青嵐[6]
第二環状区まで下りると、父はすぐに小路へ入り、鴨を象った看板が下がった扉の前で足を止めた。酒場のようだ。掃除中なのか、開け放された戸口から見える店内では、逆さまになった椅子がテーブルに乗せられていた。父は勝手知ったるふうで店の中へ入っていく。エルダリオンも後に続いた。
「すみません。まだ準備中で……」
前掛けをした若い男が振り返った。
「旦那……」
店主だろうか。父を見て、男は絶句した。
「久しぶりだな。元気そうで何よりだ」
「ええ……お久しぶりです。旦那もお元気そうで——」
店主はうれしそうに父の肩を抱いた。
「すぐにエールをご用意しますよ。ちょっと待ってくだされば、鴨のローストも」
いったいどういう付き合いなのか、店主はすっかり相好を崩している。父が市井に通じているのは知っているが、それにしても顔の広いことだ。
「ああ、ありがとう。——ところで、ちょっと訊きたいんだが、路地の向こうはまだ同じ借り手か?」
「ええ、同じでしょう。最近よく出入りしていますよ。昨日もそれらしい人を見かけました」
厨房へ向かいながら店主が答えた。
「そうか。上の部屋を貸してもらってもいいかな」
「どうぞどうぞ。お使いください」
厨房から返ってきた声はなんとも軽い調子だった。けれどその中に、父の申し出ならどんなことでも引き受けそうな信頼を感じた。
「父上——」
エルダリオンは階段を上りながら訊いた。
「いったいどういう知り合い?」
「ああ、ここの先代と付き合いがあったんだ。それで彼とも親しくさせてもらっている」
「えっ? じゃあ……あの人、父上の……」
エルダリオンは声を潜めた。
「職業、知ってるの?」
先代——あの若い店主の父親だろうか——から付き合いがあったのなら、相当古い知り合いということになる。だが、父の外見はほとんど変わっていないはずだ。自身も外見に年齢が現れにくいファラミアが、「陛下は即位なさった頃からお変わりになりません」と言うのだから。
ゴンドール人の中にもヌメノールの血が濃く出て、その身に流れる時間が遅い者はいる。だが、何十年経っても姿が変わらぬ者は少数だ。少し考えをめぐらせれば、どういう人間か察しが付くだろう。濃い血を受け継ぐ家系——王家や執政家に近い血筋だと。
「いや、さすがに知らないはずだ」
父は笑って首を振った。
「北のドゥネダインの端くれだと言ったことがあるから、それで納得しているようだ」
なるほどと、エルダリオンは頷いた。北方のドゥネダインは冥王が滅ぶまでの長い間、世間から隠れるように暮らしていた。身を潜める彼らは、同族以外と婚姻関係を結ぶことがほとんどなかったそうだ。
そのためか、今でもヌメノールの血の影響が濃く出る者が多く、比較的長寿で老いが現れるのも遅いと聞いた。市井の者を納得させるのに都合のいい話である。端くれではないが、父は彼ら一族の長だったから、まったくの嘘ではない。うまい言い方だと思った。
「先代には『何十年も生きているのに、若造扱いされるのも気の毒だな』と言われた」
父は懐かしそうに笑った。何十年どころか、即位したとき既に八十を過ぎていた父は今、百を超えている。けれど、せいぜい四十路前後にしか見えない。このままずっと変わらないのではないかと思う。エルフの母のように。
——二人の血を引いている自分も、そうなるのだろうか?
