青嵐[12]
夜空を進む銀の花が中天に差しかかろうとする時刻、ファラミアは主の部屋を訪ねた。
「今日のことは面目次第もなく……お傍にいながら殿下にお怪我を負わせてしまい、誠に申し訳ありませんでした」
既に昼間、エルダリオンを城へ送り届けた際、謝罪はしている。そのときにエレスサールから赦しの言葉は得ていたが、主筋の継嗣を目の前で傷つけられたのだ。「はい、そうですか」とあっさり割り切れるものではなかった。けれど、鷹揚な主は「もう謝るな」と手を振った。
「エルダリオンはあなたのことを責めてない。わたしも責めるつもりはない」
エレスサールは微苦笑して赤葡萄酒の杯を取り上げ、口を付けた。ハロンドールの葡萄酒だという。彼が王位に就いて以降、開墾された土地だ。今では良い葡萄酒ができると評判になった。
「今日のことは仕方がない。エルダリオンが避けられなかったと言っていたぐらいだ。余程の不意打ちだったのだろう。あの子はエルダールの血が入っているせいか、反射能力は高い。なのに避けられなかったんだ。あなたが防げなかったのも無理はない」
主の言うとおり、エルフの血を半分引いているエルダリオンが反応できなかったのだから、ファラミアに防ぐことは無理だったのかもしれない。だが、そもそも会わせたのは自分だ。あの子供が乱暴なのもわかっていた。もっと注意を払うべきだった。
「油断いたしました。申し訳ありません」
ファラミアが頭を下げる——すると、
「だから……もう謝るなと言っている」
うんざりした声が降ってきた。
「今日だけであなたの『申し訳ありません』をどれだけ聞いたか。この件での謝罪はもう終わりだ」
目を上げれば、顔を顰めたエレスサールがファラミアを睨めつけていた。臣下に頭を下げられて不機嫌になる主君というのは珍しい。けれど、エレスサールらしいとも言えた。思わず笑みがこぼれそうになる。
「恐れ入ります」
ファラミアは笑みを隠すように礼を取り、寛大な心の主君に謝意を示した。
「礼を言うのはこちらのほうだろうな」
杯を傾けながら、エレスサールが言った。
「エルダリオンから聞いた。最終的に、あの子供は絵具は受け取ってくれたのだと。 あなたが子供を説得したおかげなのだろう? 世話をかけたな」
「いえ、わたしの説得など大したことはございません。殿下のお心が通じたのですよ」
あの子供の心を動かしたのは、エルダリオンの真摯な態度だろう。ファラミアが同じことをしたとして——絵具は逆らわずに受け取ったかもしれないが——果たして「欲しい」と思わせることができたか。受け取った絵具を大切そうに胸元で抱えていた姿が蘇る。自分が渡していたら、あんなふうに抱えられることはなかっただろう。
ファラミアは自嘲めいた笑みを口許に浮かべ、手に取った杯を傾けた。
「エルダリオン様のご様子はいかがです? わたしには『怪我のことは気にするな』と明るい顔を見せてくださいましたが、落ち込んでらっしゃるのでは?」
「確かに落ち込んでいたな」
エレスサールがふうっと息を吐いた。
「怪我のことを話すのは気が進まないようだった。実のところ、細かいところは付いていった侍従から聞いたんだ」
「さようでございますか」
やはりショックは大きかったようだ。額の傷もさることながら、心に付いた傷も気がかりだ。特に成長期に受けた精神的ショックは後々まで引きずることがある。エルダリオンには良き両親と教師が付いており、今回の経験も良い方向へ活かしてくれると信じてはいるが、次代の王という前提で考えるため、どうしても心配してしまう。
「まあ、落ち込んでいたと言っても、夕食は一緒に取ったから、あまり心配することもないと思うが」
「さようで」
「ああ、冗談には笑っていたし、大丈夫だろう」
「そうお聞きして安堵いたしました」
言葉どおり、ファラミアはほっと息を吐いた。部屋に引き籠もったなら重症だが、父親と食事をし、笑顔を見せたなら、立ち直りは早いだろう。
「だが、子供の名前を考えるのは辞退すると言っていた」
「え?」
「名前も投げ返されそうだから——だと。それは考え過ぎだと言ってみたが、『未熟者の自分が名前を贈るのは相応しくない』と言って聞かなかった。決意は固いようだ。一応、ファラミアには伝えると言っておいたが……」
エレスサールが「どうする?」と訊くように、こちらを見た。
「無理強いはいたしませんが、わたしとしては、殿下にお考えいただきたいですね」
エルダリオンが辞退したいと言った気持ちはわかるが、取り止めてしまったほうが一件を引きずるように思えた。名付けたほうが、大したことではなかったと認識を改めることができるだろう。ファラミアの考えを読んだように、エレスサールが「そうだな」と頷いた。
