青嵐[8]
窓から入る陽射しがオレンジ色を帯びてきた。床に落ちた自分の影が長い。もうじき暮れのトランペットが鳴るだろう。誰もがほっと息を吐く、夕刻のひとときのはずだが、今のエルダリオンには縁遠い話だった。煖炉で暖められているはずの部屋なのに、なんだか寒気を感じる。それもそのはず、寒気の発生源は眼前の男——ファラミアだった。
「陛下は昨夜、ご自身が仰せになったことを憶えてらっしゃいますか?」
冷え冷えとした声が床に落ちる。国王と王太子が二人揃って姿をくらまし、大立ち回りをやって戻れば、この執政の叱責は予想できた。しかし、父とエルダリオンを迎えたファラミアの怒りは、予想を遙かに上回っており、碧い二つの瞳には剣呑な光が浮かんでいた。
「昨夜、陛下はおっしゃいませんでしたか? 殿下が妙なことに興味を覚えないよう気をつけると」
「言った」
「それなのに、殿下の無断外出をお叱りになるどころか、そそのかして囮になさった挙げ句、ご一緒に危ない橋を渡るとは——」
ファラミアの眉がキリとつり上がる。
「いったい何をお考えなのです!」
厳しい声にエルダリオンはぶるりと震えた。隣の父も神妙な顔をしている。
「すまない。以後慎む」
父が反省の言葉を口にした。けれど、ファラミアの怒気は鎮まらなかった。
「いったい何度そのお言葉を聞いたことでしょう。陛下は憶えておいでですか? ご自身が何度そのお言葉を口になさったか」
エルダリオンの服の下で、冷たい汗が背や脇をつたい落ちていく。
「すまん、憶えてない」
莫迦正直に父が答える。ファラミアの唇が三日月を描くのを見て取り、エルダリオンは目を逸らした。
「さようでございますか。実はわたしも憶えておりません。数えきれないほど拝聴して参りましたので」
「そうか。あなたのことだから勘定しているんじゃないかと思ったが」
小首を傾げながら父が言った。この状況で言うことではない。隣で聞いていたエルダリオンの背で、また冷や汗が流れた。ちらりとファラミアを見遣れば、その碧い瞳が厭なふうにきらめいた。
「一度思い立って数えていた時期もございましたが、五十回を超えたあたりで飽きてしまいまして……」
口調も言葉遣いも丁寧だが、目が笑っていない。前方から冷気が漂ってくる。早く解放してほしい──そう願うエルダリオンの耳に、状況にそぐわないのんきな台詞が聞こえた。
「あなたも飽きることがあるのか」
発言者を横目で窺えば、さっきまでの神妙な顔はどこへやら、ぱちぱちと青灰色の目をしばたたかせている。
「ついでに、わたしをこうして叱るのも飽きてくれたら良かったんだが」
エルダリオンは愕然とした。なぜ、この人はわざわざ火に油を注ぐ——いや、凍気が増すようなことを言うのだろう。
「それだけはあり得ませんね」
にこっと笑ったファラミアの背後に、冬空を見たような気がして、エルダリオンは身震いした。この分ではまだ叱責が続きそうだと絶望的な気分になる。だが、その後に聞こえた言葉は、エルダリオンの予想を裏切るものだった。
「ですが、今はこれぐらいにしておきましょうか」
表情を緩めたファラミアは部屋の外で待機していた侍従を呼び、「殿下をお送りしてくれ」と命じた。急展開に驚き、エルダリオンがファラミアの顔を見ると、そこにはいつもの“穏やかな笑みを浮かべた有能な執政官”が立っていた。
「行っていいのか?」
恐る恐る尋ねると、彼は小さく苦笑し、エルダリオンの前で膝を付いた。
「殿下はわたしの申し上げたことをご理解くださったと思いますので」
「ああ、うん。おとなしくしている」
エルダリオンは殊勝に頷いた。
「ありがとうございます。殿下にご理解いただき、大変うれしく思います」
慇懃な態度だが、その笑顔が怖い。エルダリオンが固まっていると、ファラミアは立ち上がり、エルダリオンの背をそっと押した。
「お疲れでしょう。ゆっくりお休みください」
エルダリオンを部屋の外へ促す。
「父上は……?」
戸口で振り返って問うと、ファラミアはにっこりと笑った。
「まだお話がございますので、もう少々お借りしますね」
黙って頷く以外、エルダリオンにできることはなかった。