青嵐[3]
陽が落ちて一刻が過ぎた頃、執政館の客間にエルダリオンの父、エレスサールが現れた。国王らしからぬ質素なマントで現れた父は、大股でエルダリオンに歩み寄り、長い腕を伸ばした。
「無事で良かった」
抱き込まれた頭の上で「遅くなってすまなかった」と、詫びの言葉が続いた。
「いいよ」
エルダリオンは緩やかに首を振った。執務を放り出してこられたほうが、いたって心配になる。もっとも執政館に駆け込んだ時点で、そんな心配はしていなかった。
——殿下は責任を持ってお預かりいたします。陛下はご自分の為すべきことをなさってください。
あの執政が釘を刺したに違いない。
「それにしても——」
エレスサールは無事を確認するようにしげしげとエルダリオンを眺めていたが、やがておもしろそうに言った。
「犬や猫の仔というのは聞いたことがあるが、まさか、人間の子供を拾ってくるとはな」
ここへ来るまでに経過を聞いてきたからの余裕だろう。とはいえ、無事を確かめたにしても、のんきな反応である。いかにも父らしい。
「しかも荷車に紛れてきたんだって?」
長椅子に腰を下ろしながら問われ、エルダリオンはこくりと頷いた。第五環状区へ上がる門は、古着屋で仕入れたマントで子供をくるみ、なんとかやり過ごせた。だが、同じ方法で、寮病院や高官の邸が並ぶ第六環状区への門をくぐれるか自信がなかった。第六環状区の門番は貴人の顔を見知っていると聞く。エルダリオンの顔も知られているかもしれない。
考えた末、通りかかった荷車の人夫に掛け合い、子供を荷物の陰に隠してもらった。エルダリオンは人夫から借りた粗末なマントを羽織り、荷車を押して通った。人夫の要求額は、ファラミアに言わせると足下を見られたことになるらしいが、無事に辿り着けたのだから特に騙されたとは思っていない。
「殿下に変な智恵を付けないでください、と叱られた」
父は楽しげに笑った。口調や態度から、彼が息子の取った行動を愉快に感じていることはわかったが、無茶をやったことは間違いない。エルダリオンは謝った。
「父上。すみません」
「構わないさ」
父の手がくしゃりとエルダリオンの頭を撫でた。
「お前が子供を見殺しにしてこなくて良かった」
そう言われて、エルダリオンはようやくほっと息を吐いた。あの覆面組と遭遇してから、やっと肩の力が抜けたような気がした。それに気づいたように父は目を細め、続き部屋のテーブルを向いた。
「まずは夕食にしよう。お前もまだなんだろう?」
立ち上がった父は用人を呼び、食事を運ぶように言った。
「父上、シルメギルは? 無事だと聞いたけど、隊長に叱られてない?」
エルダリオンはテーブルへ移動しながら、もうひとつ気になっていたことを訊いた。ファラミアに彼の無事は確認してもらった。覆面の二人連れは衛兵が駆けつけてくるのを見てすぐに逃げたらしく、大きな怪我はなかったという。しかし、その後の細かいことはわからないままだ。特に厳格な父親に叱責を受けていないか、気がかりだった。
シルメギルは身を以てかばってくれたが、エルダリオンから離れた点を取り上げると、護衛をまっとうできたとは言えなくなる——エルダリオン自身はそう考えなくても、評価はそうなるものらしい。
だが、今日の場合は相手が悪過ぎた。あんな二人を相手にして完璧に護衛しようと思ったら、エルボロンに近い技量が要るだろう。護衛をシルメギル一人で良いとしたのは父とファラミアであり、彼に責任はない。これで叱責されたのでは割に合わない。
「彼もお前がどうしたのか、ずいぶん気にしていたらしい。殿下にご迷惑をおかけしたと、わざわざ近衛隊長が詫びに来た」
用人が引いた椅子に腰を下ろしながら、父が言った。
「隊長には、エルダリオンが怪我をせずに済んだのはご子息のおかげだ、だから叱らないでやってくれと頼んだが……」
