青嵐[7]
黒いマントを羽織った背の高い男が先を歩いていく。人通りが途切れたのを見て、エルダリオンは男に向かって駆け出した。追い抜きざま軽く肘を当てる。
「……っと、すみません!」
一瞬足を止めて振り返り、わざとフードを落として顔をさらした。
「……お前、昨日の!」
覆面の上に覗く淡灰色の目が大きく見開いた。それを見て取り、エルダリオンはすかさず身を翻した。石畳を蹴って猛然と走り出す。
「待て!」
鋭い声とともに、足音が追いかけてきた。目論見どおり──ではあるが、ここで捕まっては元も子もない。エルダリオンは懸命に走った。

——お前は足が速い。

男が歩いていくのを見ながら父が言った。昨日の襲撃者なら、エルダリオンの顔を見れば必ず追いかけてくる。それを捕らえるのだと。
つまり、囮になれということだ。危険は承知で付いてきたエルダリオンだったが、さすがに怯んだ。襲撃者の剣の腕は凄まじかった。顔を見せた途端に斬りかかられたら、果たしてかわしきれるか……自信がなかった。それにエルダリオンの足が速いと言っても、所詮子供の足である。

——確かに走るのは速いけど、向こうは大人じゃないか。敵わないよ。

辞退を申し出たが、父には通じなかった。

——短距離なら大丈夫だ。日頃、近衛隊相手に鍛えているんだ。今こそ、その成果を活かすときだ。

近衛兵に追いかけまわされていることを根拠に太鼓判を押され、「お前ならできる」と肩を叩かれた。近衛兵に追いかけられるのは脱走がバレてのことで、足を鍛えているわけではないのだが……。

——もし、斬りかかられたら? 受けきれないよ。

太刀打ちできないことを訴えたら、

—— 一撃目はなんとかして避けろ。

ありがたい言葉が返ってきた。我が父はときどき薄情なぐらい冷たい。

——二撃目は?
——わたしが防ぐ。
——それって、父上は近くにいるってこと?

訊いてみたが、エルダリオンの問いに対する答えはなく、ただ「見殺しにはせんから心配するな」とだけ言われた。

——目印は猫の看板だ。転ぶなよ。

ぽんと背を叩く手に送り出され、エルダリオンは男に向かって駆け出したのだった。
父の読みは当たり、男はエルダリオンを追いかけてきた。昨日の子供が都合よく姿を現したことに、何の疑念も抱いていないようだ。
前方に目印だと教えられた猫の看板が見えてきた。小路との角地に立つ宿屋である。エルダリオンは足を速め、脇の小路に飛び込んだ。程なくして、黒マントも飛び込んできた。が——、
ガッ、ドサ……。
鈍い音を立てて、男は石畳に倒れ伏した。
「軽くぶつかっただけの子供を、血相変えて追いまわすとは——」
男の足を引っかけた父がのんびりと言う。
「大人げないな」
「何を……!」
唸って立ち上がるや、男は剣を抜いた。
「お前には関係のないことだ。余計な手出しをするな!」
怒号とともに踏み込みがあり、剣が突き出された。父が素早く一歩飛び退く。
「なるほど、さすがにいい腕をしている」
退がっていろと言うように、父はエルダリオンに手を振った。
「手を出さないほうが賢明なのは承知だが——」
父がすらりと剣を抜いた。
「あいにく、これはわたしの息子でな。見殺しにはできないんだ」
言い終わるのと、地を蹴るのとどちらが早かったか、父は黒マントの懐に飛び込んだ。
キィン!
黒マントの剣が父の攻撃を受け止めた。睨み合って膠着状態になるかと思いきや、双方が素早く離れた。だが、父は間髪入れず、再び踏み込んだ。黒マントも再度父の打ち込みを受け止める。けれど、今度はそこで父の動きは止まらなかった。
タンッと石畳を蹴る乾いた音がしたかと思うと、父の身体が交差した剣を支点にして、逆立ちをするように浮き上がったのだ。
——な……。
まん丸に開いたエルダリオンの目に、父の身体が黒マントの頭上で一回転するのが映った。飛び越しながら、父の足は正確に敵の頭をとらえる。
ドウッ!
二人はもつれるようにして地に落ちた。受け身を取った父は即座に起き上がり、剣を構えた。だが、黒マントは起き上がらない。父は慎重に黒マントに近づき、気絶していることを確認すると、静かに息を吐いて剣をおさめた。懐から革ひもを取り出し、男の手首を拘束しにかかる。
「……父上」
「ん?」
「今の技は……」
エルダリオンはたった今、目の前で繰り広げられた曲芸について訊いた。あんなふうに打ち合った剣を支えにして跳び上がるなんて……。
「ああ、昔エルフがやってたのを見よう見まねで覚えたんだ」
苦笑しながら父が答えた。
「もっとも、大人になってからは滅多に使わなくなった。久しぶりにやってこのザマだ。子供の頃はうまく着地できていたものだが……今は身が重くてだめだな」
男の腕を縛り上げ、隠された武器がないか調べながら父は自嘲気味に笑った。
「そんなことない。すごかった」
エルダリオンが言うと、「そうか?」と父は軽く首を傾げた。
「お前が感心してくれたのなら、披露した甲斐があったな」
小さく笑って、ぽんとエルダリオンの頭に手を置いた。
「さっきの宿屋に行って、荷車を借りてきてくれ」
そう言うと、父は男に猿ぐつわをはめにかかった。エルダリオンは軽く頷き、来た道を駆け戻った。これで襲撃者の一人は捕らえた。
——これからどうなるのだろう。
父は、そしてファラミアはどう動くだろう。走るエルダリオンの目に、鴨を象った看板が見えてきた。
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