青嵐[9]
「それで、覆面男は何かしゃべったか?」
湯浴みと着替えを済ませ、夕食の席に着いた主——エレスサールが待ちかねたように訊いた。エルダリオンを帰城させると、彼はすぐに今後のことを話そうとしたが、ファラミアはそれに乗らなかった。
——まず湯浴みとお召し替えをなさってください。
エレスサールは不満そうに唇を引き結んだが、そこへ湯の支度が整ったと執事が報せに現れたため、主はそのまま浴室へ案内されていった。その後、湯から上がる頃を見計らって様子を見に足を運べば、予想どおりと言うべきか、既にエレスサールは衣服に袖を通していた。どこまでも人の手を煩わせない王である。
手がかからないと考えれば楽だが、それは側仕えの仕事が無くなることと同義であり、主を慕う身としてはつまらなくもある。
——お召しになるのを手伝おうと思いましたのに、残念です。
そう言ったファラミアに、エレスサールはいつもどおり、小さく肩をすぼめただけだった。
「あの男はマエグヒアの家に正規で雇われた者だろう?」
鱒と野菜のパテにナイフを入れながら、エレスサールが言った。
「恐らく」
ファラミアも料理に手を付けつつ答えた。王と王太子という、あってはならない探索班が捕らえた男は、マエグヒアの家紋である鷲の頭を象った盾に四つ葉を刻んだブローチを付けていた。臨時の用心棒が家紋の入った装飾品を身に付けるわけがない。そんなことは雇い主が許可しない。
「覆面男自身は何と言っている?」
「何も……」
ファラミアは首を振った。
「今のところは何もしゃべっておりません」
「そうか……」
エレスサールが息を吐いた。
「ごろつきと違って口が堅いか」
「はい。尋問に当たっている者が手強いと申しておりました」
尋問はイシリアンの野伏が行っている。ただし、イシリアンの野伏という身分は伏せてだ。なにしろ捕らえてきたのがお忍びの国王と王太子である。相手に「お前が斬りかかった子供は王太子、斬り結んだのは国王その人であらせられる」と明かすのは、できれば控えたい。ゆえに、執政として顔が知られているファラミアも、捕らえた男に直接会うのは避けている。
アエガシオンたちがなぜ掏摸の子供の命を狙っているのか、その理由がわかり次第、処分は然るべき部署へ任せるつもりだ。そのためにも王族や執政が係わっていると、相手に知らせたくなかった。
知られたくないのは向こうも同じらしく、捕らえた男は名前すら口にしなかった。そのことを話すと、エレスサールの顔に不敵な笑みが浮かんだ。
「けっこうな忠義者というわけだ」
「ええ」
ちょうどパテを食べ終わったところへ、見計らったように扉が開いた。給仕がスープとパンの籠を運んできた。続いて、鹿肉をソテーした皿が運ばれてくる。木苺と野苺をブレンドした甘酸っぱいソースが、やや癖のある鹿肉に合っていた。葡萄酒はポロス川に近いイシリアン南部でつくられた赤葡萄酒。ふくよかな香りと厚みのある味はソテーにぴったりだった。
「うまいな」
エレスサールが目を細める。
「料理長に礼を言っておいてくれ」
「ありがとうございます。料理長も喜ぶでしょう」
もてなす料理を誉められるのがうれしいのはもちろん、敬愛する主が相好を崩す姿を見られるのが、何よりの喜びだ。今度の料理長の給金は弾もうと思っていると、エレスサールが目を上げた。
「捕らえた男に青紫玉は見せたか?」
揺らぐ燭の火を反射して、青い瞳がきらりと光る。
「いいえ、まだ……」
青紫玉とは、覆面男が追いかけていた掏摸の子供の懐にあった獲物だった。銀の台座の裏面に、覆面男のブローチの紋と同じ意匠が刻まれていた。彼らが掏摸の子供を付け狙うのは、十中八九あの青紫玉が原因だろう。
ただし、青紫玉がマエグヒアの家にとってどんな意味を持つ品物なのか、掏摸取ったこそ泥を問答無用で殺さねばならない程の理由は何か、そのあたりの事情は不明なままだ。
「試すつもりですが、しゃべるかどうか……望み薄ですね」
なにしろ目を覚まして以降、ひと言もしゃべっていない。白昼、子供を斬り殺そうとした行動は剣士としてあるまじき振る舞いだが、口の堅さは称賛に値する。
「そうか……。何かわかるかと思って捕らえてみたが、役に立たなかったな」
エレスサールが低い声で呟いた。気落ちしたその様子に、ファラミアは口許を緩めた。エレスサールが今日取った行動は軽率で、臣下としては看過できないが、自ら動いた気持ちはわからないでもなかった。彼が城を抜け出したのは、エルダリオンが執政館からいなくなったと報せ受けた後だった。父親として、いてもたってもいられなかったのだろう。
「そうでもありませんよ」
ファラミアは明るい声で言った。
「あの男がしゃべらずとも、事態は動くでしょう。彼が戻らなければ、向こうは動揺します」
雇っている護衛が一人、出かけたきり戻らないとなれば、どこの家も何かしらの変事があったと判断する。それも掏摸とはいえ、子供を殺めるよう命じている護衛だ。外に漏れれば家名に傷が付くことは、命じたほうもわかっているだろう。密命を託した者が忽然と姿を消せば、必ず捜索する。
「しかし、護衛はもう一人いたはずだ。主——ミナス・ティリス入りしている顔触れからすれば、恐らく三男のアエガシオンが彼らの守るべき主だろう。アエガオシオン自身が動いてくれればやりやすいが……」
「まず動くのは、残っているもう一人でしょうね」
事情を知っている相棒がまず捜索の任にあたるだろう。