彼は頑固だからどうだかな……と、父は首を傾げた。父の言うとおり、近衛隊長は国王の口添えがあっても、自分が納得しない限り考えを曲げない。王の言葉でも考えを曲げない——つまりは王に籠絡されない頑なさ、そこを執政に買われて近衛隊長になったという噂があるくらいだ。シルメギルがきつく叱られているのでは、という心配は消えない。考え込んでいると——、
「心配なら明日会えるようにしよう。お前が礼を言いたいと伝えれば、城かここで会えるだろう」
エルダリオンの心中を察したかのような声がかかった。
「わたしも息子を助けてもらった礼を言いたい」
顔を上げれば、片目をつぶった父の顔があった。
「父上に礼を言われたら、シルメギルは腰を抜かすよ」
軽口を返したが、エルダリオンは父が気持ちを汲み取ってくれたことがうれしかった。自分もきちんと礼を言いたい。明日会ったら、まずは置き去りにして逃げてしまったことを詫びよう。護衛であっても、仕える者を置き去りにしていいはずがないのだ——主ならば。
そんなことを考えていると、戸口から良い匂いが漂ってきた。
「鹿肉と野菜の煮込みでございます。殿下がお好きだと伺ったので——」
エルダリオンも幾度か見たことのある執政館の料理長が、給仕にワゴンを運ばせて入ってきた。
「少々香辛料を利かせてございます」
料理長が料理を説明するうちに、給仕が手際よく料理を並べていく。籠に盛られたパンとチーズの皿、煮込み料理の器とカトラリー、葡萄酒と水差しとグラス。葡萄酒の栓が開けられ、父のグラスに注がれた。エルダリオンのほうは水だ。
「煮込みはファラミアの指示か?」
「はい」
料理が並んだところで父が訊くと、料理長は頷いた。それを受けて、父の目がエルダリオンに向く。意味を悟ってエルダリオンは礼を言った。
「ありがとう。ファラミアにも礼を伝えてくれ」
「わたしからも礼を言う。あとはこちらで勝手にするから下がっていいぞ」
父の言葉に、料理長と給仕は恐縮しながら部屋を出ていった。扉が閉まってから、父はくすりと笑った。
「この手の煮込み料理は庶民の食卓に上るもので、賓客——特に王族をもてなすのに出すものではないんだ。料理長としては不本意だっただろう。彼はローストかソテーを出したかったのかもしれない」
あ、とエルダリオンは口を開けた。言われてみれば、城でこの種の煮込み料理は出てきた試しがない。エルダリオンは父との散歩でこの手の料理を知った。幾度か厨房につくってくれるよう頼んでくれと給仕や侍従に言ったことがあるが、やんわりと断られてそれきりである。
「じゃあ、料理長に悪いことした……?」
「いいさ。館の主の指示だ。それに、お前に礼を言われて彼も納得しただろう」
父はさじを取り、ふと確かめるように言った。
「お前がファラミアに頼んだわけではないのだろう?」
エルダリンオンはさじを手にしながら頷いた。頼むどころか、さっきまで食事のことなど頭になかった。
「ファラミアなりに、お前の緊張をほぐそうと気を遣ったんだ」
思ったとおりという顔で父は笑った。
「今はマシになったが、さっき、わたしがここへ入ってきたときのお前の顔といったら、ちょっと見たことがないくらい強張っていたからな」
「え……」
エルダリオンは少なからず驚いた。気が高ぶっているのは自覚していたが、そんなにガチガチに緊張しているつもりはなかった。
「そんなに凄い顔してた?」
「凄いというほどじゃないが、表情が硬かった」
父は穏やかに笑い、宥めるように付け足した。
「命がけの思いをしたんだ。強張っても仕方がない。むしろ当然だろう」
「でも、父上は命がけのことでも平気だ」
エルダリオンが生まれる前、数多の戦いを制し、幾つもの死線を越えてきたエレスサールは非常事態に動じない。瞬時に最良の判断を下し、適切な対処をする。
もし、今日の事件に居合わせたのが父だったら、あの場でカタが付いていたに違いない。父なら子供をかばいながら、あの二人を叩き伏せられただろうから。護衛を置き去りにし、執政の館へ逃げ込むしかなかった自分とは大違いだ。
「百年以上生きている人間と比べるな」
父が呆れた顔をした。
「まあ、そうだけど……」
