交渉と戦略[1][2][3][4]

交渉と戦略[2]
残照の淡い光が空から消え、大地は夜の闇に沈んだ。今夜は新月だ。銀の花の光に照らされることはない。
ファラミアはフクロウの鳴き声を真似、潜んでいる野伏たちに合図を送った。近くの木立ちからホッホーホーと応える声が聞こえ、微かに茂みが揺れた。砦の建つ丘へ向かって、背の低い草地にザザッと音が走る。
木立ちから一リーグ、身を隠す場所のない草原を闇に紛れて突っ切り、丘の側まで辿り着いた。ギリギリまで近づいたところで、一旦草むらに身を伏せて止まる。
打ち合わせどおり、三人が空堀へ向かった。一人が見張る中、二人は堀端に杭を差し込み、ロープを結んで下りていった。しばらくすると、チチチッとネズミの鳴き真似が聞こえてきた。それを合図に二人が身を起こした。空堀へ走り、前の二人と同じく堀を下りていった。
砦は篝火が赤々と焚かれ、戦支度に余念がないことが窺えるが、準備に奔走する物々しい物音もここまでは伝わってこない。暗い草原は静まり返り、自分の息遣いがやけに大きく聞こえる。向こう側で堀を登るのに手間取っているのか、はたまたレンガの壁を越える算段が付かないのか、後続の二人が行ってからなかなか合図は聞こえてこなかった。じりじりと時間が過ぎる。
ファラミアは気を落ち着けるため、すっと息を吸った。騒ぎが起こっていないことから、発見されていないとわかっているが、やはり気が揉める。緊張が高まる中、ひたすら耳を澄まして窺っていると——、
チュッ、チチチッ……。
待っていた合図が聞こえた。
「行くぞ」
ファラミアは静かに短い命令を発し、身を起こした。身を屈めて空堀へ走る。ロープをつたって堀を下り、底を渡った向こう側で同じくロープを頼りによじ登った。
「壁は越えられそうか?」
尋ねると、思いがけない言葉が返ってきた。
「あちらにくぐり戸があります」
ファラミアは眉を顰めた。そうした戸から入れるのはありがたいが、臨戦態勢の砦としてはあまりに簡単過ぎる。
「敵は?」
罠ではないのかと訝しんだが、部下はきっぱりと答えた。
「近くにはおりません」
警戒が緩いのは、こちらが間近まで軍を進めていないせいなのか。油断はできないが、今は進むことが重要だ。ファラミアは壁に沿って進み、小さな戸をくぐった。三方をレンガの壁に囲まれた場所に出る。天井が無いから部屋ではないのだろうが、くぐり戸とは反対側に扉の無い開口部がある。廃棄物の集積所なのか、何かの残骸らしき物が見えた。ファラミアは入り口で見張っている野伏に近づいた。
「見張りは?」
「周囲にはいません」
「そうか」
ファラミアは戸をくぐってきた十数名の野伏を振り返った。ここからが勝負だ。
「打ち合わせどおり四班に分かれる。一班は砦に火を放つ。残る三班は跳ね橋、中腹の門、西側の見張り塔を押さえる。砦から火の手が上がったら、見張り塔から本隊へ合図を出せ」
呆れるほど大雑把な作戦だが、短期間で砦を落とすには内部から崩すしかない。エレスサールは危険が大き過ぎると乗り気ではなかった。しかし、他にこれといった策もない。何より、躊躇って様子を見ているうちに敵の援軍が着いてしまったら、こちらは終わりなのだ。主君は渋々承知した。ひとつの条件を付けて——。
「ただし、不測の事態が起きた場合は速やかに撤退しろ。いいな」
これがエレスサールの条件だった。
——必ず生きて戻ってくれ。
気遣う声が脳裏にこだまする。必ずとファラミアは答えた。だから、必ず全員連れて帰る。
「我々の役目は味方が勝利するための足がかりをつくることだ。ここで死ぬことではない。いいな」
野伏たちは軽く頷くと、班ごとに分かれて闇に消えていった。彼らが門や見張り塔を押さえる。ファラミアも残りの者を引き連れ、砦へ向かおうとしたが、確かめるように部下を振り返ったところで足が止まった。
「……待て」
最後尾に続こうとする野伏に違和感を覚えた。彼が帯びている剣に目を見張る。そのすらりとした姿がこの場にあることに目眩を覚えた。フードの下を覗き込み、覆面に手をかける。青灰色の目がきまり悪げに逸らされた。
「なぜ、あなたがここにいらっしゃるのです」
「執政殿がいるのも問題だと思うぞ」
主君は小さな声で、けれど、しっかりファラミアの規律違反を指摘した。
「わたしはあなたが陣を離れることを許可していない」
ファラミアは目をすがめた。確かに自分は陣を離れる許可を得ていない。大雑把で危険の高い作戦に部下を送り込み、安全圏で待っていることに自分を納得させられなかった。その私情から動いたのだから処罰対象になる。それはいい。だが——、
それは国王が作戦に参加する理由にならないだろう!
