青嵐[4]
息子との夕食を済ませた後、アラゴルンは改めて執政館の主ファラミアの書斎を訪ねた。
「エルダリオン様は落ち着かれましたか?」
「ああ、夕食を取って気持ちがほぐれたんだろう。横にならせたら、あっという間に寝入ったよ」
長椅子に腰を下ろすと、目の前にふくよかな香りを放つ杯とデカンタが置かれた。アラゴルンの好みの葡萄酒だ。昔からこういう面でそつのない男である。
「お疲れになったのでしょう。ずいぶん緊張なさっていましたから」
向かい側に腰を下ろしながら、切れ者の臣下はやわらかな微笑を浮かべた。その杯に葡萄酒を注いでやりながら、アラゴルンは礼を言った。
「世話をかけたな」
「とんでもありません。殿下方のお世話をするのは臣下の務め、当たり前のことをしたまでです。頼りにしてくださったことを喜んでおりますよ」
付き合いの長い臣下は、注がれた杯へ悪びれずに口を付け、にこりと笑った。
「なにしろ、主君がまったくと言っていい程、頼ってくださらず、さみしい思いをしておりますから」
ひと言多いのも昔から変わらない。アラゴルンは小さく肩をすぼめ、一件のその後を尋ねた。
「掏摸の子はどうしてる?」
「ぐっすり眠っていますよ。あの子も疲れたのでしょう。念のため、野伏に見張らせていますが、今晩脱け出される恐れはまずありませんね。万が一、館を脱け出せたとしても、環状区を出ることは無理でしょう」
執政は自信たっぷりに言った。そのとおりだと思ったが、アラゴルンはわざと反する言葉を投げかけてみた。
「無理とは言えまい。エルダリオンは環状区の門を超えてきた」
「そうですね」
ファラミアがしみじみと頷いた。
「今回のことで、改めて思いましたよ。さすが陛下の御子だと」
最後の一言にアラゴルンは唇を曲げた。まったく、誉めているのか、貶しているのか……。藪蛇だったと思いながら、アラゴルンは杯に口を付けた。
「とっさに子供の身の安全を考え、古着を調達し、荷車に紛れて門番の目を盗む──。野伏並みに智恵の働く王太子であらせられると、大変頼もしく思いました」
やっぱり誉めてない。杯ごしに恨みがましい一瞥を送ったが、余裕の笑みでかわされた。この笑顔を崩すのは至難の業である。アラゴルンはふいと視線を逸らし、うそぶいた。
「頭の回転が速いのはアルウェンの血だろう。母方の血筋なら智恵者の孫だ」
「おや、使った手段はすべて『父上から聞いた』と仰せでしたよ」
向かいの席で碧色の瞳がきらめいた。
「普段どんなことを教えてらっしゃるのか、非常に興味を覚えました」
「教えたわけじゃない。雑談で話しただけだ」
「それを“教える”と申すのですよ」
あっさりと一蹴され、アラゴルンは息を吐いた。
「……わかった。妙な智恵を付けないよう、気をつけるよ」
「ご理解くださりありがとうございます」
恭しい口調だったが、白々しくしか聞こえない。アラゴルンは話を変えるべく新たな質問をした。
「それで、襲った連中のことは何かわかったか?」
「ええ。これが——」
ファラミアが懐から布にくるんだ物を取り出し、テーブルに置いた。
「子供の服から出てきました」
広げられた布の中心から、暮れゆく空の藍色で染めたような美しい石が現れた。銀の金具に留められているそれは、アラゴルンの親指ぐらいの大きさがあった。
「青紫玉か?」
本物なら金貨五、六十枚の価値があるだろう。南の地で産出する石だった。夜の帳が下りてくるときの、僅かな時間だけ空を彩る藍色を再現したかのような宝玉は、紅玉や青玉ほどではないにしろ、人気があり高値で取り引きされている。
——なるほどな。
これを掏摸取ったとすれば、追いかけ回されるのもわからないではない。しかし——、
いきなり斬り殺そうとするのは解せなかった。
「この“獲物”について、あの子はなんと言っている?」
悪罵をわめき散らすだけだったと聞いたが、その中に真実が紛れていることがある。ファラミアはそのあたりの嗅覚が鋭い。この男特有の勘の良さを期待したが、そう都合良く事は運ばなかったようだ。
「泥棒と——」
ファラミアは愉快そうに笑った。
「気絶させて持ち物を奪い、身ぐるみを剥ぐのは貴族じゃない。追い剥ぎだ、盗人だと、叫んで暴れて——それはもうすごかったですね」
「それは……ご苦労だったな」
状況を想像し、アラゴルンはねぎらいの言葉をかけた。しかし、能吏にとって、そんな子供の反抗は大したことではなかったらしい。ファラミアは軽く首を振った。
「いえ。それは良いのです。それよりも——」
少し表情を引き締め、アラゴルンの手許を指す。
「裏をご覧ください」
「これは……」
宝玉を裏返して、アラゴルンは息を呑んだ。宝玉を留めている台座は通常枠のみで、裏側は空洞だ。だが、この宝玉の裏は銀で蓋がしてあり、鷲の頭を象った盾に四つ葉を描いた紋が刻まれていた。
「マエグヒアの……」
「ええ」
ファラミアが頷く。ケロス川沿いに領を持っている男の紋章だった。