青嵐[5]
エルダリオンが目を覚ましたとき、既にあたりは明るかった。午後——にはなっていないだろうが、陽が昇ってから時間が経っているのは間違いない。部屋を照らす光が窓枠の模様をくっきりと床に描いている。陽射しの強さが窺えた。
——寝坊しちゃったな。
いつもなら朝食を済ませ、講義を受けているところだ。だが、起こされなかったことを考えると、今日の“さぼり”は父もファラミアも容認していて、講師にも話が通っているに違いない。疲れているだろうから好きなだけ寝かせておけ——という気遣いなのだろうが、裏を返せば子供扱いされているということになる。
——まあ、子供なんだけど……。
陽が高くなるまでのんびり眠りこけていて、一人前に扱ってほしいとは言えない。
「はあ……」
エルダリオンはため息を吐いて寝台を下りた。水差しの水を飲み、部屋の中を見まわす。着替えたいが、自分の服が見当たらない。城ならば勝手に探すが(実行すると侍従に窘められるが)、ここは執政館だ。
——訊くしかないか。
エルダリオンは廊下を窺いながら扉を開けた。すると——、
「エルダリオン様。お目覚めでしたか」
タイミング良く執事が歩いてきた。
「うん。遅くまで寝ていてすまなかった」
「構いませんよ」
執事は穏やかに笑んだ。
「すぐに洗面具とお召し物をお持ちします」
「ありがとう」
エルダリオンは礼を言って、部屋に引っ込んだ。
——これからどうしよう。
ここでおとなしく待っていれば、やがて城から迎えが来るか、執政館の者が城まで送ってくれることになるのだろう、たぶん。だが、それでは、
——つまらない。
いや、つまらないとか面白いとか、そういうことで済む問題ではないのはわかっている。だが、このまま“無関係”の立場になるのは、あまりにも無責任に思えた。なにしろ、あの子供は自分が連れてきたのだから。
——なんとか自分の手で解決したい。
すべてを解決するのは無理だとしても、事を見届けたかった。とはいえ、解決するといっても何の手がかりも……と考えて、エルダリオンは不意に思い出した。襲ってきた刺客のマントの襟元にあったブローチの文様を。
——鷲の盾に四つ葉の意匠。
あの紋を付けた男を城で見たことがある。確かあれは……。
——ケロス川沿いに領を持つマエグヒア卿。第五環状区に館を構えておられますよ。
脳裏に侍従長の言葉が蘇った。
「——殿下。お召し物をお持ちしました」
扉が開き、衣装を手にした執事が入ってきた。その後ろに洗面具を運ぶ若い男が続く。
「ありがとう」
エルダリオンはにこりと笑って彼らを迎えた。
「お食事を召し上がったらお送りいたします。近衛隊からもお迎えに上がる旨、伺っております」
「そうか、わかった。ありがとう」
頷きながら、エルダリオンは空振りさせることになるだろう迎えの者に、そっと胸の内で詫びた。
◆◇◆◇◆◇◆
鷲型の盾に四つ葉の意匠が彫られた門柱を眺めながら、エルダリオンは息をこぼした。 朝食後、エルダリオンは執政館を抜け出した。館で用意された服は上質なものだったため、厨房近くの部屋で見かけた質素なマントを失敬し、裏口から出てきた。
環状区の門番の目をどう誤魔化すか、それが問題だったが、運良く主道を下っていく荷馬車を見つけ、荷台に忍び込んでなんとか門を越えた。
マエグヒアの館はすぐに見つかった。けれど、ここへ来てから一刻近く、あの門を出入りする者はいない。目当ての人物がすぐに見つかるとは思っていなかったが、誰一人出入りしないとなると少々不安になってくる。昨日の襲撃者は本当にあの館の関係者かという、根本的なところが……。
紋章を見たといっても、ほんの僅かの間だ。似たような紋章の見間違いでなかったとは言い切れない。
——出直そうか。
いや、出直すといっても自分は自由に動ける身ではない。城へ戻ったら、簡単には外へ出られない。また明日来よう、というわけにはいかないのだ。とはいえ、何の収穫もなくここで突っ立っているのも間抜けである。このまま誰の出入りもなかったら、どうするか?