実感が湧かないまま、エルダリオンは先を上がる背中を見つめた。
◆◇◆◇◆◇◆
二階に上がると、父は扉の開いている部屋に入った。宿屋も営んでいるのか、壁際に寝台が二つ並んでいた。華やかさはないが、こざっぱりとした清潔な部屋だ。窓際にテーブルが置かれ、陽の光が古ぼけた木目を照らしていた。
父は窓からの眺めを確かめるように覗くと、満足そうに頷き、マントを脱いで腰を下ろした。エルダリオンもそれに倣い、椅子を引いた。窓際のテーブルからは、座っていても外の景色がよく見えた。もっとも、視界は向かいの建物に遮られ、遠くまで見通せるものではなかった。エルダリオンは伸び上がるようにして、歩いてきた小路を見下ろした。
子供の手を引く母親や、仲間とふざけ合いながら笑う若者が行き交い、花売りの屋台が通っていった。のどかな風景だ。賑やかさはないが、もの寂しさは感じない。ほっとする眺めである。こういうのを庶民的と言うのか、そう思って眺めていると「ところで——」と父が話を切り出した。
「なぜ、マエグヒアの館を見張っていたんだ? お前は昨日、襲撃者の身元に心当たりはないと、そうファラミアに話したんだろう?」
静かな問いかけにエルダリオンはたじろいだ。父の言うとおり、自分は昨日、襲撃者については何もわからないと言った。顔はほとんど布で覆われていて見えなかったから、エルダリオンに言えることといえば、初対面の男性で相当な遣い手だという、非常に大雑把なことでしかなかった。鷲の盾に四つ葉という、マエグヒア卿の紋章を思い出すまでは──。
「なぜ、昨日のうちにマエグヒアの家の者が係わっていると言わなかった?」
「……違う!」
隠していたのかと疑いの目を向けられて、エルダリオンは慌てて叫んだ。
「昨日は本当に心当たりなんてなかった。逃げるのに必死で、ブローチの紋章のことなんて頭になかった」
「ブローチの紋章? 襲撃者が付けていたブローチか?」
そうだとエルダリオンは頷いた。
「今朝……起きてから思い出したんだ」
「それで執政館を抜け出したのか」
フゥ……と、父は息を吐いた。
「思い出したのなら、わたしかファラミアに話すべきではないのか?」
エルダリオンに返す言葉はなかった。父の目を見ていられず、視線が下がる。俯いたエルダリオンの頭に、ぽんと温かな手が乗った。
「まあ……、日常的に執務室を抜け出しているわたしが言っても説得力に欠けるだろうが……」
父は苦笑交じりに己が行状を呟きながら、エルダリオンの頭をくしゃりと掻き混ぜた。
「お前はまだ十五だ。あまり無茶をするな」
やさしい声が“心配だ”と告げる。こう言われては、エルダリオンは何も言えなくなってしまう。自分の身の振り方が“国の将来”に係わる——その程度のことは漠然としてではあるが自覚していた。
「事件を自分の手で解決したいという気持ちはわからんでもない。だが、今のお前にできることは限られている。だから堂々と大人を頼れ。お前の年で大人を頼るのは恥じゃない。成長すれば嫌でも問題解決の仕方を覚えることになる。そのときは頼ろうと思っても『ご自分でなさいませ』と突き放されるぞ。頼れるのは今のうちだけだ。せいぜい頼っておけ」
「……そういうもの?」
説教と言うには妙な論調に、エルダリオンはぽかんと口を開けた。
「そんなものだ」
短く答えて、父はパイプを取り出した。「火が無いな」と呟いて席を立つ。どうやら説教はおしまいらしい。
父は煖炉の飾り棚にあった火打ち石と火打ち金を手に取ると、ジャッと二つを擦り合わせた。火口(ほぐち)に点いた火を素早くパイプに火を移す。パイプの先から煙が立ち上った。火口を煖炉に放り込んで揉み消した父はパイプに口を付け、ほぅと白い煙を吐いた。ゆったりした歩みで席に戻り、腰を下ろしながら窓の外に目を遣る。
「この界隈は夕暮れ時になると、がらりと雰囲気が変わる」
パイプを持っていないほうの父の指が、小路の——エルダリオンから見て背後にあたる——先を指した。
「この先の一画は花街になっている」
エルダリオンは「えっ」と声を上げ、腰を浮かして窓の外を見た。額に玻璃の冷たい感触が当たる。
「そんなに張りつくな」
父は苦笑してエルダリオンを玻璃から引き離し、話を続けた。
「だから、この界隈は夕暮れ時になると賑やかになる」
花街へ通う人間が集まってくるということだろう。確かに通りは賑わいそうだ。だが、それでは道が混雑するだけのような気がする。人はみな花街へ流れてしまって、この辺りの宿屋には入らないのではないだろうか。そう訊くと、父は「みながみな、見世に登楼(あが)るわけじゃない」と言った。
「……えーと、見るだけとか……?」