「お前はよくやった。わたしがお前と同じ年頃だったら、子供を助けられたかわからない」
「けど、父上の剣の腕は子供の頃から並外れていたと聞いたけど」
エルフの双子の伯父がそう言っていた。彼らはドゥネダインと行動を共にすることが多かったそうで、人間の剣のレベルもわかるらしい。そんな二人が言うのだから、父の剣の腕は相当なものなのだろう。だが——、
「エルダリオン。剣の腕だけが良くても人は助けられない」
厳かな声がエルダリオンの考えを否定した。
「当時のわたしはエルフに囲まれて暮らしていた。身近な人間は母だけで、あとは人との係わりがまったくと言っていいほどなかった。だから、似たような事態に遭遇していたら、襲撃者は斬り伏せられても、子供を保護するなんてことは思い浮かばなかっただろう」
襲撃者を阻止するだけで、子供のその後には考えが及ばない——つまり、掏摸の子供を大人が二人がかりで襲い、通りがかった者まで一緒に斬り殺そうとする、その異常さに気づかないということだ。
その場の襲撃者を始末しても、新手が子供を襲う可能性に気づかなければ確かに意味がない。翌日、子供は別の刺客の手にかかるかもしれないのだから。
そうした事情を察することができなければ、人の上には立てない。ましてや治めること、統べることは難しい——そういうことかとエルダリオンは解釈し、こくりと頷いた。
◆◇◆◇◆◇◆
「父上は、今日襲ってきた二人を捕まえても、新手が来ると思う?」
さじを動かしながら、エルダリオンは訊いた。
「おそらく」
父が思慮深い表情で頷いた。
「子供一人を二人がかりで執拗に追うなど普通ではない。それも白昼にだ。二人組は相当の手練れだったのだろう?」
「うん」
「貴族の用人か、高官の護衛か……。覆面をしていたのは、顔を知られてはまずいからだ。この件にはたぶん、名のある家が係わっている」
「掏摸の子供が?」
エルダリオンは首を傾げた。掏摸の子供と貴族では接点がない。
「名家と言っても、子息が盛り場に繰り出すことは珍しくない。懐に大金を入れ、高価な品を身に帯びて盛り場に出る彼らは、掏摸にとって良い稼ぎ相手だ」
「つまり、あの子が……貴族から財布を掏り取ったってこと? でも、僕もそうだけど、彼らは自分で財布を持たないんじゃ……」
貴族の家の支払いがどうなっているのか、詳しいことは知らない。けれど、エルダリオンの日常と似たようなもので、普段から金を持ち歩くような生活はしていないのではないか。父は「そうだな」と頷いたが、意味ありげに笑った。
「だが、盛り場には賭場もある。参加するには金が要る」
そういうことかとエルダリオンは納得した、が「しかし——」と父の言葉は続いた。
「子供を追いかけていたのは金を掏られたからではないだろう」
「え?」
「彼らは金を惜しまない——とは言わないが、盛り場で遊ぶ余裕があるんだ。掏られたその場なら追いかけるだろうが、後日わざわざ捜し出して命を狙うようなことはしない。だから金というのは考えにくい。替えの利かない何か……品物、もしくは……」
父の声は徐々に低くなり、青灰色の眼差しが鋭くなった。
「命を狙っていることから、聞かれてはまずい話という可能性もある」
「話……密談ってこと?」
密談——情報がときに命に係わる価値を持つのはエルダリオンも知っているが……。
「でも、あの子供がそういう話を聞いたとして、意味がわかるとは思えないけど……。それでも殺そうと追いかけるものかな」
どんなに重要な話であっても、意味がわからない者には何の価値もない。特に貴族の会話というのは、家同士の力関係、属している派閥といった予備知識がないと、聞いていても何のことかわからないものだ。
また、話の意味がわかったとして、どこに持ち込めば有益か、といった判断には上流階級の勢力図の把握が必要不可欠だ。ちなみに、父を除いた勢力図の頂点にいるのが、この館の主だ——とエルダリオンは見ている。
