交渉と戦略[4]
——砦にゴンドールの旗が掲げられております。
斥候の報せに、集まったハラドの将たちはざわめいた。
ハルネン川より撤退の報には落胆したが、あの砦に引き付けたと知って、まだ勝機はあると誰もが思った。
あの砦は落とすのは容易ではない。ゴンドール軍は苦戦を強いられる。自分たちがその後背を突いて退路を断ち、砦の者と挟み撃ちにする——そのつもりで出陣してきたのだ。それがどうしたことか。
軍議は紛糾した。無闇に近づくべからずという意見、ここまで来てすごすごと引き返すのかと憤慨する意見、二つに割れた。
結局、最長老の将の意見を聞き入れ、砦まで軍を進めることになった。ここで引き返してしまっては、援軍を頼んだ砦の者たちを見捨てることになる。そう言われれば、進軍に消極的だった者たちも従うしかなかった。これで頑なに進軍を拒めば、自領に何かあったときに見捨てられる恐れが出てくるからだ。
ゴンドール側の援軍を警戒しつつ進み、夜を待って砦の西の木立へ移動した。星の光が薄れ、空が白みはじめた頃、砦へ向かって進軍を開始した。
斥候の報告どおり、塔には黒地に白い樹木をしるしたゴンドールの旗がたなびいていた。それだけではない、砦のいたるところでゴンドールの旗がはためき、銀の兜をかぶった人影が見える。
ハラドの将たちは草原の中ほどで行進を止めた。この位置なら、砦からの矢は届かない。あちらから攻撃を仕掛けるには、砦を出てこなければならない。引きずり出してしまえば勝機はある。
しかし、そう思ったのも束の間、背後で角笛の音が響き渡った。振り返れば、黒地に白い木の柄の旗を掲げた軍団が、木立を抜けて進んでくるところだった。
——いつの間に……。
兵士たちはざわつきながら、不安げに左右を見まわした。だが、挟撃された軍に逃げ場などあるわけがない。ハラドリムの誰もが負けを悟ったとき、砦の門が開き、ゴンドールの旗を掲げて騎馬が二騎駆けてきた。
この情況で遣わされる者の用事は決まっている。思ったとおり、使者は西方語と酷い発音のハラドの言葉で、和議を結ぶ用意があるという型どおりの口上を述べた。
◆◇◆◇◆◇◆
近ハラドの砦での戦いから十日、和議に関する処理を終えたファラミアは、戦いの発端となったハルネン川の西岸にある砦に戻った。一足先にエレスサールが引き返していたが、性格上おとなしくしているはずもなく、城壁の修復や傷病兵の手当てに立ち働き、周囲の者を慌てさせていた。
エレスサールらしいことではあるが、そういったことに集中するあまり自分の食事を疎かにしてしまうところが問題だ。夕刻になっても食事を取ろうとしない主君を、ファラミアが襟首を引っつかんで貴賓室に連れ戻したのは当然の処置だった。そんないきさつがあったため、和議の最終結果の報告はエレスサールがきちんと食事を取ってからになった。
「ハルネン川から二リーグか……。本当に人が悪いな、執政殿は」
署名された停戦合意の文書を眺めて、エレスサールが人聞きの悪いことを呟いた。
「お気に召しませんか」
ファラミアは玻璃の杯に葡萄酒を注ぎながら、慇懃に訊いた。エレスサールはすぐに「まさか」と首を振った。
「見事だ」
「恐れ入ります」
ファラミアは軽く頭を下げ、杯をエレスサールに渡した。
「だが、よく向こうが承知したな」
「砦までの土地を割譲しろと言われるより、マシだと思ったのでしょう」
酒を注いだ杯を差し出しつつ、ファラミアは答えた。ハルネン川から東へ何リーグかの土地をゴンドールに割譲すること——それが和議を結ぶ際、ハラド側に提示した条件だった。戦況が圧倒的に不利だと認識したハラド側は大してごねることなく条件を呑み、最終的に二リーグという彼らの思惑より少ない数字に頷いた。
「しかし、川沿いを二リーグ分のほうが大きいだろう。なにしろ上流から下流までだ。砦までなら部分的な割譲で済む。わたしがだったら、そっちを選ぶがな」
エレスサールが計算高いことを言う。
「彼らは陛下ではありませんから」
酒肴のチーズを切り分けながら、ファラミアは微笑した。
「それに、五年で返却するという期限付きです」
五年間、ハラドとの関係が良好ならば、五年後に友好の証として返却する。万が一、両国の間に争いが生じたならば、和議はその時を以て破棄される——そういう取り決めだ。五年あれば、今回の戦いで被った出費も充分に購える。
割譲と言っても住人を追い出すつもりはない。ゴンドールの法律を守り、ゴンドールに税を納めて暮らすなら、官の立場から細かいことを言うつもりはない。
「まあ、そうだな。五年で返ってくるなら惜しむこともないか」