と、言いたいのを堪え、ファラミアは素早く計算した。ここで「戻れ」「戻らない」と押し問答をしている時間はない。既に作戦は動いている。それに「戻る」という答えを引き出したところで、本当に陣へ引き返してくれるか怪しいものだ。それならば、行動を共にし、目の届くところに居てもらったほうが精神衛生に良い。
「わかりました。わたしが無断で陣を離れたことについては、この戦いが終わったら処分を受けましょう。ですから、今は砦に向かう。よろしいですね」
お互い相手の行動を黙認しようという提案だ。
「了解した」
エレスサールは淡い笑みを浮かべ、覆面を引き上げた。
「行くぞ」
成り行きを無言で見守っていた部下に声をかけ、ファラミアは壁に囲まれた空間から駆け出した。
◆◇◆◇◆◇◆
幾つかの柵を越えた後、中腹でレンガを積み上げた壁が立ちはだかった。ロープを掛けて乗り越えようと話していたとき、暗闇から「ファラミア様」と呼ぶ声が聞こえた。目を凝らせば、中腹の門を制圧しに行った野伏の一人がレンガの壁から顔を出していた。男でもなんとか通れる程度の穴が空いている。
「崩れているのを見つけまして。まあ、少々広げさせてもらいましたが……」
そう言いながら、野伏は顔を引っ込めた。ずいぶん都合のいい話もあったものだ。だが、使わない手はない。ファラミアたちは素早く崩れた箇所をくぐり抜けた。ここから先が砦の中枢だ。星空の下、頂上に向かって建物が連なっているのが見える。
「さっき見廻りが通ったんで、大丈夫とは思いますが……」
招き入れてくれた野伏が用心深く周囲を窺った。さすがに壁のこちら側は警戒が厳しいようだ。
「この穴は怪しまれなかったのか?」
「なんとか……。まあ、早急に塞ぐよう話していましたが」
それはそうだろう。
「あっちが門か?」
エレスサールが左手を見遣って訊いた。目の前では二方向に道が伸びている。左手は門の方向。そして、もう一方は数歩直進して右に折れている。砦に向かうならどちらへ進むべきか……。
こうした砦を取り巻く建築物は一気に攻め入れられないよう、敵を迷わせるつくりになっている。この情況で迷って敵に見つかったら、まず生きて戻れまい。
——無事に辿り着けるか……。
ファラミアは砦の篝火を睨んだ。
「門のほうはどうなってる?」
「支度は整っています」
野伏は即答した。ここから門までの経路はわかっているらしい。
「様子を探っていたら、もうすぐ交替だという話が聞こえたので……」
その後、作戦を実行するというわけだ。
「よし、それを使おう」
唐突にエレスサールが言った。
「交替した連中に案内してもらえばいい」
「つまり、見張り番を終えた兵士の後を尾けるということですか?」
そうだと、エレスサールが頷く。
「ですが、砦に戻るという保証はありませんよ」
任務を終えた兵士なら、戻る先は寝泊まりする場所かもしれない。しかし、エレスサールは事も無げに言った。
「確かに保証はないが、近づける可能性はある。もし、外れた方向へ行くようだったら、脅して案内させる手もある」
無茶苦茶である。いきあたりばったりにも程があるというものだ。だが、そんな作戦をはじめたのがファラミア自身であることも確かだった。既に各班が散っている今、引き返すことはできない。
——やはり、先程、追い返すべきだった。
主君に対してそんなことを思いながら、ファラミアは野伏を振り返った。
「門へ案内してくれ」
◆◇◆◇◆◇◆