「そうだな」
ふう、と息をこぼし、エレスサールは独りごちるように言った。
「……そっちも捕らえるか」
「陛下」
ファラミアの眉尻がくっと上がった。よもや、もう一人も自身で捕らえに行く気なのか。他の者が言ったなら「誰かに捕らえさせる」意味に取るが、この主は自らが乗り出す気でしゃべることがある。特に今回の件では、既に大捕り物をやっている。油断がならない。
「わかってる」
エレスサールが慌てて言った。皆まで言うなというように、手のひらをファラミアに向ける。
「わたしは動かない。おとなしくしている。エルダリオンにもよく言っておく」
「そのようにお願いします」
「ああ、わかった」
こくりと頷き、エレスサールは手許のソテーを新たに切り分けた。ファラミアは言質が取れたことにひとまず安心し、グラスを持ち上げた。
「今後についてですが、それとなく探りを入れたところ、アエガシオンはほとんど館に戻っていないことがわかりました。なので、マエグヒアが借り上げている建物を中心に、もう一人の護衛とアエガシオンの動きを見張ります」
「ああ、頼む。思ったより長期戦になりそうだな」
ソテーの最後の一切れを口に運びながら、エレスサールが言った。
「アエガシオンを押さえられれば、一気に片がつくと思います。彼の立ち回り先や、馴染みの娼館も調べるよう手配しています」
「苦労をかけるな」
「お気になさらず。ちょうど野伏たちの手が空いていたところですから」
ファラミアは笑顔で応じ、カトラリーを置いた。それを合図にしたかのように「失礼します」と扉が開き、サラダが運ばれてきた。
エレスサール、ファラミアの順に、それぞれ白い器が置かれる。器には青菜が敷かれ、その上に辛子入りのソースで和えた小さな角切り野菜が盛りつけられていた。
葡萄酒もサラダに合わせたものが運ばれてきた。新しいグラスに注がれたのは、ドル=エン=エアニル産の白葡萄酒だった。すっきりとした辛口の葡萄酒で、ファラミアの気に入りのひとつだ。
「ところで、あの子はどうしてる? 少しは打ち解けてくれたか?」
サラダを口に運びながら、エレスサールが掏摸の子供のことを訊いた。
「いいえ」
ファラミアは軽く首を振った。
「罵詈雑言は無くなりましたが、周囲を睨むばかりで、口を利かなくなりました」
本来なら社会の庇護を受ける存在だった子供。それが庇護とは正反対の、社会から弾き出される身として育てば、安易に他人を信用しなくなるのも無理はない。心を開くまで時間がかかるだろう。いや——、
時間がかかっても心を開いてくれるのならいい。大人への反発を強くするあまり、社会に憎悪を抱き、手の付けられない人間に育ってしまう恐れがある。エレスサールもそれを案じているのだろう。
「……そうか」
呟いた声に気遣わしげな調子がにじんでいた。
「食事には手を付けるので、大丈夫だとは思いますが」
「そうだな。食べられるのなら何よりだ」
人であれ動物であれ、命を支えているのは食だ。病でも怪我でも、食べられなくなったときが一番怖い。ましてや、意識的に食を断たれてしまっては、他者にできることは限られてくる。こちらが用意した食事に手を付けているというのは、少なくとも、あの子供はここで生きる意思を持っていることになる。
「それと、ちょっとおもしろいことがありまして」
サラダを片付けながら、ファラミアは話を切り出した。恐らくエレスサールの気に入る話だ。彼が城を抜け出してさえいなければ、顔を合わせてすぐに報告していたかもしれない。父子そろって破天荒な真似をしてくれたものだから、説教が先になってしまったが。
「おもしろいこと? なんだ?」
気を引かれたようにエレスサールが首を傾げる。
「絵心があるようです」
「絵を描くのか?」
意外そうに青灰色の目がしばたたいた。
「はい。テーブルクロスに煖炉の炭でやられまして……、見つけた侍女頭が悲鳴を上げておりました」
昼過ぎに子供の様子を見に来た折、不意に上がった金切り声を思い出し、ファラミアはくすりと笑った。
「ご覧になりますか?」
「取ってあるのか?」
「ええ、捨てるには少々惜しいと思いまして」
青灰色の瞳に興味深そうな光が宿った。
「見せてくれ」
ファラミアは執事を呼び、子供が絵を描いたテーブルクロスを持ってくるように言った。「かしこまりました」と答えた執事は、ちょうどサラダを食べ終わった皿を見て訊いた。
「水菓子をご用意しましょうか」
「いや、もう少し飲みたいな」
エレスサールはそう答えて、グラスに触れた。
「さっきのと一緒のをもらえるか?」
「かしこまりました」
うやうやしく一礼した執事がファラミアのほうを向く。
「陛下。もしよろしければ、続きは書斎でいかがでしょう」
ファラミアはエレスサールに提案した。水菓子を食べないのなら、食堂にいる必要はない。書斎と言っても、机が書架に囲まれただけの部屋ではない。執政館における執務室のようなもので、人と会うこともあり、長椅子とローテーブルを置いてある。
「そうだな」
エレスサールは頷いた。
「では、葡萄酒と……何か適当につまむものを二人分、それと、あのテーブルクロスを書斎まで頼む」
「かしこまりました」
一礼した執事が食堂を出ていく。
「参りましょうか」
ファラミアは席を立ち、エレスサールに手を差し出した。
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