エレスサールが鷹揚に頷いた。
「ええ」
そう、誰もが思うだろう——五年ならばと。そこが狙いだった。これが半永久的な割譲となったら、取られたままにしておくものかと、間を置かずして戦を仕掛けられる恐れがある。
「だが、砦に並んだあの甲冑の多くが実はハリボテだったと知ったら、彼らは和議に応じたことを悔やむだろうな」
エレスサールが意味ありげにファラミアを見遣った。主の言うとおり、あのとき砦に並んだ兵士の大半は木偶に甲冑をかぶせたハリボテだった。中には兜だけだったものもある。甲冑を並べて兵の数を水増しし、自由に動ける兵力を確保した。それでようやく挟撃の体裁を整えたのだ。
「旗の多くが急ごしらえのいい加減なものだったことも含めて——ですね」
塔に掲げた旗は本物の王旗で、騎馬隊や大門に掲げたものもれっきとした軍旗だったが、砦に飾り立てた多くの旗は、黒い布地に白い顔料で木の模様を描いた急ごしらえの品だった。
「本当に執政殿は人が悪い」
そう言いながら、エレスサールこそ人の悪い笑みを浮かべている。
「陛下も似たようなことをお考えだったのでは?」
「あなたほど、あくどくないさ」
エレスサールは済ました顔で杯に口を付けた。ファラミアは「おや」と片眉を上げた。
「陛下はわたしをあくどい人間だと、そう思ってらっしゃるわけですか」
「違ったかな」
そう言って首を傾げる口許には、いたずらっぽい笑みが浮かんでいる。からかっているのだ。これで他人のことを人が悪いと言うのだから呆れてしまう。
しかし、主がそういうつもりなら、乗って差し上げるのが親切というものだろう。ファラミアは葡萄酒で口を湿してからおもむろに言った。
「いつだったか、“高潔な人物だ”とのお言葉を賜った記憶がございますが……」
さも心外だという顔で首を緩く振ってみせ、エレスサールに近づく。けれど、そこで主を責めることはせず、「まあいいでしょう」と諦めたように息を吐いた。エレスサールはまったく警戒せず、にこやかに笑っている。いい調子だ。肝心なのはここからである。
「ですが——」
ファラミアはすっと主の座る長椅子の背に右手を付いた。
「あくどいとお思いなら、その期待にお応えせねばなりませんね」
左手でするりと頬を撫でつつ、耳許に囁く。余裕だった主の顔が一変した。
「い、いや、何も無理して応えてくれなくても……」
長い足をを縮め、じりじりと横へずれていく。それを長椅子の端に追い詰め、肩に手をかけたとき、エレスサールが言った。
「あ、そうだ、ファラミア。もう一つ話がある」
「なんです?」
「規律違反のことだ」
告げられた単語に、ファラミアは動きを止めた。このタイミングで聞くとはなんと間の悪い。この件を先に片づけておかなかった自分に舌打ちしたくなった。だが、きちんと処分を受けると自分で言った手前、聞かざるを得ない。ファラミアはエレスサールの傍らに膝を付いた。
「お伺いしましょう」
ほっと息を吐き、エレスサールは口を開いた。
「重責の身でありながら独断で陣を離れたことに対し、一ヶ月の謹慎処分とする」
淡々とした声が落ちる。一ヶ月という期間にファラミアは声も無く唸った。過ぎてしまえば短いが、その間、主の声すら聞けぬ——と、暗い思考に落ちかかったとき、「ただし——」という言葉が聞こえた。
「結果的に自軍の勝利に貢献したこと、また国王も勝手な振る舞いをしたことを鑑み不問にする——というのが、将軍たちにも相談した結果だ」
とん、とエレスサールがファラミアの肩を叩いた。ファラミアはふっと安堵の息を吐いた。
「寛大なご処分、感謝いたします」
「いや、あなたに一ヶ月も謹慎されたら、政務がまわらなくなるからな」
エレスサールが笑った。
「将軍たちもそこを考えたんだろう」
「そんなことはないでしょう」
ファラミアは立ち上がった。エレスサールの隣に腰を下ろし、葡萄酒の残る杯へ手を伸ばす。それに口を付けながら、ふと思いついたことを訊いてみた。
「ところで、陛下がなさった勝手な振る舞いについては、どのような結果になりました?」
途端、エレスサールの口が「え?」という形に開いた。
「そ、それは……」
慌てた様子でもごもごと口を動かす。どうやらまずいことを尋ねたようだ。主は明らかに動揺している。
「それは?」
ファラミアは努めて自然な口調で問いかけた。だが、頭の中では計算がはじまっている。この状況で彼にとってまずいことは、自分にとって朗報なのだと。
「その……」
エレスサールがもぞりと口を動かす。しかし、言葉はすぐ途切れた。
「その?」