「そう伝えておくよ。あなたからも、時間があったら一度話してみてくれ」
「わたしが直接お話ししてよろしいのですか?」
「構わないよ。——ああ、だが、忙しいだろうから、無理にとは言わない。これは命令ではなく、友人としての頼みだ。うちの子供たちはわたしより、あなたの言葉のほうに重きを置いているようだから」
「友人として」という言葉をうれしく思いながら、ファラミアは言った。
「そんなことはないでしょう。ですが、お話しはさせていただこうと思います。わたしももう少し殿下とお話ししたいと思っておりましたから。近いうちにお伺いします」
「そうしてくれると助かる。ありがとう」
主君の謝意に、ファラミアは小さく頭を下げた。
「ところで、捕らえた覆面男の様子はどうだ? まだ黙りか?」
捕らえた護衛は黙秘を続けている。名前も言わないあたり、大したものだと思う。
「ええ。ですが、青紫玉を見せたところ、僅かに表情が変わったと聞きました。もう少し揺さぶれば口を開くかもしれません」
「そうか。——もう一人の護衛と、雇い主はどうしてる?」
赤葡萄酒の杯をゆっくり揺らしながら、エレスサールが訊いた。
「残った護衛は相方の消息を探っているようで、歩きまわっています。アエガシオンは館に帰らず、あの借り家に籠もっています。動揺したのかと思いましたが、日が暮れると出かけるそうなので、そのためかもしれません」
「あの借り家から日暮れに出かけるとなると……行き先は娼館か」
「はい」
ファラミアは頷いた。
「娼館の者に聞いたところ、先月半ば——ちょうど父親のマエグヒアが領地へ帰った頃ですね、それから毎晩のように通っているそうです」
「それはまた……ずいぶんと入れ込んでいるな」
エレスサールが呆れ半分感心半分といった調子で言った。
「ええ、かなり熱を上げているようで、情熱的な恋文も送っているそうです」
「毎晩通ったうえに恋文まで送るとは、確かに情熱的だな」
「いえ、恋文は先月、マエグヒアがミナス・ティリスにいた頃の話だそうで……。父親の目が厳しくて思うように出かけられなかったのでしょう」
「そんな息子を置いて、マエグヒアはよく領地へ戻れたな。人の子の世界でも、不良息子の監視は厳しいのが普通かと思っていたが」
エルフの庇護の下で育った主が不思議そうに言った。
「厳しいのが普通ですよ。特に上流階級では」
ファラミアは人の子の世界の名誉のために、やんわりと反論した。
「おそらく、マエグヒアは知らないのだと思います。知っていたら、少なくとも置いて帰らないでしょう。強制的に領へ連れ帰っていますよ」
「しかし、使用人たちは知っているはずだ。一人ぐらい、当主に注進する者がいるだろう」
エレスサールの常識的な疑問に、ファラミアは軽く肩をすぼめた。
「タイミングの問題ですね」
「タイミング?」
エレスサールが首を傾げる。
「娼館の者によると、アエガシオンが初めて見世に登楼(あが)ったのは、先々月の末、友人に連れられてのことだったそうです。ちょうど先月はじめにマエグヒアがミナス・ティリス入りしていますので、今の敵娼(あいかた)に出会ったのは、父親が来るまさに直前だったんでしょう」
「つまり」と、後を引き取るようにエレスサールが言った。
「父親が来たときはまだ通い詰めてなかったわけか」
「ええ。そして父親がいる間はおとなしくしていた」
「なるほどな」
腑に落ちた様子でエレスサールは頷いた。
「しかし、もうそろそろお節介な誰かが領地の当主に手紙を書く頃じゃないか?」
「かもしれません」
ファラミアは笑った。
「ですが、それはマエグヒアの家の者に任せましょう」
「そうだな」
ファラミアと同じように笑ったエレスサールだったが、急に表情が固まった。眉間に僅かな皺が寄る。
「……いや、ちょっと待て。手紙……」
顎に手を当て、ブツブツと低い声で呟きはじめた。
「……陛下?」
どうしたのかと声をかければ、パッと顔が上がった。
「そうだ、手紙だ」
独りごちるように言った顔は、輝いていると言いたくなるほど晴れ晴れとしていた。
「ファラミア」
間近に迫ったエレスサールの青い瞳には、挑戦的な光が浮かんでいた。彼の手がつかむようにファラミアの肩に置かれる。
「は、はい……」
エレスサールの勢いに気圧されるという珍しい事態を前にしたファラミアに、弾んだ声が問いかけた。
「アエガシオンの恋文は手に入るか?」
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