
「絵を描くんだな。さっき、テーブルクロスに描いたのを見せてもらった。うまいな。活き活きしていた」
微笑みながらエルダリオンが語りかけるが、子供は灰緑色の目でこちらを睨み、一言も発しない。
「僕も絵を習っているが、あんなふうには描けない。素晴らしいと思う」
子供の返事がないことを予想していたとはいえ、笑みを絶やさない王太子の姿にファラミアは感心した。王太子ではあるが、まだ若年という理由から、エルダリオンに公務はない。両親の外遊に同行した際、共に訪問先へあいさつすることはあるが、その程度だ。それでもしっかり上に立つ者が取るべき態度を身に付けている。
「色が付いたら、もっと良くなると思う。だから、良かったらこれを——」
エルダリオンは子供に歩み寄り、絵具の包みを開けた。小さな木箱の中、顔料を固めた幾つかの絵具が並んでいた。鮮やかな色の並んだ箱が子供へ差し出される。
「使ってくれ」
子供は絵具を一瞥しただけで、手を伸ばそうとはしなかった。その態度に気を悪くした様子もなく、エルダリオンは蓋を開けたまま木箱をテーブルに置いた。
「絵ができたら見せてほしい」
そう言って、エルダリオンが子供の肩に触れようとしたとき、それをはね除けるように小さな手が動き、木箱をつかんだ。
「……っんなもの!」
喉の奥に引っかかったような詰まった叫びとともに、木箱がエルダリオンに投げつけられる。突然のことで、ファラミアがかばおうにも間に合わなかった。
「……殿下!」
乾いた音を立てて、木箱が露台に落ちる。まわりで絵具が跳ね、割れて散らばった。部屋の戸口に控えていた侍従が駆けてきて、子供の肩を押さえた。
「お怪我は?」
茫然と立っているエルダリオンの顔を覗き込めば、額の端からすうっと一筋、赤いしずくが垂れた。木箱の角が当たったのだろう。ファラミアは懐から出した布を傷を押さえると、子供を振り返った。
「なんということを……」
子供は相変わらず、こちらをじとりと睨んでいたが、先程と違い、灰緑色の瞳には怯えと動揺の色が浮かんでいた。侍従が肩を押さえているが、それにも気づいていないのか、振り払おうともしない。血の気が引いたように顔が白くなっていた。さすがにまずいことをしたと思っているようだ。怪我を負わせる気はなかったのだろう。
ファラミアはエルダリオン自身に傷口を押さえてもらい、改めて子供に向き直った。
「投げつけるとは何事だ。わかっているのか、お前。この方は——」
「止せ、ファラミア」
叱責するファラミアを硬い声が止めた。
「殿下」
ファラミアと子供の間に、エルダリオンが身を割り込ませる。
「いいんだ」
「しかし——」
意見しようとするファラミアを王太子は手を挙げて止め、侍従にも子供から手を放すように目配せした。
「お前の絵が気に入ったから、色の付いたのを見たいと思った。でも気に障ったんだな。悪かった」
淋しげな笑みがエルダリオンの顔に浮かぶ。額の端、当てられた布に滲む血の色と相まって痛々しい姿だった。自分がそばに付いていながら、傷を負わせてしまうとは……。歯噛みする思いだった。
とにかく手当てを——と思うファラミアの前で、エルダリオンはすっと屈んだ。何事かと思えば、床に転がった木箱を手にしている。絵具の欠片も拾いはじめた。ファラミアは慌てて止めた。王太子に掃除をさせるわけにはいかない。侍従も戸惑っている。
「殿下、先に手当てをしましょう」
「けど……」
ぼんやりと顔を上げたエルダリオンの手を取り、ファラミアは彼を立たせた。額に当てた布をはずして見れば、傷口からはまだ血がじわりと溢れている。エルダリオンに付いてきた侍従が心配そうに見ている。
「ほら、まだ血が止まっていませんよ。小さな傷と侮ってはなりません。処置を怠ると重い病を引き起こすこともあります」
「ああ、うん……」
生返事をする王太子の肩を抱え、ファラミアは侍従を振り返った。
「殿下を居間までお連れしてくれ。執事に言えば手当てに必要な物は揃う。わたしもすぐに行く」
「かしこまりました」
侍従はエルダリオンを連れて部屋を出ていった。それを見送り、ファラミアは子供を振り返った。