再び問いかけたが、主は考え込むように黙り込んでしまった。考えさせるのは良くない。相手はファラミアの倍以上生きているのだ。年の功で思わぬ突破口を発見する恐れがある。ここは返答を急かすのが得策である。
ファラミアは主の手を取り、誠実さを心がけて言った。
「おっしゃってください。何の処置も無いという結果でも、わたしは異議を唱えませんよ」
「いや、処置はあるんだが……」
「どのような?」
「その……執政殿に一任すると……そう将軍たちは言ったんだ」
エレスサールは観念したように言った。
——なるほど。
主が言い渋ったのも頷ける。将軍たちはただ単に、国王に対して厳しい態度を取れるのがファラミアだから、それで任せると言ったまでなのだろう。
だが、エレスサールにとっては任せてしまったら、どういう処置が取られるか想像したくない相手である。できればファラミアに知られたくなかったに違いない。こちらが尋ねるまで口にしなかったことを考えると、隠しとおすつもりだったのではないだろうか。
それが、ファラミアの邪な行動を止める口実に使った、規律違反処分の告知が発端となってバレてしまったのだから、まさに墓穴を掘ったと言える。ファラミアは顔が笑うのを堪えられなかった。
「確かに承りました」
ファラミアは満面の笑みで答えた。長椅子から逃げ出そうとしているエレスサールの腕をつかみ、そっと顎に指をかける。
「任せていただきましょう」
唇を寄せようとしたが、諦めの悪い主はガシッとファラミアの顎を押し返した。
「……ちょ、ちょっと待て。わたしは明日、ミナス・ティリスへ発つんだ」
動けなくなったら困ると、引き攣った顔で言う。
「ご心配なく。加減して差し上げます」
ファラミアは目を細め、やさしい声で告げた。
「それに、アンドゥインまで出れば、その後は船ですから、少々足腰が立たなくても問題ありませんよ」
「アンドゥインまでは馬…………ん……」
ごちゃごちゃと反論を続ける口を、ファラミアは物理的に塞いだ。腰を引き寄せながら背を反らせ、バランスを崩した痩身を倒す。じたばたと動く足を膝で押さえ、起き上がろうとする肩に手を付いた。
「……他の処置は無いのか」
ため息交じりにエレスサールが言った。
「ございますよ」
ファラミアはにこりと笑む。
「ミナス・ティリスへお戻りになったら、当分執務室にこもっていただくことになるでしょう」
エレスサールの顔に訊くんじゃなかったという表情が浮かんだ。だが、身体から力を抜いたところを見ると、もう抵抗する気はなくなったらしい。ファラミアは再び主に口づけた。ぴくんと反応する痩躯を抱きながら、胸の内でそっと呟く。
交渉を有利に進めるための戦略は、何事においても真に重要だと——。
やがて貴賓室は、およそ国境の砦には似つかわしくない甘い吐息で満たされていった。
END
<[3]
臨戦態勢ではありませんが、これで万が一「敵襲!」となったら、この二人どうするんでしょうね(笑)。まあ、そんなタイミングで襲撃した敵は、イイところを邪魔された執政閣下の怒りで凍りつくことになるかもしれませんが……って、軍隊要らねーじゃん、ファ。<人間扱いしてやれよ……
えっと、ゆびわの距離単位のリーグですが、「中つ国」歴史地図では
1リーグ=3マイル
の換算になっています。1マイル=1.609キロなので、
1リーグ=4.828キロ
の計算で書いてみました。
つまり、ファは「川沿い10キロ弱(9.656キロ)の土地、全部もらうから。よろしく」と言ったわけですね。うわっ、あくど……。
リク内容は「戦後の和平交渉に力を尽くす」だったのですが、いかにごり押しの要求を通すかっつー話に……。でもまあ、それが外交というものでしょう。
けど、あまり無茶な要求ばかりしていると窮鼠猫を噛むで、思いがけない反撃をされて大事なものを失うことになります。ほどほどにしておきましょう(何の話だ)。
えっと、ゆびわの距離単位のリーグですが、「中つ国」歴史地図では
1リーグ=3マイル
の換算になっています。1マイル=1.609キロなので、
1リーグ=4.828キロ
の計算で書いてみました。
つまり、ファは「川沿い10キロ弱(9.656キロ)の土地、全部もらうから。よろしく」と言ったわけですね。うわっ、あくど……。
リク内容は「戦後の和平交渉に力を尽くす」だったのですが、いかにごり押しの要求を通すかっつー話に……。でもまあ、それが外交というものでしょう。
けど、あまり無茶な要求ばかりしていると窮鼠猫を噛むで、思いがけない反撃をされて大事なものを失うことになります。ほどほどにしておきましょう(何の話だ)。