——昨日の現場、第二環状区にでも行ってみるか。
行ってみて何かわかるという保証はまったくないが……と、そう思ったとき、背後からポンと肩を叩かれた。エルダリオンは声もなく飛び上がり、とっさに剣を抜いて向き直った。しかし——、
「おい、親を斬るなよ」
そこに立っていたのは両手を上げた父親——エレスサールだった。くすんだ色のコートに灰色のマント、銘のない剣を佩いている。すっかり微行姿だ。
「……父上」
エルダリオンの身体から一気に力が抜けた。
「脅かさないでよ……」
「そりゃ悪かった」
父は小さく肩をすぼめた。
「なんだってここに……?」
今頃は執務室に詰めている時間だと思って訊いたが、返ってきたのは厳しい視線だった。
「それはこっちの台詞だ。お前を迎えにいったシルメギルが慌てていたぞ。『エルダリオン様がいらっしゃいません』と。執政館の使用人たちもだ」
エルダリオンは首を竦め、俯いた。
「いったいどういうつもりだ?」
「その……昨日、襲ってきた犯人を見つけようと思って……」
「見つけてどうする」
「それは……」
エルダリオンは言葉に詰まった。見つけて、その後どうするか、具体的なことは考えていなかった。
「お前は太刀打ちできなかったんだろう。それで見つけてどうするんだ。斬られてやるのか?」
容赦のない言葉だったが、エルダリオンは何も言い返せなかった。自分は昨日、あの連中が殺そうとしていた子供を連れて逃げたのだ。彼らがエルダリオンを見つけたら、必ず手を下そうとするだろう。そうなったら、まず敵わない。
「言ったはずだ、ファラミアに任せろと。お前もそのつもりで執政館に駆け込んだ——違うか?」
エルダリオンは頷いた。父の言うことは正しい。だが、悔しかった。俯いたまま唇を噛み締めていると、ぽんと父の手が頭に置かれた。
「まあ、事件に係わっていたい気持ちはわかるがな」
頭に置かれた手が、フードの上から慰めるようにくしゃりと撫でる。その子供扱いが悔しい。けれど、振り払うこともできず、エルダリオンは肩を落として足下を見つめた。
「とにかく、ここにずっと突っ立っていてはこっちが不審者だ」
黙り込んでいると、苦笑交じりのやわらかい声が振ってきた。頭を撫でていた手に軽く背を押される。
「行くぞ」
促されて、エルダリオンはとぼとぼと歩き出した。このまま城へ連れ帰られるのだと思うと、情けなくて涙が出てきそうになった。結局、何もできなかった。帰ったら自分は自由に動けない。事件とは完全に切り離される。それだけではない。しばらく外出を許してもらえないだろう。
惨めな気分で歩いていたエルダリオンだったが、足下の道が下っていることに気づいた。
「——父上」
エルダリオンは顔を上げ、先を歩く背中に駆け寄った。
「なんだ」
「城へ行くんじゃないの?」
フードをかぶって見えない横顔に尋ねる。すると、父の足が止まった。
「帰りたいのか?」
「そういうわけじゃ……」
エルダリオンは口ごもりながら首を振った。
「今連れ戻しても、また抜け出されそうだからな」
父は軽く腕を組み、仕方なさそうに笑った。
「お前の脱走は未遂に終わるだろうが、またファラミアの嫌みが増える。さすがは陛下の御子です、と」
そんなのは御免だと、しみじみした口調で言う。
「それなら、ここで決着をつけたほうがいい」
「じゃあ……」
決着という言葉に、エルダリオンの胸は高鳴った。エレスサールが目を細めて頷く。
「ありがとう。父上」
飛びつくと、あたたかな父の手がぽんぽんと背を叩いた。
「礼を言うのは早いぞ。危険な事件だ。係わらなかったほうが良かったと思うかもしれない」
「平気だよ」
エルダリオンは笑った。だが、すぐさま執政の顔が頭をよぎった。
「でも……ファラミアに叱られるんじゃ……」
父は自分を捜しに来たのだ。当然、執政も捜しているはずである。父がエルダリオンを城に連れ帰らず、事件の探索に同行させたとわかったら、ファラミアの叱責は凄まじいものになるだろう。だが、かの執政の主君を長年やっている父はあっさりと言った。
「心配するな。慣れてる」
さすがと言うべきか。アレに慣れることができるあたり、我が親ながら只者ではない。
「それに、今戻ったところで彼の怒りの度合いは変わらない。わたしも抜け出してきたからな」
片目を瞑ってニッと笑う顔は余裕だ。ファラミアがどれだけ厳しい態度で諫めようと、この父はまったく堪えていなさそうだ。エルダリオンはほんの少し、執政が気の毒になった。
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