敵方の門番が帰るのを尾け、ファラミアたちはなんとか砦近くまで辿り着いた。正面には門があったが、他の箇所は特に柵もなく、物陰に隠れながらある程度まで近づくことは難しくなかった。だが、そこからが問題だった。要所要所には篝火が焚かれ、見張りが立っている。さすがにここの警戒は厳重だ。
「あれは食糧庫でしょうか」
砦の北西に並ぶ建物を指し、同行の野伏が言った。篝火に照らされたその建物の脇に、幾つもの樽が置いてある。酒樽に見えなくもないが、決めつけるのは危険だ。
「倉庫だとは思うが……」
ファラミアは考えながら呟いた。
「中身が何にせよ、火をかけるなら、あそこだな」
エレスサールが冷静に言った。騒ぎを起こすのが目的なのだから、砦そのものに火を付ける必要はない。だが、倉庫群に近づけば、位置的に見張りの目に留まる。篝火に照らされていては躱しきれない。
「ここから先、見つからずに行動するのは難しい」
ファラミアが思ったとおりのことをエレスサールが言った。同行していた者たちも頷く。だが、続いた言葉は、その場の誰もが頷けない内容だった。
「だからまず、わたしが見張りを引きつける」
「それはなりません!」
ファラミアは慌てた。部下たちも目を剥いている。
「ファラミア。手段を選んでいる場合ではない」
「だからといって——」
主君を囮にするなど、頷けるものではない。
「ついでに揉めている場合でもない。ここで火をかけられなかったら、わたしたちは国に帰ることすら危うくなる。来るときはツイていたが、このまま引き返して無事に戻れる保証はない」
「ですが……」
「他の班の者たちは既に動いているはずだ。わたしたちが何もせずに引き返したら、彼らの命が危ない」
言われて、ファラミアは返す言葉を失った。この無謀な作戦を命じたのは自分なのだ。見殺しにするような真似はできない。
「わたしは犠牲になるために囮を引き受けるわけじゃない。ここに来た者たちを全員、国に連れて帰るためだ」
青い瞳に厳しい光が浮かぶ。それをまともに見られず、ファラミアは俯いた。そんなファラミアの肩に、あたたかな手がぽんと乗った。
「あなたはわたしの身ばかり心配しているが、火を付けたら、今度はあなた方が敵の目を集めることになる。わたしの役回りより遙かに危険だぞ」
「それは覚悟の上です」
ファラミアは笑って答えた。エレスサールの唇もニッと笑みを形づくる。
「では行くか」
短い言葉を残し、主は物陰をつたってファラミアたちから離れていった。しばらくして、離れた場所から黒い影が飛び出した。敵の見張りが反応する。間髪入れずに怒号が飛び交い、角笛が鳴り響いた。
「ファラミア様……」
部下たちが不安げに顔を見合わせる。他に良策が無いとはいえ、国王を囮にすることは心情的にどうしても納得できないのだろう。しかし、ここでぐずぐずしていては、エレスサールの行為が無駄になる。ファラミアはきっぱりと命じた。
「お前たちは倉庫へ向かえ」
部下たちは息を呑んだが、素直に倉庫へ移動をはじめた。その背中に声をかける。
「後を頼む」
返事を待たずにファラミアは主の後を追った。
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「そんな無謀な作戦があるか!(怒)」とか「そんなに都合良く入り込めるか!(憤)」って感じですが……まあ、シロートの書くものということでご容赦くださいm(_ _)m