そういった貴族間の力関係をあの子供が知っているとは思えないし、密談を聞いたとしても——見下すつもりはないが——その価値を計る知識があるとは思えなかった。放置しておいたほうが安全ではないだろうか。昼間から抜き身を提げて追いかけまわすほうが耳目を集めて危険に思える。だが、父は「市井の子供だからといって油断は禁物だ」と首を振った。
「情報を得るのに子供を使うこともある。話を聞いて来い、とな。他にも、どんな人物と会っていたか、見て来させる使い方もある」
「つまり、後ろに大人がいるってこと?」
「そういうこともある、という例だ。お前が拾ってきた子が盗み聞きをしていたとは言ってない」
父は苦笑した。
「今回の場合は、情報ではなく品物ではないかと思う。なにしろ掏摸だからな」
確かにそう考えたほうがしっくりする。
「どんな物だと思う?」
「さあな。品物なら……おそらく高価なだけでなく、家の体面に係わるような物だ。だから取り返すために大人が二人がかりで追っている」
「でも、あいつら、最初から殺す気だったよ。何かを取り返せば済むという雰囲気じゃなかった」
「それはお前、盗まれたこと自体が恥になるからだろう。お前がもし、王笏を盗まれたらどうする? 返してもらって『ありがとう』で済ませるか?」
「それは……」
エルダリオンは言葉に詰まった。アンヌミナスの王笏が盗まれれば一大事である。国家の威信にかけて捜索するだろうし、盗んだ者は厳罰に処せられるだろう。
「だけど、王笏を持って街に出かけたりしないよ」
王家に王笏や王冠があるように、貴族の家にも命がけで守らねばならない品は伝わっているだろう。だが、そういった物は門外不出の扱いになっているはずだ。軽々しく盛り場へ身に付けていくわけがない。
「父上だって、王冠や王笏を持って出かけないだろう?」
気持ちも身の運びも軽く城外へ出かける父だが、微行にはアンドゥリルすら携帯しない。あんな目立つ剣を提げていたら微行にならない——というのが父の弁だが、それだけではないだろう。やはり、ああいう物は在るべき場所にあってこそと思っているはずだ。
「まあな」
父は小さく笑い、グラスに口を付けた。
「何にせよ、今は憶測でしかない。あの子供が本当に貴族の懐から品を掏ったのか、それとも聞いてはならぬ話を聞いたのか……何もわかっていない。まずは、あの子の最近の行動を聞き出さねばならないが……」
少し困ったような顔で父が笑った。
「そう簡単にしゃべってもらえないようだな。目が覚めてから、ひと騒ぎしたそうだし——」
エルダリオンはため息を吐いて、さじを口に運んだ。あの子が騒いだのも無理はないのだ。同じ目に遭ったら、誰だって愕然とするだろう。
エルダリオンが執政館に駆け込み、報せを受けたファラミアが館に舞い戻ってきたとき、あの子供はまだ意識を取り戻していなかった。
——ちょうどいい。今のうちに湯浴みさせましょう。
執政は眉ひとつ動かさずに言った。失神している者にそれはあんまりだろうとエルダリオンは意見したが、起きてから湯に浸けるのは至難の業だと一蹴された。とはいえ、湯を浴びせられて、のんきに眠っていられる人間は極少数に違いない。
あの子供も洗われている最中に目を覚ました。その後、洗い場(使用人が湯を使う所らしい)は甲高い罵詈雑言が反響する修羅場と化したらしい。
しかし、それも執政が収束させた。と言っても、彼の怒気に子供が恐れをなし、口を閉ざしたのではない。首筋に手刀を落とし、強制的に眠らせたのだそうだ。
——恐ろしい。
相手は子供だというのに、一切容赦がない。あまりぞんざいな扱いをするなと言ったが、悪口雑言をいちいち聞く義理はないと、まったく取り合ってもらえなかった。
そのうえ、エルダリオンがひと通りの事情を説明すると、その後は慇懃に湯殿へ放り込まれ、客間でごゆっくりと、部外者の扱いにされてしまった。あの子供のことで、エルダリオンの耳に入ったことなんて知れている。
だが、主である父には詳しい説明が為されているだろう。エルダリオンは期待を込めて訊いた。