「さて、撒き散らしたのはお前だ。片づけてもらおうか」
「俺はこんなもの……いらない。欲しくない」
子供は拳を握り締め、床に散らばった絵具を睨みつけて、絞り出すような声で言った。
「絵具を使うも使わないもお前の自由だ。だが、いらないからといって床にばら撒いていいことにはならない。片づけろ」
「なんで……」
子供の拳が震える。
「俺は欲しいなんて言ってない。あいつが勝手に持ってきたんじゃないか!」
昨日から口を利かなかった子供が、溜め込んでいたものを吐き出すように叫んだ。
「それなら『いらない』と断れば良かっただろう。殿下は『受け取ってもらえないかもしれない』と仰せだった。お前に渡すときも『良かったら使ってくれ』という言葉を添えられた。普通に『いらない』と言えただろう」
「いらないと言ったって、押しつけるんだろう、上流階級ってやつは。エライ奴がくれる物は断れないって聞いたぞ」
貴族の生活に縁のない子供から“上流階級の約束事”を指摘され、ファラミアは軽く目を見張った。
「よく知ってるな」
「ば、莫迦にするな。俺だってちゃんとわかってる」
小さな身体で胸を反らして言う仕草がおかしく、ファラミアは吹き出しそうになった。「わかってる」と言っているが、王太子に投げ返したあたり、やはりわかっていないのだろう。ファラミアは厳めしい表情をつくり、わざと冷徹に言い放った。
「だったら、贈り物を投げつけて怪我をさせたお前は打ち首だな」
「……うっ、うち……くび?」
子供の顔が引き攣った。
「な、なんでだよ! 怪我ったって、ちょっと血が出ただけじゃないかよ。なんで首を切られるんだよ。そんな無茶苦茶があるかよっ!」
上擦った声で抗議する子供に、ファラミアは「無茶ではない」と冷厳に首を振った。
「あの方は王族だ。それも第一位の王位継承者、王太子であらせられる。その身に害意を持って傷を負わせたのだ。殿下が気性の荒い方だったら、あの場で死刑が宣告されていてもおかしくない」
「……し、死刑? じゃ、じゃあ……俺、死……」
顔色を失った子供がカタカタと震え出した。少々薬が効きすぎたかと思いながら、ファラミアは「それはない」と子供の命の保証を明言した。
「お前を咎めようとしたわたしを、殿下は『止せ』と止めただろう。あれは『不問に処す』のと同義、つまりお前を罰しないという殿下のご意思だ」
一にも二にも命拾いしたのは殿下——エルダリオンのおかげだと聞かされて、子供はおもしろくなさそうに口を尖らせた。
「な、なんだよ。あいつがそんなに偉いのかよ」
「それだけの責務を負ってらっしゃる方だ。第一、これで打ち首を命じるような方なら、最初からお前を助けていない。お前、斬り殺されそうだったのを助けていただいたのだろう?」
ファラミアが問うと、子供はぷいっとそっぽを向いた。
「あ、あんなの、成り行きだろ」
「確かに行き会ったのは成り行きだろう。だが、お前を放り出さず、ここへ連れてらっしゃった。お前を保護してくれと」
「え?」
意外なことを聞いたというように、子供の口がぽかんと開いた。
「お前の身の安全を確保してほしいと、わたしに仰せになったんだ。だから、わたしもお前の身の安全については責任がある。ここにいる間、不当な理由でお前が危害を加えられることはない。仮に、お前に危害を加える者がいれば、わたしが許さない。その点については安心しろ。ここは安全だ」
子供は灰緑色の目をまん丸に見開いて、ファラミアを見た。自分の身の安全が一番に考えられていることが予想外だったらしい。
「同じように、お前が不当な理由で他の者を傷つけることも許さない。さっきの件、お前はわたしの主筋に危害を加えた。本来ならば厳罰に処したいところだが、殿下ご自身がお止めになった。撒き散らした絵具を片づけることで許してやろう。——というわけで片づけるのだな」
子供は渋々といった態ではあったが、しゃがみこんで絵具を拾いはじめた。少なくとも今の話で、ファラミアたちに害意はないことは伝わったようだ。
しかし、拾いはじめたと思ったら、おもむろに顔を上げ、嫌そうにファラミアを見た。