登楼しないということは、通りを歩き、美しく着飾った娘たちを窓越しに眺めて済ますということだろうか。エルダリオンが首を傾げると、父は「そうじゃない」と笑った。では、どういうことかと訊こうとしたとき──、
「お待たせしました」
張りのある声とともに、料理が運ばれてきた。
テーブルに鴨のロースト、ジャガイモと白身魚のフライ、数種類のチーズ、パンの入った篭が並べられていく。父の前にはエールのジョッキ、エルダリオンの前には甘い林檎の香り漂うジュースが置かれた。
「ありがとう。すまないな。急に押しかけたのに」
父が礼を言うと、店の主人は「お気になさらず」と笑った。
「水差しはあちらに——」
主人は寝台脇の小さな卓に水差しを置くと、「ごゆっくりどうぞ。用があったらお呼びください」と言い、扉を閉めて部屋を出ていった。
「父上——」
鴨のローストをナイフで切り分けながら、エルダリオンは口を開いた。
「さっきの話、『そうじゃない』ってどういう意味? 登楼しないのは見るだけの冷やかし客じゃないってこと?」
「まあ、冷やかしもいるだろうが……」
父は考えるように言って、白身魚のフライをつまんだ。
「花街と言っても、いろいろ格がある」
わかるか? と問われ、エルダリオンは頷いた。
「ミナス・ティリスでは普通、上層にある見世のほうが格が高い。妓楼だけでなく、宿屋や雑貨屋……他の店もだいたいそうだ」
最上層に王城があるミナス・ティリスでは、環状区が上がるのと同様に格が上がり、扱われる品も高級になる。それぐらいのことはエルダリオンも知るようになった。
「だが、中には例外もある。この先にある花街はその例外のひとつで、下層にしては上品だ——と言われている。まあ、荒んでないというわけだ」
パンをちぎりながら、父は言った。
「上品だが下層だから料金が安い。まあ、安いと言っても、この辺の相場よりは高いんだが、上層と比べればかなり安く遊べると評判だ。それで上層の見世では敷居が高い、かといって場末の女郎屋では浮いてしまうような連中——貴族や大店の子息が遊びに来る」
エルダリオンの脳裏に、剣術の兄弟子たちの顔が浮かんだ。馴染みの居酒屋ですっかりできあがっていた彼らは、あの後、馴染みの見世へ出かけたのかもしれない。
「良家の子息の夜遊びにはよく従者が付いてくる。従者にも羽根を伸ばさせてやる者もいるが、そういう主人は奇特だ。ほとんどの従者は見世の前で主人と別れる。その後、従者がどうするかと言えば——」
「この辺りに泊まる?」
エルダリオンが訊くと、父はそうだと頷いた。
「翌朝迎えに行くことを考えれば、近くで宿を取ったほうがいいからな。この辺りには、貴族が一件まるごと借り上げている建物もある。そこで仲間と落ち合ったり、従者を待機させたり……、花街へ通うためだけでなく、ミナス・ティリスと領地を行き来するときの準備などにも、いろいろ便利に使っているらしい」
そう言うと、父は窓の外に目を遣った。
「向かいを借りているのが、マエグヒア——お前がさっき見張っていた館の主だ」
「え?」
エルダリオンは驚いて、窓の外を見た。この都ならどこでも目にする、棟の連なった白い壁の建物だ。
「マエグヒアは先月の宴に出ていた。だが、彼はその後すぐに領地へ帰っている」
「じゃあ、今はミナス・ティリスにいない?」
エルダリオンは父を振り返る。父は「ああ」と頷いた。
「だが、三男のアエガシオンはいるらしい」
エールに口を付け、父は窓の外を一瞥して言った。
「じゃあ、向かいを使っているのは……」
「恐らく三男だろう」
父がエルダリオンの言葉を継ぐように言った。
エルダリオンはもう一度、向かいの家を見た。陽射しが白い壁をより輝かせる。そのまばゆさの中、白昼夢のように昨日の事件の映像が蘇った。黒衣の男が白刃を構え、斬りかかってくる……、エルダリオンの背がぶるりと震えた。
「あの子供を襲ったのも……?」
「本人ではないだろうが、アエガシオンの意を汲んだマエグヒアの家の者だろう」
エールを飲みながら父が言ったとき、向かいの家から背の高い人物が出てきた。黒いマントを羽織り、フードをかぶっている。
「どうだ?」
昨日の襲撃者かと、父が訊く。
「背格好は似ているけど……」
確信は持てないと、エルダリオンは首を振った。なにしろ自分は顔を見ていない。フードをかぶって覆面をしていた連中だ。正面から見たとしても、同一人物かはわからないだろう。
「だが、向こうはお前の顔を知っている」
杯を空けた父が言う。エルダリオンは頷いた。城の外ではフードをかぶるようにしているが、昨日は、掏摸の子供を取り押さえた際に払い除けられている。襲撃者と対面したときには顔をさらしていた。
「だから使える」
父は青灰色の目を細め、にっこりと笑った。
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