「父上、ファラミアからの説明は?」
「名前……というか、通称は聞いた。ニベンと呼ばれていたと」
屈託した響きの返事は、エルダリオンが聞いたのと同じ内容だった。
「良い意味ではないな」
父が憂い顔で呟く。エルダリオンもまた、沈んだ気分でパンをちぎった。
ニベン——誰に付けられたかは憶えていないらしいが、ずっとそう呼ばれてきたという。ニベンがNibenなら、その意味はpetty, small ——取るに足らない小さいものということだ。
「通称以外で大したことはわかっていないようだ。なにしろ、口を開けば罵る言葉ばかりで、肝心なことは聞き出せなかったらしい」
「そんなの当たり前だ」
エルダリオンは強い声で言った。
「失神している隙に勝手に湯を浴びせて……、誰だってしゃべるわけがない」
「確かに感心しないが……」
父が思案顔で呟く。
「ファラミアなりに何か考えがあるのだろう」
「どんな?!」
いったいどんな考えがあると、意識を失っている子供に湯を浴びせられるというのか。納得のいく説明があるなら聞こうと思ったが、父は軽く首を傾げただけだった。
「……わたしが知るわけないだろう。何も聞いていないのだから」
「なっ……」
エルダリオンは腰を浮かした。
「父上!」
「……なんなんだ。いきなり大きな声を出すな」
青灰色の目を見開き、父は上体を僅かに退いた。
「ゴンドールの王は誰?」
「わたしということになっているが」
それがなんだ、という調子で父は言った。
「だったら、ファラミアの考えも聞き出せるじゃないか。命じればいい」
「……お前、そんな態度で玉座にいたら、寝首を掻かれるぞ」
呆れたように言われたが、エルダリオンは引き下がらなかった。
「だけど、臣下として度が過ぎているのは向こうだろ」
「別に不都合はない」
あっけらかんと言われ、今度こそエルダリオンは立ち上がった。
「父上っ!」
「いちいち叫ぶな。聞こえてる」
とにかく座れと促され、エルダリオンは渋々腰を下ろした。よし、と頷いた父が「一つ訊くが」と声を潜めて身を乗り出す。何事かと耳を傾けたエルダリオンだったが——、
「お前、積極的にあの男の考えを聞きたいか? そんな恐ろしいこと、わたしは御免だ」
発せられた言葉に突っ伏しそうになった。
「父上は……ファラミアが怖いの?」
以前、「この国で一番強い人間の男は、王ではなく執政」と言われたことはあったが、それは父の王らしからぬ所行を咎める点を指しているのだと思っていた。
「お前は怖くないか?」
青灰色の瞳がエルダリオンを見据える。
「それは……確かに、怖いときもある」
だろう? と父が頷く。だから、自分も怖いんだと結論付けようとするかのように。けれど、そんな単純に済ませて良い問題ではないことぐらい、子供にもわかる。
「けど、父上が怖がっていては良くないと思う」
エルダリオンはまっすぐに父を見つめた。
「……確かにそうだな」
父は目を伏せ、ふっと息を吐いた。
「白状すれば、知り合ったばかりの頃はともかく、この数十年、本気で怖いと思ったことはない」
グラスを傾け、くすくすと笑う。
「目が笑っていない微笑や、怒りも露に眉を吊り上げた顔で迫られると、つい後退ってしまうが……、命を脅かされる危険を感じたことはない」
「それって……」
「なんだ?」
「父上は命の危険がなければ平気なわけ?」
我が親ながら、感覚のズレの激しい人だ。喉元に剣を突き付けられるまで、平気な顔をしているのではないかと、余計な心配をしてしまう。
「そういうわけでもないが……」
なんと言えばいいのか、と父は首を傾げ、言葉を選ぶようにゆっくりと言った。
「彼からは、攻撃の気配を感じたことがないんだ。敵意とでも言うのかな。今までに何人もの諸侯や官吏、将軍たちと衝突してきた。多くの相手から、こちらを倒そうとする攻撃的な意志を感じた。中には殺気に近いものもあった。そういったものを彼から向けられたことがない。——わかるか?」