「なんだよ、あんたは見てるだけかよ」
「見張っていないと、お前がきちんと作業するか怪しいからな」
そう言うと、子供はますます嫌そうに顔を顰めた。ファラミアに対して、ここまで露骨に不機嫌な顔をする者はいなくなって久しい。諸侯諸官はたとえ気分を害しても、取り繕った笑みでファラミアに接する。だから——というわけではないが、子供の反応がおもしろく、ファラミアは気まぐれに言ってみた。
「それとも、手伝ってほしいのか?」
子供は一瞬言葉を詰まらせたが、顔を真っ赤にして怒鳴った。
「見られてると落ち着かねぇんだよ!」
あっちへ行けと、ファラミアを追い払うように手を振る。その拍子に床の木箱に手が当たった。箱は床を跳ね、集められた絵具がまた散らばった。ファラミアの口から、知らずため息がこぼれた。
「……確かに、手伝わねばいつまで経っても終わりそうにないな」
絵具は二度散らばって更に砕け、一部は粉になっている。このままでは露台の床が絵具の粉まみれになりそうだ。ファラミアはふと露台の隅に手箒があるのに気がついた。それを手に取り、手早く床を掃く。たちまち散らばった絵具が集まった。
「な、なんだよ。あんただけ道具を使うなんて、卑怯じゃないか」
子供が頬を膨らます。口を利くようになったのは良い傾向なのだろうが、いちいち文句を言うのはなんとかならないものか。
「黙って拾え」
じろりと睨むと、子供はうっと声を詰まらせ、その後は比較的大きい絵具の破片をおとなしく拾い集めた。
「まだここにいるか?」
絵具の破片と粉を集めた木箱を持ち、ファラミアが訊くと、子供はこくりと頷いた。
「夕飯までは使っていいって、執事が言った」
「そうか」
ファラミアは頷き、木箱を持って部屋を出ようとした。だが、
「それっ……」
子供が前にまわり込んできた。
「なんだ?」
「それ——」
と、木箱を見ながら子供は言った。
「俺にくれたんだろ?」
「お前は『いらない』と言っただろう」
「そ、そうだけど……」
灰緑色の目がちらちらと惜しむように木箱を見る。先程啖呵を切って投げつけた手前、素直に欲しいと言えないらしい。強情なことだと思ったが、いくら捻くれているとはいえ、年端もない子供だ。腹黒い貴族とは違う。追い詰める必要はないと、ファラミアは助け船を出した。
「気が変わったか?」
子供は頬を紅潮させ、目を逸らして答えた。
「使ってやってもいいかなって……」
虚勢を張った生意気な物言いがおかしい。
「そうか」
思いがけず、人に物を頼むときの礼儀を教える機会ができたらしい。
「そういうときは『使うからください』と言うんだ。——言ってみろ」
途端、子供はムッとした。「なんだ偉そうに」とでも思っているのだろう。拳を握り、唇を引き結んでファラミアを睨んでいる。
「言えないなら渡さないが」
ぎりっと子供は唇を噛み、俯いた。
「つ……」
息とも声ともつかぬ音が、下を向いた子供から漏れてきた。耳が赤くなっている。
「つ、つか……」
肩を怒らせて拳を握り締めた姿は、まるで全身から声を振り絞っているようだった。その割に音量は小さいが……。
「つ……つか……、使うから、ください」
ようやく台詞を口にした子供に、ファラミアは「よく言えたな」と木箱を渡した。子供は受け取った木箱を大切そうに胸元で抱えた。
「今度は床にばら撒くなよ」
子供は顔を顰めてファラミアを睨んだが何も言わず、踵を返してテーブルに向かった。その後ろ姿に声をかける。
「割れてしまって使えない色があったら言え。用意する」
子供はパッと振り返ったが先程と同じで無言だった。けれど、灰緑色の瞳から、あからさまな警戒の色が消えていた。エルダリオンの面会は確実に良い変化をもたらしたのだ。
——殿下にはお気の毒だったが……。
気丈に振る舞っていたが、好意の贈り物を投げ返されたのだ。相当落ち込んでいるだろう。最終的に子供が絵具を受け取ったと伝えれば、少しは王太子の心を晴らすことができるだろうか。居間へ向かうファラミアの足は速くなった。
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