なんとなくわかる、とエルダリオンは頷いた。
「代わりに凍りつくような気配を漂わせてくれるが、あれも、わたしやお前が居合わせたときは加減してくれているようだ」
そう言うと、父は懐かしそうに目を細めた。
「昔、他の者に対してどういう態度を取るか、偶然、目撃したことがあった。政策に反発する者たちが、彼になんとか方針転換させようと圧力をかけているところだった」
「ファラミアに?!」
エルダリオンは目を剥いた。政策に反発する者や、己に利するよう他者に圧力をかける者がいることはわかる。が、ファラミアに圧力をかけるなど、
——命が惜しくないのだろうか。
そんなエルダリオンの思いを読んだかのように、父は「だから昔の話だ」と苦笑した。
「今ではそんな命知らずな真似をしようと試みる者はいないが、当時はわたしが即位して間もない頃で、彼も若かった。おまけに、執政職に就く前は“勇猛な長男の影に隠れた凡庸な次男”というのが外部の評価だったらしいから、御しやすいと思われたんだろう。そう認識していた者たちからすれば、とんだ見込み違いだったわけだが……」
それは見込み違いではなく、見る目がなかったと言うべきではないだろうか。あの男を御しやすいだなんて、どこをどう捉えればそう思えるのか。子供の自分でも、そんな頓珍漢な評価はしない。
「あれは、凍るなんて可愛らしいものじゃなかった。皮膚が裂けるかと思った……」
ぽつりと呟いて、父は小さく笑った。そこは笑うところではないと思うのだが……。
「あれは怖かったな」
口では怖いと言っているが、父は楽しそうに笑っている。実際のところ余裕なのだ。これくらいの度量がないと、あの男を右腕として使えないのかもしれない。
「何を考えているかわからないときも、未だに理解し難い面もあるが、少なくとも、わたしを攻撃する意思がないことはわかる。それは、わたしが大切にしているものにも適用される」
絶大の信頼を置いた口調だった。
「だけど、あの子供のことは……」
掏摸を丁重にもてなせとは言わないが、人間扱いさえしていなかったではないか。そう非難しようとしたが、父が先まわりするように遮った。
「エルダリオン。子供を失神させたことを非難するなら、お前も同じだぞ。ここへ連れてくるのに昏倒させている」
青灰色の瞳が皮肉げに煌めく。
「子供にとっては、お前もファラミアも、自分をいきなり殴った乱暴者だ。差など無いだろうよ」
「……それは、そうだけど」
指摘されてエルダリオンは詰まった。
「……仕方ないじゃないか。緊急事態だったんだ」
苦し紛れの言い訳を口にする。
「それならファラミアも同じだ。仕方のない緊急事態と言える」
「どこが」
エルダリオンはムッとなった。自分の場合、覆面組に追いつかれたら命がなかったかもしれないのだ。一緒にされるのは不本意だった。しかし、父は平然と言った。
「子供が暴れ続けたら、使用人が怪我をする恐れがある。雇い主である彼には使用人を守る義務がある」
そう言われてしまうと正当な理由に思える。湯浴みさせることの緊急性はともかく、洗い場で暴れ続けられたら、怪我人が出る恐れはある。
「けど、やり過ぎじゃないか」
「まあ、容赦のない面があるのは認める」
容赦のなさは身をもって知っているのだろう、父は苦笑した。
「だが、彼なりに、お前が子供を保護した気持ちには配慮している。あの子の身の安全は保証すると言っていた。襲撃の裏事情も探るそうだ。任せておいて問題ない」
「それはわかってるけど……」
ファラミアがこの事件をどう扱うのかという点には、エルダリオンも不安を感じていない。彼の手腕を見込んで執政館に駆け込んだのだから。ただ、自分の意見がまったく取り合われず、爪弾きにされるのはおもしろくない。だが、エルダリオンを事の圏外に置いておきたいのは、ファラミアだけではないようだった。
「疲れただろう。部屋を用意してくれるそうだ。今夜はこちらでゆっくり休むといい」
カトラリーを置いてこちらを見た父の目が、もう係わるなと語っていた。